礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2025年11月9日

 先週、母教会である大和カルバリーチャペルの大川先生が福音功労賞を顕彰された。私もご招待を受けて千葉県市川市にあるヤマザキ製パン総合クリエーションセンターの会場に行かせていただいた。宿泊施設もある綺麗な建物の正面玄関に大きな額「新しいヤマザキのあるべき姿の四箇条」が掲げられていた。その一箇条が“To honor God in all we do(仕事の全てにおいて神のみこころの実現を期すること)”とあった。全国に知れ渡っている大企業が「神のみこころの実現」を願っているのである。私のライフメッセージを第一番目に謳っていることに感動した。
 そこには古巣の同労者や後輩たちも多数参加していて懐かしい時でもあった。顕彰式当日の朝、大川先生ご夫妻とお部屋でお話しする機会があった。その時先生から語られた内容に感銘した。「僕は昔、聖霊問題(神学の違い)で教団をクビになった男で相手にされなくなって寂しい思いをしたけれど、それでも教団のどこかの教会が困っていると精一杯献金して助けてあげたら、今の時代に受け入れてくれるようになったんだよ。僕はどんな相手とでも平和でいたいと思っているの。ある人は僕を猛烈に批判することがあって気持ちはとても辛いけど、神さまの摂理を恐れるから、その人を突き離そうとしないで、どうにか活かしてあげたいんだよね。愛は口先だけではなく実践しないと意味がないんだよ」その“ある人”が誰なのかを知っている私は、「文句言うなら外に出たら?」と言いたくなるが、そんなお気持ちを持っておられることに対して「今回の福音功労賞は、そのような伏線があったからこそいただけたのですね。私だったらそのような人は突き放すところですが、私には持ち合わせていないその愛の領域を広げさせていただきたいと思いました。」と答えた。
 今回の福音功労賞は突き離された教団の先輩からの推薦あっての受彰であった。福音派から受け入れられ認められたという証となった。
 「私に苦しみ加えようと党派心から福音を伝える者がいるが、伝えられているのはキリストだから私は喜ぶ!」(ピリピ1)
 神実現に生きたら、いつも喜び感謝しながら歩むことは可能になる。

心のオアシス 2025年11月2日

 先週の午後礼拝が終了した後、YKルームで大学生たちと小学生たちが一緒にゲームなどをして楽しんでいる様子を見て嬉しくなった。普段から宿題を見てあげたり楽器を教えたりしながら交流はしているが、家族のようにくつろいでいる様子に“天国”を垣間見るようであった。
 私たちの教会では礼拝終了後にすぐ帰られる方々が半分以上おられる。残ってお弁当を食べたりコーヒーでゆっくりされる方々もいる。交流することが苦手な人たちもいるので残ることを強いることはせず、個々に委ねる配慮をしてきた。私は牧師と信徒の繋がりは強いが、信徒同士の繋がりが薄いのがいつも気になっていた。そのような中で先日学生だけではなくそれ以外の方々も参加できるバイブル・フェローシップを初めて開催した。一つの聖書箇所やトピックからそれぞれ感じていることを自由に話していただき与えられている恵みを語り合いながら、お互いを知る良い時間となった。大変好評だったので月1で行なうことになった。これはリーダーがいなくてもできる内容なので、将来的には昼の時間帯でも行えるようになればと願っている。
 川端光生先生が「虚無の中に投げ出されている私の存在を根拠づけ価値づけてくれる神として、キリストの神を選び取りました。キリストの神は、私の理屈に最も適合した神だったのです。私は、自分の自由意志でキリストを選びました。ところが私に選ばれたはずのキリストは私に向かって、『あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだのです』(ヨハネ15:16)と言うのです。理屈では全く納得のいかないことです。」と書いておられる。自分で選んだのであれば、それは人間の都合に合った神ということになるが、神が選んでくださったという「神中心」にならないとしっかりした土台は築けない。どの教会に繋がっておられる人たちも、自分の好みで自分に合った教会を見つけてそこに集っていると考えているとは思うが、実は神が選びそこに置かれているという認識は必要である。フェローシップ(コイノニア/主にある交流)を通してキリストの体の横の繋がりも強めていきたいものである。

心のオアシス 2025年10月26日

 先週花園チャペルで行われた秋の賛美集会は主の臨在が濃厚すぎた。今回出席者はいつもより少なかったが、神さまの働きは人数には関係ないことが証明された。内容は賛美と祈りと証であったが、その中で体調が悪かった方が「集会の中で癒されたのがわかりました」と報告に来られた。礼拝に来られている未信者の方も「初めて賛美集会に参加しました。証に共感して賛美で恵まれました」と涙しながら帰っていかれた。前で奉仕している大人たちもそうであるが、キーボードの小学生までもが主に触れられ涙を流しながら奉仕しているのである。会衆はいうまでもなく感動の連続であった。教会メンバー全員にこの“天国”を味わって欲しかった。このような賛美集会は未だかつて経験したことがない。涙を流せばいいというわけではないが、主に触れられたら悲しみがなくとも喜びと感謝の涙が自然と出てくるものである。
 学生の証も凄かった。「僕はクリスチャンとして周り人たちと接していると『神なんているの?』という目で自分を見ているような気がして孤独を覚えるようになり、世の中に迎合して神の存在さえ疑うようになり、いつも“疑い”と“信仰”の戦いがありました。今年の学生のGealキャンプの賛美の中で、ふと思ったんです。関西カルバリーの人たちのことを考えると〇〇君も○〇ちゃんもあんなに変わった。その他不思議な形で集まりクリスチャンになっていく。これはただの奇蹟じゃないってことに気付き、こんなにも僕の周りで神さまが働いておられるのなら僕の友達にも神さまが働いてくださるかもしれないと思いひざまずいてお祈りしました。そこで初めての聖霊体験をしました。理屈や考えを超えて神さまが触れてくださり涙が流れ、友人に伝えたい、聖書を読みたいという思いが与えられ実行するようになりました。小崎先生が『神の愛や恵みに触れたら、その愛や恵みに応えたいという思いが自然と起こります』という言葉は本当だったんだと思いました。」
 “信仰”とは理屈ではない。神と繋がることであり、そこから流れる恵みに触れながら喜び生かされることである。キリスト体験しましょう。

心のオアシス 2025年10月19日

 私たちの教会の音響はデジタルミキサーを使用している。3年前新会堂が建った時には半導体不足問題で新品が手に入らず中古品を購入したが、不具合が起こることが多かった。なんとか騙しだまし最近まで使用していたが、いよいよフリーズして音も出なくなった。そこで最近新品を購入することができた。今まで音響担当の方もヤヒヤしながら奉仕しておられたようで、今は音響に関して安定と安心があるという。
 「安定と安心」というとローマ書7章で著者のパウロが「神に従いたいと思いながら、実際は真逆のことをやってしまう。私はなんというみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだから私を救ってくれるのだろうか?」と絶望と不安の中で嘆き苦しむ姿を描写し8章から「キリストにある(属する)者は罪に定められることがない」という安心を書いている。ともすればクリスチャンも「自分は本当に救われているのか?」という不安な人生を送ってしまうことがある。しかしパウロの説明によれば、不安があるのは自分の“肉”を生かそうとするからであって、“聖霊”によって罪と死の不安から解放されたので永続的な平安が与えられているのだというのである。私たちの肉がしなければならない罪の代価の支払いはすべてキリストがしてくださったので、キリストにあるならば救いを失うことがないという安定した安心が与えられるのである。
 「肉を殺して霊を生かす」と聞くと、また努力して必死になって肉を抑え込もうとしてしまうが、それも肉の働きである。ガラテヤ書5章でパウロは「肉の働きからは不品行、汚れや争い・・・が出るが、御霊の実は、愛、喜び、平和・・・」と書いている。すなわち“実”ということは枝がそのままではどんなに努力しても実は結ばせないが、生命の源である幹に繋がることによって実が自然と結ばれるというのである。
 「信仰」とはキリストに繋がることであり、繋がることによって自然と実を結ぶのである。頑張るのではなく“繋がる”ことによって得ることができる安心。“実”はキリストに繋がっている証拠となる。それによって私は安定した平安が与えられた。フリーズしない安心を是非!

心のオアシス 2025年10月12日

 今礼拝ではローマ書から順番に学んでいるが、これを書いたパウロは生まれながらのローマ市民権を持ち、ユダヤ人として厳格なパリサイ派に属し、高名なラビのもとで当時の最高の教育を受け、将来有望な存在であった。ユダヤ教に熱心であったゆえにクリスチャンを迫害し逮捕することに躍起になっていた。しかし劇的なキリストとの出会いによって、その価値観が180度変わり、生き方が変わった。世の中が称賛する価値は本物ではないことに気付き、キリストにある絶大な価値観に生きるようになった。「目からうろこ」の語源は、使徒行伝に記されている。キリスト教徒を迫害するパウロがキリストの声を聞き天からの強い光によって一時的に盲目になり、その後癒される様子が、後に「目からうろこが落ちる」ということわざとなった。
 しかし彼は今まで得た知識を捨てたのではなく、また自分のためではなく、神の福音を宣べ伝えるために用いるようになった。当時、様々な哲学が溢れているローマの人たちに哲学的アプローチをしながら福音を伝えているのがローマ書である。読んでいると難しく感じるが深い。
 ローマ書7章には「法則」という言葉が連続して出てくる。多くの人たちは聖書に書かれている内容(神の言葉)は素晴らしいと思っている法則があり、それに従うことができたら良いと感じている法則が働いている。しかし心とは裏腹に肉の部分は従いたくないという思いの法則があり、心は従った方が良いと思っているが、肉は実際に従わない生き方をしてしまう法則があるという。確かに信者でなくても多くの日本人の親はミッションスクールやキリスト教系の幼稚園に自分の子どもを入れたがる。それは子どもに清さや良い影響や正しい教育を与えると考えているからだろう。しかし子どもがクリスチャンになることを望むのかといえばそうではない。何か矛盾を感じる。
 私たちの努力によって神に従うのではない。肉によって頑張っても、神を否定する法則が働き疲れるのみである。神に繋がることによって流される聖霊によって実を結ぶことが自然とできるようになるのである。

心のオアシス 2025年10月5日

 先月10日、米保守派活動家のチャーリー・カーク氏(31)が射殺された。日本では彼のことはあまり知られていないがアメリカでは若い世代からも絶大な影響力を持つ存在であった。暗殺の数日前に日本にも訪問していた。先日8時間にも及ぶ追悼式がなされたが、その前半のほとんどが賛美と礼拝であった。彼はアメリカのカルバリーチャペルに所属していて、トランプ大統領のスピーチの前にチャーリー氏の奥様エリカさんが涙を流しながら挨拶をした。その内容が人間のレベルを超えた衝撃と感動を与えるものであったので、ここにその一部を紹介したい。
 「夫はアメリカや、特に若者たちに対して何かがおかしいと気付き、新たな方向性が必要だと悟りました。迷える若者たちに、手を差し伸べ、救いたいと熱望していました。方向性もなく、目的もなく、信仰もなく、生きる理由もないと感じている若者たち、気晴らしに人生を破壊し浪費している若者たち、恨み、怒り、憎しみに囚われている若者たちを助けたいと思ったのです。彼は彼らにターニング・ポイントUSA(彼が創設した団体)に居場所を持ってもらいたかったのです。そして彼が(狙撃された)大学のキャンパスに足を踏み入れ、そこにいる学生たちにより良い人生を示そうとしていました。自分の命を奪ったあの青年のような若者たちを救いたかったのです。十字架の上で私たちの救い主はこう言われました。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです』(ルカ23章34節) (夫を殺した)あの若者を私は赦します。私が彼を赦すのは、キリストがそうなさったからであり、夫チャーリーもそうしたでしょうから。憎しみへの答えは憎しみではありません。(聖書の)福音書から私たちが知る答えは、愛であり、常に愛です。敵への愛、そして私たちを迫害する者たちへの愛です・・・」
 私は彼らの活動が本物であったことを今回知った。このような赦しを言わしめることができるのは“聖霊”から来る力以外にはありえない。人間の努力や気力ではできるものではない。彼女は赦しの宣言をする直前数秒無言になり天を仰いで祈っていた。救いも聖めも主のみから来る。

心のオアシス 2025年9月28日

 先週、キーボードの奉仕をしてくれている一人の小学生がこんなことを私に話してきた。「神さまのために奉仕できるのは嬉しいんやけど、もっと上手い人たちもいるのに、どうして私が弾くのかわからへん」そこで私はこう返答した。「赤ちゃんがハイハイしたり独り立ちできるようになったり、一歩でも歩いたら、親は喜ぶし嬉しいもんなんだよ。それと同じように上手いとか下手とか関係なく、〇〇ちゃんがキーボードを弾いている姿を見るだけで先生はすごく嬉しい気持ちになるんだよ。神さまも何ができるかできないかではなく、そこに居てくれるだけで〇〇ちゃんの存在を嬉しく思ってくださってるんだよ」と話すと「そうなんや」と受け止めてくれた。立ち話ではあったが知恵が与えられて神さまのお心を伝えることができて感謝であったと同時に私も再度学ばされた。
 親はゆっくりではあっても子どもの成長や存在を喜ぶように、神も私たちが何かをする前に既にその存在を愛し受け止めてくださっている。そして不器用であっても、神のために生きたいという姿勢を喜んで見守っていてくださっている。それが親心ならぬ神心である。それが上手くできたか、できなかったかなどはこの世の価値観で、ランク付けすること自体が愚かなことである。神の国の価値は、その人の“存在そのもの”であり、神のために何かをしたい成長したいという“思い”である。
 先日行われた花園チャペル3周年記念コンサートは満員御礼であった。出演者は勿論のことであるが、チラシ配布や、友人知人家族をお誘いなさったり、当日も駐車場や音響パワポやコーヒー控室準備などの裏方をしてくださった方々のご奉仕の結晶であったと思わされている。チャペル前を歩いていた人も屋根の緑に光る十字架が好きで参加された方もいらっしゃる。音響も前の日からフリーズ状態で音は出るが調整が全くできない状態にあった。しかし長年の経験から主が大きく動かれる時には、前進させまいとする動きが必ず起こることを知っている。だからコンサートが大いに祝福されることを事前から確認できた。原因不明のまま午後から音響が自然回復した。悪魔の計画は潰され主の御心だけがなった。

心のオアシス 2025年9月21日

 先日ある方が動悸で悩んでおられたが、それが治まる時もあるという。それは礼拝している時とお笑い番組を見ている時だというのだ。牧師として“礼拝”は理解できるが、“お笑い番組”は受け入れがたい。しかしながら調べてみると医学的見地から笑うと免疫力が上がると書かれていて病人が笑うと早く病気が治癒し、健康な人が笑うと病気にかかりにくくなるという。医学的には認められているようだ。そして聖書と照らし合わせてみると納得できる聖句を発見した。「最後に私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです」(ピリピ3)
 喜んでいる人はよく笑う。脳は複数の感情を同時に持つことはできないそうだ。そのために喜んでいる時には、恐れ、悲しみ、怒りなど自分を傷つける感情を持つことができないとのこと。日本には「笑う門には福来る」ということわざがあるが、これも神さまが地上に与えられた法則の一つであろうと考えることができる。
 医学博士の杉岡良彦氏がこのような論文を出しておられる。「宗教との関わりが寿命に影響を及ぼすという研究がいくつかある。たとえば40歳以上のアメリカ人男女 8,450 人を対象に、平均 8.5 年間追跡調査した研究によれば、礼拝に全く出席しない人に比べ、週 1 回礼拝に出席する人では 18%、それよりも多く礼拝に出席する人では 30%、死亡リスクが減少していた。また、42 件の別々の研究結果から、全部で 126,000 人を対象として宗教への関与が生存に及ぼす影響を調査したメタアナリシス研究によれば、宗教への関与は生存率を 29%上昇させることを明らかにしている。またうつの患者865 人を 12~24 週間追跡調査して、うつ病からの寛解速度に影響を与える因子を調査すると、少なくとも週に 1 回は礼拝に出席し、少なくとも毎日祈りの時間をもち、少なくとも週に 3 回聖書を読む患者は、それ以外の患者よりも 53%うつ病からの回復が早かった。」この研究結果を受けて私は皆さまに礼拝に出席し、祈り、聖書を読むことを勧める。そしてテレビやYouTubeを観るならお笑いを!(笑)

心のオアシス 2025年9月14日

 この世には色々な“法則”が存在している。宇宙の法則、自然の法則、道徳の法則、パレートの法則、マーフィーの法則など様々な分野においてそれは数知れない。今、礼拝で学んでいる新約聖書のローマ書の中にもいくつかの法則が紹介されている。先週は「行ないの法則」と「信仰の法則」が出てきた。ユダヤ人にとっての“行ない”とは、律法を守り行なうことが救いへの道だと考え、それを守り行なっている者は賞賛の対象になっていた。日本には「自己啓発」という「行ないの法則」がある。「こうすれば成功できる」「大きな夢を持ってビックになれ」などと教えられる。確かに私たちの気持ちの持ち方や言動次第によっては道が開かれたり閉ざされたりするものである。これは神がこの地上に与えた万民公平に与えている「行ないの法則」である。神を信じる者であっても、信じない者であっても関係なく、この法則に従えばこの世の中では報いを得ることは可能である。努力次第で様々な道は開かれるし、良い人間関係を築くこともできる。聖書にも「夫婦」「親子」「上司部下」などの人間関係を平和に過ごす法則がいくつも書かれている。これはこの世に神が与えた恵みである。しかしパウロは、魂の救いは「行ないの法則」によっては獲得できないことを説明している。それは誰も誇ることがないように、神の子イエス・キリストが十字架にかかり罪の代価を命をもって支払ってくださった“キリストの行ない”を信じる「信仰の法則」によってのみ救われ天国へ入れていただけるというのである。
 神を信じない者にとっての「行ないの法則」は、“自分のため”であるが、神を信じる者にとっては、神の愛に応答するために神が願い喜ばれる行ないをしていきたいという動機へと変化していくものである。自己実現なのか、神実現なのかで大きくその意味も変わってくる。「ヤベツの祈り」は、「私の領土を広げ、災いから遠ざけ、苦しむことがないようにしてください」という内容で自己中心的ととらえられるが、実は「神が誉れを受けるため」「神なしに私の幸せはない」という神への深い信仰と信頼の告白なのである。「信仰の法則」によって人生観は変わっていく。

心のオアシス 2025年9月7日

 今、私たちの教会内では不思議な波が来ているように思う。ここ数週間で何人もの方々から恵みの報告を受けた。「本当に〇〇の穏やかな心に親子共救われ毎日過ごしています。何十年という長い年月でした。やはり神さまの力だと毎日感謝の心で一杯です」この家族は一人の人物によって毎日涙しながら生活をしておられた方だが、教会に繋がり神を信じたことによって問題だった人に大きな変化が起こるようになったということだった。また関東から帰省中の家族が久々に親に会って、恵まれ変えられている様子に感謝の言葉をかけてくださった。またある方からは「小崎先生から全く私利私欲を感じることがなく、神が導かれていることがよくわかります」と牧師冥利に尽きる言葉をいただいた。勿論人間なので、肉的欲が起こらないわけではないが、教会開拓をするようになってから「恥は我がもの、栄えは主のもの」と願うようになり、自分を隠して主が前面に出てくださることを求めるようになった。なぜならそれが一番楽で楽しい人生であることがわかったからである。“自分”が前面に出ると、自分の思い通り上手くいっている時や賞賛されている間は嬉しいが、そうでなければ落ち込んだり、嫉妬したりするようになる。パウロはピリピ書3章で自分が誇りとしていたすべてのものを損と思うようになったばかりか、世的に誇ることの出来る一切のものを「糞土のようなもの」と表現し、「自分の弱さを誇る」(Ⅱコリント12)と言うようになった。それは世の誇りを盾にして生きるよりも、創造主が導かれる人生の方が数万倍良いということを悟ったからである。
 先日は“異言”の賜物が与えられ、霊によって祈る恵みを体験された方や、按手祈祷によって神の愛がリアルに注がれて涙が溢れて理屈で理解しようとしていたことが、もうどうでもよくなったと目が開かれた人たちも起こされた。牧師がどれだけ「神が共にいます」「神はあなたを愛しておられます」と語っても、見えない触れることもできないお方を信じることは難しい。しかし“神の霊”によってそれは可能となる。理屈や理性を超えた主の働きがすべてを明らかにしていくのである。