心のオアシス
心のオアシス 2025年8月17日
日曜日は午後礼拝後も残っている学生たちと話すことがあるが、中にはこの世の価値観を持った学校の友人たちとの話題の内容に共感できないことがあるという悩みのようなことを吐露している時もある。大学生になるとある意味親からの束縛もなくなり、知恵や知識も増えてできることが広がり、自立心が芽生え自分のしたいことをする、いわゆる自分ファーストの考えが強くなってくる。これはまるで聖書に描かれている人類最初の人であったアダムとエバが知恵の木の実を食べて、自分の夢をかなえ、自分の欲望に生き始めて堕落した姿のようである。他者ではなく、自分が得をするか損をするかで物事を決断していく様である。
ある企業の経営者の本に「自分の儲けのために頑張ったら、一時的には儲かるかもしれないが長続きはしない。しかし自分のことより他者が必要とし得をすることを優先に考える商売は、結果的にはいつの間にかお金が入ってきたということに繋がり長続きする」と書かれていた。これは聖書の原則であって、自分中心主義は個人であっても国であっても長続きはしない。それは歴史が証明している。そのような意味において聖書によって養われている若者は遠回りせずに祝福された人生を歩むことができる。この世に生きる上では価値観や倫理観の違いでの葛藤は覚えるであろう。神の約束の土地カナンに入ったイスラエルの民は、自分中心と人が作った偶像の神に仕える文化と、そこからくる乱れた道徳観を持った先住民と共存しなければならないし、その影響を受けないように注意もしなければならなかった。しかしイスラエルは先住民に妥協し紀元前586年には国を失ってしまった。これは神を信じる者が世の中に片足を突っ込みながら生きていかなければならない危険性を描いている。
“自己実現”とは自分で定めた目標を目指すことであり、“神実現”とは既に神があなたに与えている目的に向かって進むことである。どちらが得か?前者は、まだ成り得ていない自分に到達しなければならないが、後者は、神によって創造された最高の自分からスタートできるのである。
神が創造された本来の立場を回復するだけであなたは成功なのである。
心のオアシス 2025年8月10日
先週、尿管結石砕石術を受けたが、入院初日に研修のため看護学生を一人付かせて欲しいとの要請があり承諾した。手術前日、緊張した面持ちの20歳の女学生が「10分程お話ししてもいいですか?」と話しかけてきた。学校で学んだであろうカウンセリング“傾聴”と“共感”などの実践を始めた。マニュアル通り話してネタが尽きると無言になってパニック状態。そこで患者の私が気を使って話題を提供し話を広げていった。しばらくすると「小崎さんは、どうしてそんなに色々な分野での話題ができるのですか?」と問われたので、待ってましたと言わんばかりに「実は私はキリスト教会の牧師をしてるんです。だから色々な分野の方々と繋がっているので・・・」と話しながら主導権を逆に握って当たり障りないよう福音を伝えた。1時間近く対話したが何かを感じ取った表情をしておられた。術後はそれどころではなかったので会話はしなかったが退院時に何か話したそうな表情をしながらお別れの挨拶をしてくれた。いつの日かどこかの教会で救いの恵みを味わって欲しいとお祈りした。
榎本保郎先生がかつて同志社の神学生であった時、当時の教会の路傍伝道に参加し、前をちょろちょろしていた子供たちに「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とからかわれた経験があった。それから20年後のある日、先生の教会に同志社の神学部の献身者が派遣されてきた。彼と面接しながら当時の路傍伝道の苦労話をしていると、彼はその話の終わるのも、もどかしげな表情でこう言った。「先生あの時に『アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン』と言ったのは、この僕です。」先生は、あまりにもくすしき神の御業に、しばらく何も言えなかったと証ししている。
祈りながら蒔いた福音の種はどこかで実を結んでいくことを確信している。なぜなら実を結ばせてくださるのは神のお働きだからである。
術後、病棟を歩きながら各病室の人たちの癒しを心で祈ることができた。私の結石が自然排出されず入院の道へと神が導かれた意味がわかった。それは入院でしか届かない人たちのために祈るためであった。
本日私が10年以上お祈りしてきた方が受洗される。ハレルヤ!
心のオアシス 2025年8月3日
この週報が出る日曜日には、私がどういう状況なのかはわかるのだが、実はこのコラムを書いているのは事前である。事前というのは手術を受けるということである。前からご心配をしていただいているが数ヶ月前に腎臓にあった6ミリ大の結石が尿管に落ちたのだが、それが全く動かなくて内視鏡手術を受けることになった。体験者などの動画を見ると壮絶な痛みが術後にもあるようなことを語っている人もいる。術後も数週間、尿管カテーテルを入れたままということで、それも痛みがあったり違和感があったりするらしい。また病院からの説明書には、合併症が起こった場合は死に至る可能性があることが記載されていて、けっこう脅されているように思う。これらのことから私は最初手術を受けることを躊躇していたが、イエスさまの十字架の苦しみや痛みのことを考えたら自分の悩みがいかに小さなことであるかを思い知らされ、もし痛みがあれば、その分、他の病や問題で苦しんでいる人たちの痛みを取り除いでくださいとお祈りしようと心に決めることができた。入院は最短で4日間であるが、熱が出たりすると集中治療室に入ることもあり入院も長引くと言われた。そのために早目に8月3日の週報を書いている。しかし万が一召されるようなことがあったとしても何の悔いもない。地上では主の道具にしていただいたことを感謝しながら天国に入ろうと思う。
神を信じる者たちにとっての本番は肉体を脱いだ後の天国である。この地上は天国予備校のようなものである。それ考えるとこの地上での苦しみは、これから来る天国への希望へと繋がっていく。「神は、私たちが耐えられないような試練は与えない」(Ⅰコリント10:13)とあるのだから、この世における試練は必ず乗り越えられるように神さまのご配慮が必ずあるし、私たちのための最善のレッスンや訓練も含まれていることを考えると甘んじて受け留めることができるような気がする。
先日大きな手術を受けた教会メンバーがおられるが、「周りがマズいと不平を言っている病院食を美味しいと感じたし感謝な気持ち」だとSNSで書いておられたが、私も置かれた場所で咲こうと思う。
心のオアシス 2025年7月27日
私たちの教会では特に家族が未信者である場合、不和をもたらすような過激な信仰は推奨していない。なぜならその家族に誤解を与えたり、キリスト教会に対する悪いイメージを持って欲しくないからだ。社会にも悪い印象を与えた異端の宗教団体と同じように考えられては困る。世の中に証になる信仰が必要だと思っている。しかし歴史を調べると、命がけで信仰を守った人たちも大勢いる。今から二千年前のローマ帝国下でのクリスチャンへの弾圧があった。日本には約五百年前、現在の大阪府内の地域に高山右近をはじめとしてキリシタン大名が多数散在していた。信仰を持ち続けたことにより迫害され海外追放までされた人や殉教した人達も大勢いた。時代は変わったが命をかけてまで守り続けた信仰が、今の時代の私たちにまで引き継がれていることも忘れてはならない。
先日「寺の中からキリストへ」という教会のクリスチャンの祖母様の自叙伝を読んだ。お寺の僧侶と結婚されたが、ある日、宣教師から福音を聞いてキリストの十字架は自分の罪の身代わりであったことを信じた。だがその後ご主人からの迫害や暴力によってその信仰が阻止されそうになったが、守り通して最終的にはご主人も救われ今現在そのお子様方は皆、恵まれたクリスチャンとして教会に集っておられる。一人の犠牲と信仰によって後の子孫が祝福されている姿を見る時に、今の信仰が後の時代にどのような影響を及ぼしていくのかを考えなければならない。
もう2年間程ほぼ毎週教会を休まないでくる小学生がいる。先日その子に「お母さんから『そんなに教会行く必要ないやろ』とか言われない?」と聞くと、「言われる。でも『もし教会に行ってなかったら今頃登校拒否になってるで!』と言うと、お母さん何も言わなくなった」と教えてくれた。この子の複雑な家庭環境のことを考えると、ご両親の離婚、それに伴う転校。小学生なりに辛い経験をしてきている。しかし「それ故に神さまに出会うことができたから良かった」と本人に言わしめるほど、神さまとの出会いはその辛さに勝るものがあったようだ。
“何があっても創造主にしがみつく信仰”これも大切にしていきたい。
心のオアシス 2025年7月20日
先週の日曜日は開拓を始めてから一番充実した一日であった。朝2回と午後1回の計3回の礼拝は通常通りであるが、今回はそれにプラスアルファで午後礼拝の後入門講座を1時間、その後質疑応答などで1時間の計2時間。その後礼拝堂の掃除機をかけ、午後6時半ごろから大学生のピザ付バイブルスタディーに特別参加させていただき聖書や信仰、様々な人間関係などを話し合っていると、全員時を忘れ気が付けば午後10時になってしまっていた。全員クリスチャン家庭の子たちで親御さんは理解してくださっているが、預かる側も非常識にはならないよう気を付けなければならない。しかし若者たちが聖書や信仰の話をしながら恵まれている様子を見ていると、この時間を彼らから切り離してはいけないという気持ちにもなる。平日は世俗的な価値観の中に嫌でも居なければならない彼らが活き活きと話している姿に私も恵みをいただいた。
イエスさまが昼時井戸のそばでサマリヤの女性に福音を伝えると、それを受け留めた彼女の中に大きな変化が起こった。弟子たちがランチを買ってきてイエスさまに渡そうとすると「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」と言われた。疲れを覚え空腹であるはずなのに食べる必要がなくなるほど満たされるという経験を私もしたように思う。
牧師の喜びは、人が変えられる姿を見ることである。「励まされて今週も何とかやっていけそうです!」「聖書を読むことが楽しくなりました」「癒されました」「暗い人生でしたが光を見い出しました」「現実はまだ問題はたくさん残っていますが、御言葉を握っていれば何とかなるような気がしてきました」「悩みが悩みでなくなりました」このような言葉を毎週聞かされると牧師を辞めることはできなくなる(辞める気はないが)。
これらは全て神の霊の働きの実である。人間はみな「神の息が吹き入れられて生きるものとなった」とあるように、飲み食いだけではなく、神の霊によって生かされていることを知らなければならない。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)
心のオアシス 2025年7月13日
私が8月にご奉仕させていただく京都朝祷会から「朝祷」というブロックだよりが送られてきた。何と東北で牧会する後輩牧師が証が掲載されていて、その内容に感動し励まされたので以下に要約したいと思う。
「心に福音の種が蒔かれたのは、私が4歳の時でした。住んでいた町の人口増加でどこの幼稚園も入ることができませんでした。そのような時に開拓を始めたばかりの教会が幼児学園を開設し、そこに入園しました。そうは言っても古い民家の六畳二間を使用した粗末なものでした。しかし先生方は全員クリスチャンで、私は毎日聖書の話を聞きました。あるとき友達が投げた積み木が私の額に当たり血が出て、先生がすぐに応急処置をして額に手を置いて『イエス様、どうぞ額を癒してください』と祈るのです。私は内心『神さまがいたら医者はいらないだろ』とバカにしていましたが、真剣に祈る先生の姿が心に残りました。額の傷は跡形なく癒されました。そこを卒園した私は教会学校には一度も行きませんでした。やがてアメリカ留学し冬休みにニューヨークの家庭にホームスティしクリスマスイブの夜、ホストファミリーと教会の礼拝に参加しました。そこで歌われた讃美歌『きよしこの夜』を歌ったときに私の記憶の奥にずっとしまっていた何かが開きました。それは教会の幼児学園で歌った讃美歌の記憶でした。その時、私は言葉には言えない感動で震え、自分がずっと探していたものが“イエスさま”だったことを知りました。その日から私は変えられ聖書を読み、教会に通うようになりその半年後、アメリカの教会で洗礼を受けたのです。私たちはトラクト配布や集会で思った成果がないとガッカリします。
先日私の教会に見知らぬ青年が来ました。集会後彼は『私を覚えていますか?』質問してきました。なんと彼は15年前に子どもの集会に来ていたS君でした。彼もまた留学先のパリでイエス様を信じたというのです。」(小西孝宏牧師述)
私たちは成果を求めるが、主が求めておられることは時が良くても悪くても福音を伝え続けるということ。目に見える結果がなくても私たちの労は地に落ちることはない。主の時が来れば美しい花園になるだろう。
心のオアシス 2025年7月6日
私たちの教会の日曜礼拝は、初心者の人たちにも配慮しながら、できる限りすべての人たちが理解し元気がでるようなプログラムやメッセージを心がけるという特徴がある。しかし特に黙示録や旧約聖書の小預言書などは、どこの教会も引用としては使われることはあるが、連講で話されることは少ない。そこで日曜礼拝では取り扱うことが難しい書を月2回木曜日に行なっている「賛美&祈り&聖書の学び」で話すようになった。恐らく内容は中級以上ではあるが聖書66巻の繋がりが立体的に理解できるようになったと評価されるようになり、聖書の深みを学びたい人たちにとってバージョンアップする良い機会になっている。私も準備する中で多くの発見や聖書の奥深さを学ぶようになった。
先日の「聖書の学び」では「聖霊論」の特別講義をペンテコステ派牧師の藤林イザヤ先生を招いて行なった。世界的に有名な牧師たちの中には「聖霊充満」とか「聖霊様来てください!」という言葉を使って影響を与えていたが、理屈っぽい私は「聖霊に量があるのか?」「聖霊は今はご一緒ではないのか?」と疑問に思い聖書的表現ではない造語が人々に誤解を与えるのではないかと考えていた。しかし今回その捉えにくい「聖霊」を形態的にわかりやすくお話しくださり、バランスを大切にしている私たちの教会にもフィットする内容で非常に良き学びとなった。
それにしても私たちの教会の人たちの中に“聖霊”に関して「深く知りたい」「異言の賜物を受けたい」と願っておられる方々がいらっしゃることに驚きを覚えた。牧会的配慮から私たちの礼拝では異言で祈ることはしないが、今回の特別講義の後、異言を求める人たちが残り共にお祈りする時間を設けた。私は信徒の前で初めて異言でお祈りしたが、実際に初めて異言を聞いた人たちの中に霊的飢え渇きと恵みが与えられるようになった。「心が軽くなった」「一週間の疲れが全部吹っ飛んだ」など霊的開放による副産物もいただけた恵みのひと時であった。今回の“心のオアシス”の内容は理解できない人もいると思うが、「聖霊が下ると力を受ける」世界をいつか体感していただきたい。
心のオアシス 2025年6月29日
私は小学生の頃から劣等感が強かった。周りが理解しているのに自分は理解できていないことが多く「どうして自分はわからないのだろう?」と悩むことがよくあった。今から考えると早生まれだったこともあり遅れている部分が多くあったように思う。しかし答えがわかっても「もしかしたら間違っているかもしれない」と手を上げる勇気がなかったのは臆病な部分もあったのだろう。別の言葉に置き換えると慎重だった。
そんな私は中学2年生頃まで、早く死ねたらいいのにと考えることがよくあった。「人間はどうして生きているのか?」「何のために生きているのか?」「どんなに苦労して成功をおさめたとしても結局は死ぬ運命にあるのなら早く死んだ方がいいのではないか?」そんなことを考えていた。思えば感受性が強かったのだろう。そんな少年時代を過ごしていたのでキリストとの出会い、聖書の御言葉はリアルに私の心に響いた。
中学2年生の時に初めて教会の門をくぐった。歌った讃美歌もメッセージも全くわからなかったが、直感的に、霊的に「ここには真理がある」と思い聖書を読むようになった。「あなたは私の目には高価で尊い」(イザヤ43:4)の言葉が私を捕らえた。この世の中での評価は何を持っていて、何ができるからということが尊ばれる対象であるが、「神が尊いと思っておられるから尊い」という価値観に感動を覚えた。中学3年生で受洗し、それからは何故か臆病だった私が海外へ行き学び、帰国後は関西から関東へ移住し、会社を辞めて献身し、20年間仕えさせていただいた日本で一番人が集まっているプロテスタントの教会の副牧師を辞して住んだことのない東大阪の地にやってきて開拓伝道を始めた。他者からすると理解できないであろう。自分でも振り返ってみて驚きしかない。皆さまには無謀なことはお勧めしないが、自分の経験から、「どんなことが私たちの人生に起こったとしても主が共におられる信仰があるなら何とかなるから大丈夫!」という確信がある。私たちは神の手の中にあると本気で信じることができるなら、地上では何があっても恵みと喜びを感じながら歩むことができる。私は主に出会えて本当に感謝している。
心のオアシス 2025年6月22日
先週の月曜日、ご招待くださったので介護施設シャロームが開催する「スピリチュアルケアを考える ~病院チャプレンの働きより」というテーマで講演会&ホテルランチに参加させていただいた。講師の藤井理恵先生は病院チャプレンをしてこられたので説得力があった。結局ケアを提供する人も、それを受ける人も同じ限界のある弱い存在同士なのだということ。その例として、一生懸命支えてきた人が亡くなった時に喪失感を覚えるのは、両方が支え合っていた一つの証であるという。まさに「人」という字は支え合って成り立っているということである。
「私には神など必要ない。自分で自分のことはやってきた」という人も死を前にすると自分の“限界”や“弱さ”を感じるようだ。その時に初めて“神に頼れる安心”を経験し“生きている”のではなく“生かされている”ことに気付く。それはどんなに地位や財産を持っていても死の壁の前には何の役にも立たない。それらはある意味での安心は与えられるかもしれないが、死の向こうまでの安心保証は何もない。世の成功をおさめてきた人も「今までこんなに頑張ってきたのに、結局自分の人生は何だったのか?」と悩み始めるという。
アップルの創業者・スティーブ・ジョブズ氏は、各地で「自分の夢を獲得せよ!」と講演してきた。しかし亡くなる前にこう言っている。「私はビジネスの世界で成功の頂点に立った。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし仕事面をのぞくと喜びが少ない人生だった。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。私がずっとプライドを持っていた有名になることや富は、迫る死を目の前にして色あせ、何も意味をなさなくなっている。生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる。神の息を感じる。死が近づいている。今やっと分かったことがある。富に関係ないものを求めたほうが良い。終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。」自分が教えてきたことは間違いだったと言ったのである。
私は確信をもって言うことができる。それは本物の宝はイエス・キリストにある。
心のオアシス 2025年6月15日
先週の週報で「神さまは天邪鬼なのではないだろうか?!」という内容だったが、今週はその第二弾を書こうと思う。
先週メッセージ箇所は創世記27章からであったが、そこには4人家族のそれぞれの願いの結末が記されていた。イサクは双子の長男エサウの方を愛し遺産を相続しようと考えていた。しかしその妻リベカは次男のヤコブを愛していて、その祝福がヤコブに流れるように企てた。エサウは当然自分が相続するものだと思っていたが、ヤコブはそれらをいただいてしまおうと考えていた。リベカは神から「兄は弟に仕えるようになる」との約束をいただいていたが、そうはなりそうにない現実を見て、自分のやり方でそれを実現しようとしヤコブもそれに便乗した。すなわち「長男のエサウ」だと偽って父の元へ行った。この各4人の願いはどうなっていっただろうか? 父イサクは年が進み目が見えなくなっていた故に祝福を与える相手を間違えてしまった。その妻は次男が相続の祝福が与えられたことを喜んだであろうが、長男が殺意を持つようになったので800キロ以上も北に住む叔父の元へ次男を避難させ、それはおよそ20年にも及んだ。これで愛する子とは一緒に暮らすことはできなくなったばかりではなくリベカは生きて再会はできなかったと言われている。兄エサウは自分がいただけるはずの相続権がヤコブに渡ってしまい、ヤコブは受けた相続をそのまま置いて避難所生活を余儀なくされた。
ここで面白いことを発見した。4人のそれぞれの願いはすべて成就せず神の計画のみが水面下で確実に進んでいたということである。彼らの失敗は神の時を祈り待つことをせずに、自分たちの願いを実現することだけを願っていたことにあった。
これらのことを考えると、結局神のご意志が成就していくのだから、我々はそのご意志に添うような決断や判断をしていった方がお得である。そうでなければ自分が苦しむことにも繋がる。「万事を益としてくださる」と神への信頼があるなら黙して祈り待つことも大切なことである。
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」