礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2020年3月15日

 今、教会で学んでいる申命記から、イスラエルの民がシナイ山から出立して、目的の地カナンに11日間で入れるところを、39年もかかった理由を読みながら考えさせられたことは、私たちも、恐らく知らない間に遠回りしながら人生を送っていることが多いのではないかということです。彼らが遠回りした理由は、カナンの土地の目前に来たときに、神さまが「カナンの土地に入りなさい」と言われたのに、彼らは「その前にその土地を偵察して調査をしましょう」と提案したのです。彼らは神さまの偉大さよりも、先住民の強さや自分たちの手持ちを計算しようとしたのです。これが主への不信仰の表れでした。案の定、偵察に行った12人中10人が、相手の大きさと自分たちの小ささを見て怖気づいてしまいました。そしてイスラエル全体に恐れが生じ、目の前にある目的地に入ることができなかったのです。
 私たちは自分の能力や持てるもの、環境、状況を見ると、心配や不安でいっぱいになることがあるでしょう。今は新型コロナウィルスのニュースを聞くたびに落ち込んだり、気分が悪くなる人までいるそうです。今世界は、見えないウィルスに振り回されています。
 イスラエルの偵察隊の中に、現状に振り回されない人たちが2人いました。ヨシュアとカレブです。彼らは言いました。「主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。」(民数記14:8)彼らは現状ではなく、神の偉大さに目を留めていました。これが不安に勝てる秘訣です。諸々の上に立っておられ、創造された主が、私たちと共におられることを意識できたら、恐れは一瞬にして消えます。まさに生殺与奪の権を主に委ねるということです。
 勿論、社会的な責任は果たさなければなりませんし、無謀になってはいけません。しかし本当に恐れなければならないお方を知っておくことは、私たちの安心に繋がっていくのです。
 「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイ10:28)

心のオアシス 2020年3月8日

 私たちは、視点を変えるだけで、救われることがあります。すなわち感謝しがたい中で感謝することを見出し、意味の見出しがたいところに意味を見つけていく姿勢を持ったら、かなり人生変わると思います。
 かつて私の娘が高校を卒業して進路を決めるときに、韓国のある大学に行くことを望んでいました。そこはしっかりした信仰に立ったミッション系大学で、授業も英語で行ない、就職率はほぼ100%で、韓国でも評判の学校でした。私も娘がそこに導かれているような気持ちになっていて、“自分の願い”が“神の御心”のように思えていたのです。親子共に、「主の御心が成りますように」と祈りながら、もうその進路以外は考えられない状況でした。しかし、結果は不合格でした。娘は泣いていましたし、私もガッカリしました。もう日本の学校の受験も終わっているし、もう行く場所がない状態で、私は少し神さまに愚痴をこぼしていました。しかしすぐに神さまからお叱りを受けたのです。「あなたは、『主の御心が成りますように』と祈りながら、どうして、そんなに悩み心配するのか? 不合格になって、他の道へ進むことを私が望んでいるのに、それを拒否するのか? あなたの娘にとっては、もっと良い道を開こうとしているのに、自分の考えや願いでそれを邪魔するのか?」私は、すぐに「そうでした。申し訳ありません。あなたに委ねます!」そして泣いている娘に言いました「これは神さまが、あなたとって、もっと良い道へと導こうとされているってことだよ。今はもうどこにも行く道がないように見えるけど、必ず開かれるから、安心していなさい! 主にあって何とかなるから大丈夫!」そして、神さまは不思議な方法で、別の韓国の大学を示してくださり、そこへの入学が許可され、そこでしか受けることができなかった祝福を沢山受けました。そして後になって、親子で「あの学校に落ちて良かった! やはり最善の道を備えてくださっていたんだね~」と話しています。
 私たちは、祈りが聞かれることよりも、聞かれる祈りに対して自分がそれを受け入れられる心の準備ができているか?が問われています。

心のオアシス 2020年3月1日

 ある小学校の理科の時間に、先生が「氷がとけたら何になる?」と質問すると、子どもたちは、「氷がとけたら水になる」「水という液体になる」と次々と答えたそうですが、普段あまり勉強ができない子どもが最後に手を挙げてこう言ったそうです。「先生、氷がとけたら春になります」理科の時間ですから、この答えが正しいとは言えませんが、何かほのぼのとしたものを感じます。今、学校では、入試試験や偏差値という目先のことばかりに追われ、一般社会においても、利潤第一で、どれだけ業績を上げたか、いかにして出世するかということばかりに目が向けられ、非常にすさんできているように思えます。人は大人になるにつれて学習や経験によって、視野が広げられると言われますが、私は必ずしもそうだとは思えません。逆に視野が狭くなっているように感じます。私たちは目先のことをないがしろにはできませんが、もっとグローバルに、霊的視野をもって人生を見つめていく必要があるでしょう。
 腎移植をされた教会メンバーからのメールです。「以前からずっと思っているんですがKCF(関西カルバリーフェローシップ)は特別な祝福とパワーと驚きのある教会ですよね!(神様にえこひいきはないと聞いたことがありますが…)KCFに通うようになってなんと5年もたっていますが(まだ新入りの気分ですが笑)、ずっと元気でのびのびできている自分が奇跡のようです。先生の開拓の奇跡の証を聞くたびに、神様が私の諦めかけた祈りにも奇跡をもって答えてくださったんだと感動で胸がいっぱいになります。これからのKCFにたくさん、ものすごい神様の奇跡を信じていてわくわく期待しかありません!!」
 牧師としては嬉しい限りです。勿論、教会に繋がったら、すべてが自分の願っているようになるという保証はどこにもありません。しかし、少なくとも、天地万物を造られた神さまに繋がることによって得ることができる祝福や特典が沢山あることは確かです。そして祈りを通して、時間や時代を超えた神さまの働きを見ることができることは特権です! 
「神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。」

心のオアシス 2020年2月23日

 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:24)
 これは聖書の中の一節で、この聖句は「死んだら実を結ぶ」という不思議な力を表現しています。私たちの死亡率は100%です。どんなに財産があっても、地位や名誉があっても、死を免れることができる人は一人もいません。そして共通して願っているのは、苦しまずにポックリ逝くことを望んでいます。しかしながら、出産予定日はあっても、死ばかりは、いつ、どんな形で迎えなければならないか誰にもわかりません。
 渡辺和子さんが「演劇やコンサートにリハーサルが必要であるように、死の準備も大切なのではないでしょうか?」と、書いておられた。
 本番で落ち着いて自分の役割を果たすために、私はこの本番の死、「大きな死」のリハーサルをするために、毎日の生活の中で「小さな死」の実行をすることを思い立ちました。「小さな死」というのは、自分の生活の中での小さな我慢、自分の利己心に勝つこと、他人に流されないで生きること、相手が無礼な態度を取ったのに仕返しをすることなく許すこと、相手が恩知らずなのにこちらがやさしくしてあげること・・・等を指します。これらはすべて自分が死なないとできません。私が、私が、と言っている間はできないのです。一粒の麦の“死”が豊かな実を結ぶように、私たちも自分が死ぬことによって豊かないのちを生み出すことができると信じる時、日々の生活の中で自分が死ぬことの意味ができてきて、死を肯定することができるのです。
 私たちは、自分の願望が強すぎたり、他者に対する要求が多すぎたりすると、この方の言う「小さな死」を実行することは難しい。先日、礼拝後、残っておられる方々とのお交わりの中で、「プレゼント」の話題になった時、あるご夫婦がこう言った。「特別にプレゼントをしたことはありません。毎日がプレゼントですから」・・・特別な何かがなくても、存在そのものを感謝できるようになれば、最高ですよね。

心のオアシス 2020年2月16日

 テレビの番組の中で、宝くじ6億円当選した人を紹介していた。銀行の通帳も見せて、残高数百円しかない次の日に6億という数字が印字されている。彼はそのお金でスポーツカーやプレジャーボートを買い、一晩で1千万円以上を高級クラブで費やす生活になった。今は、株などで財産はキープしているが、落ち着いた生活に戻ったそうです。その男性は、当時のことを回想しながら、こう言いました。「お金を自由に使えることで幸せになれると思っていたけど、一度大金を手にして、使いたいように使っても、それで楽しいとは感じられませんでした。今は、1万円を手にして、焼き鳥を食べている方が、それ以上に幸せです。」
 以前にも紹介した、アップルの創業者・スティーブ・ジョブズ氏は、56歳で亡くなったが、こう言っている。「私はビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、仕事面をのぞくと、喜びが少ない人生だった。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。私がずっとプライドを持っていた有名になることや富は、迫る死を目の前にして色あせ、何も意味をなさなくなっている。生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる。神の息を感じる。死がだんだんと近づいている。今やっと分かったことがある。人生とは富に関係のない他のことを追い求めたほうが良い。終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。私のようにね。」
 先日、電話である男性と話しをした。彼はヤクザの出世頭だったが覚醒剤に手を出し廃人となり、刑務所に十数年入っていた。出所してからクリスチャンとなり、今は献身して神学校で学んでいる。彼は、当時の自分をこう表現していた「ゴミに群がるゴキブリのようでした」と。
 私たちはこの世の中の価値観に洗脳されています。もう一度、真剣に人生の意味や価値を考え直さなければならない。パウロは「わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。」(ピリピ3:7) もしここに到達できたら無くても満足できるでしょう。

心のオアシス 2020年2月9日 

 先日教会の礼拝後、中高生たちが集まって歓声をあげながら人生ゲームをしていた。それを見た中年男性がおもむろに「もう現実の人生ゲームを嫌というほど味わっとるから、あえてまたそんなゲームをしようと思えへん・・・」確かに人生経験が長くなると、楽しいことばかりではい。作者は不明ですが「人生のルール」というものを書いた人がいるので、その一部を以下にご紹介します。⑧~⑩は私が変更追加しました。
① 肉体を与えられる・・・好むと好まざるとにかかわらず、この肉体とは、生きている間、ずっとつきあっていかなくてはならない。
② いろいろな教訓を学ぶ・・・人間は「人生」という名の学校に毎日通い、いろいろな教訓を学んでいく。中には、自分とは無関係でばかばかしく思われるものもあれば、なるほどと思えるものもあるだろう。
③ 失敗は存在しない。あるのは教訓のみ・・・成長とは試行錯誤の繰り返しで、実験によく似ている。たとえうまくいかなくても、あきらめずに試みればいつかは成功に結びつく。
④ 教訓は修得するまで、何度も繰り返される・・・一つの教訓は完全に身につくまで、いろいろな形で提示される。一つを修得して初めて、次の新しい教訓が示される。
⑤ 学習は一生続く・・・人生とはすなわち教訓の連続である。生きている限り、教訓を学び続ける。
⑥ 「あっちの水」も「こっちの水」も甘さは同じ・・・「あっち」にたどり着くと同時に、「あっち」は「こっち」に変わる。そしてまた新しい「あっち」が現われ、「こっち」よりもよく見えてくる。
⑦ 他人は、自分を映す鏡・・・他人の好きな部分も嫌いな部分も、すべて自分の内に持っている。他人を見る時、そこには自分が映し出されてくるのだ。
⑧ 神が与えてくださったものを用いてベストを尽くすこと。
⑨ すべての答えは、イエス・キリストの中にある。
⑩ 記憶を失っても、神は覚えておられて導き支えてくださる。

心のオアシス 2020年2月2日

 ある日、一人の男が登山に行きましたが、滑って落ちてしまいました。
崖っぷちに松の木があって、運よく枝をつかむことができ、松の木にぶら下がっている状態ではありましたが、何とか助かりました。しかし、一人で崖の上に登ることは不可能です。そこで叫びました「誰か助けてください! 上に誰かいませんか?」叫んでいると声が聞こえました。「私が、ここにいるから心配するな!」それからこのようなやり取りが神と男との間でなされました。「誰ですか?」「神である」「おぉ、神よ、私を助けてくださるなら、私は命をあなたに捧げます!」「よし、私が言う通りにしなさい」「わかりました。何でもします!」「では、あなたは松の枝を握っているその手を今、放しなさい」「神さま、それをしたら落ちて死んでしまいます」「あなたの信仰の通りになるから、手を放してごらんなさい」しばらくそこに沈黙がありました。そしてその男は上に向かって叫びました。「すいませ~ん。上に神さま以外の人いませんか?」
 実は、これは笑い話ではありますが、核心部分を突いていると思います。私たちは、“神”に助けを乞う時、自分の計画や自分のやり方を実践してくれる“都合の良い神”を求める傾向にあります。神の側の計画ややり方は、拒否するのです。そもそもそのような都合の良い神など、どこにもいません。それはただ人間が、自分の都合に合わせて勝手に作り上げた“妄想の中の神”なのです。
 聖書が教える神と人との関係は、神が主人であり、人は神の従者です。それは神が人を創造した所以です。神が私たちのメーカーであるならば、当然、私たちには目的・使命が与えられているはずです。それは神の為、神の願いを叶えるために、神の計画のために、言い換えると神実現のために人間を創られたのです。私たちにとって都合の悪い神さまですが、その目的・使命のために人は生きる時、スムーズに事が進むようにできているのです。もし、上手くいかない時は、自分中心になっていないか確認して、軌道修正してみてください。そうすれば回復できるでしょう。 
 私たちのマニュアルは“聖書”です。バイブル読んでハッピーライフ!

心のオアシス 2020年1月26日

 先日、ある方との会話の中で、「今まで頭では分かっていたけれども、ある時、突然、リアルにそれを理解できるようになって、見かた考え方が変えられた」という趣旨のお話をされていた。私が教会開拓の初期のころ、「お店では、人々の目に見える実態あるものを提供して、お客さんが見て好みであれば、それを購入するというシステムが成り立つ中で、お店は、人が好む物、必要とする物を作るよう努力すれば顧客は増える可能性がある。しかし教会は、目に見えないものを伝え提供している。人がそれを信じ求めるようになるのは、至難の業だ」と思ったことがあった。しかしそんな中で「創造主なる神さまを信じたい」「イエスさまを信じてから、私の人生が本当に変えられました」という人たちが起こされていくと不思議を感じさせられます。なぜなら「牧師さんの言うことは分かるし、それが良いことだとも分かりますが、そうは簡単に信じることはできませんし、自分が変えられるなんて考えられません。自分のことは自分が一番よく知ってるのです。」という人たちに何人も出会ってきているわけですから。頭では理解はしていても、信じたり、自分が変わることは、なかなかできるものではないのが人間です。しかし、それが突然できてしまうのは何なのか?!
 聖書の中に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」(Ⅰコリント12:3)「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて・・・わたしの証人となるであろう」。(使徒1:8)とあります。ここから信仰告白や人の人生が変えられる背後に、“聖霊”の働きがあることがわかります。このことがわかると、私たちは人を信じさせようとか、変えてやろうと必死にならなくてよいのです。焦って失敗する人たちもいます。ただ私たちの使命は知恵をもって果たし、後は聖霊のお働きに任せるのです。クリスチャンライフは頑張るものではありません。神さまに委ねることなのです。枝は幹に繋がっていると自然と実を結ぶように、枝なる私たちが、幹なるキリストに繋がっていれば、それだけで実りある人生を送ることができるようになるのです。

心のオアシス 2020年1月19日

 先週の日曜日は、私の今までの牧師人生の中では、最悪の鼻詰まり、鼻声でのメッセージ。幸いにも熱は全く出ないが、早く一日が終わって欲しいと思うコンディションでした。しかし神さまは、そのような中でも主は生きて働いておられることを私に教えるかのようにして、いくつかの喜びを与えてくださった。その一つは、今年、成人式を迎えられる青年の祝福をお祈りすることができたこと。記念品を何にするか色々と考えていたが、なかなか思いつかないのでお祈りした。すると「聖書」と言葉が浮かんだ。該当する青年は、まだ教会初心者の方で、聖書で大丈夫なのかな?とは思ったが、私が中2の時に初めて手にした同じ大きさ、同じ訳の聖書をプレゼントすることにした。そして私が当時、救いに導かれた聖句「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ43)を書いた時、私が救われたあの当時のことが走馬灯のようにして思い出された。あれから約40年が経過したが、今まで一度も後悔したことはないばかりか、クリスチャンでなかったら、あの時の困難をどうやって乗り切ることができただろうか?と恐ろしく思う。今は、「生きるも死ぬも主のため」という境地になって、何が起こっても毎日が嬉しい、おめでたい人になれたことに感謝している。成人者にこの恵みが届きますようにと祈らされた。そしてもう一つの喜びは、私の知らないところで、私の献身30周年と開拓10周年と誕生日をお祝いする計画を立ててくれて、綺麗なお花と、一人ひとりが手書きでお祝いの言葉や私の3つの良い点を書いた紙をアルバムにまとめて渡してくださった。読みながら先々週に引き続き涙腺崩壊(加齢のせい?)。そして献身の思いを新たにされました。そしてその日の午後礼拝後、一人の求道者とお話しをする中で、神さまからの促しがあったので、「イエスさまを信じたいという気持ちはありますか?」との質問に「はい、そう思っています」。一緒にイエスさまを受け入れるお祈りをして、天にある喜びがそこにありました。
 私に弱さがある時にこそ、主は力強く働かれます。それは「あなたではなく、わたしが導き働いているのです」と言われているようでした。

心のオアシス 2020年1月12日

 先週、一枚の不思議な年賀状を受け取りました。表面には、私の住所と名前、そしてその下に「お祈りありがとうございます。また〇〇に遊びにきてください」とだけ手書きで書かれている。ここまでは普通なのですが、裏面を見て驚きました。何も印刷されていないのです。まさに白紙状態。謹賀新年もなければ、差出人の住所もない。私は瞬時にこの年賀の目的を三通り考えました。①ただ単なる凡ミス ②いやがらせ ③あえて白紙にして深いメッセージを伝えようとした・・・表の「また〇〇に遊びにきて・・・」の〇〇には、地名が書かれていたので、心当たりある人物にメッセージを送ってみると、次の返信がきた。「なんということでしょう。失礼しましたー 百年に一度の大当たりでした・・・」。本来裏面には家族の写真と住所が印刷されていて、その画像を添付して送ってくれた。もし白紙の意味が③だったならば、私はこう考えたでしょう。「初心に戻って、ゼロ開拓のつもりで祈りつつ牧会しなさい!」
 先週の「心のオアシス」に教会メンバーの男性が「正直うちの牧師は最高の牧師です。日本一の牧師です。霊性、情熱、練られた品性(謙遜とも言います)共にこんな素晴らしい牧師の元に集えることに神様に心から感謝しています。」とラブコールしてくださったこと、そして私は、そのような評価をしていただけるような牧師ではないのに、そう観てくださっていることに神の無条件の愛を感じた、という内容を書きましたが、それを読んだ何人かの人たちが、「私も同じ気持ちで代弁してくださって感謝です。」とのお言葉をいただき、涙腺崩壊しそうになった。もしこれを人間的レベルだけで受け止めたら、「嬉しい。関東から関西での開拓をチャレンジして良かった!」でおしまいですが、すべての人は、神さまから送られていると考える私は、これらの人たちを送って、私にメッセージを語られたのだと思わされた。人が増えると、安定と維持することにシフト変更しがちですが、私はそうであってはならないのだと思わされました。増えても減っても、神さまが送られてきた羊に「神は愛なり」をいろいろな形で全力で伝える。これが私の初心であり所信です。