礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2011年3月27日

聖ルカ病院の日野原重明先生は、99才の現役です。先日、朝日新聞(3月3日)のオピニオン欄に書かれた文章です。
 『挑戦する限り老いない』今年私は100才を迎えます。これまでの人生は助走段階で、さあ、これからジャンプだという感じですよ。
 日本では50才代で肩たたき、60才で定年です。しかし、米国の大学では、やる気と実力があればテニュア(終身在職権)を取得し、生涯働き続けられる。実力さえあれば学外から研究費を獲得し、大学に貢献もでき、定年はない。 私などは100才に近づくほど、だんだん音が大きくなるクレッシェンドのようになる。講演の数が年々増え、より生産的になってくる。これまでの人生で、引退して悠々自適に過ごそうと思ったことはありません。業を終えるという意味での卒業や定年は、私にはない。現在も病院の理事長をはじめ、さまざまな財団や学会、学校の理事や会長など90近くの役職に就いていますが、多くがボランティアです。困った人を助けるボランティアの仕事は無限にある。報酬が発生しない自由な立場でリーダーシップを持ってボランティアの仕事をやるときの生きがいは大きい。人は生きがいを感じながら年を重ねれば、いつまでも若くいられる。皆さんにもぜひ、ボランティアをやってほしい。
 それと、歳を取ったから引退するのではなく、それまでにやったことのない未知のものに挑戦してほしい。やったことがないからできないというのは、能力がないのではなく、ただ単にそれまで能力を発揮する機会がなかっただけなんです。やったことがないから、なんて言わずに、とにかくやってみようとポジティブに生きる。哲学者のマルチン・ブーバーは「人は創(はじ)めることを忘れない限り、いつまでも老いない」と言っています。いくつになっても前向きな気持ちで、新しいことに取り組めば、できるんですよ。(後略)
 自分の年齢や能力や環境などを盾にして逃げ腰余生を送る人たちも沢山いますが、99才の先生に言われると言い訳できません。私も体は衰えるでしょうけれども、気持ちはいつも若者たちの模範であり続けたい。

心のオアシス 2011年3月20日

ここ数ヶ月の間に聖書入門セミナーを受けられた数名の方々から、「自己実現と神実現のお話を通して、今までの疑問が解決しました。」と言われました。自分を中心に物事を考えるから、さまざまな歪(ヒズミ)が人生や社会、人間関係に起こるのだということに納得いくというのです。
 「聖書に隠された成功法則」(松島修著)の抜粋ですが・・・現代科学では、天動説が間違いで地動説が正しいとされています。物理的には、視点(座標)の違いによる表現の違い、見方の違いであり、どちらも正しいともいえます。地球に住む人にとっては、つまり地球を中心に考えるのであれば天動説より地動説のほうが圧倒的に楽で分りやすいので、現在では地動説を基準にして天文学ができています。地球中心で考えるのではなく、宇宙全体から考えるほうが本来の見方だからです。
 天動説とは、太陽や月や星や空が動いている、すなわち地は固定されていて、天が動いているのだという昔考えられていた説だそうです。地球を中心に考えるとその通りだと思います。地動説は、地球の方が動いていて、星が動いているように見えるという考え方です。
 私たちの人生も同じく、自分を中心に考えることもできますが、神の視点から物事を考え見ることもできます。生まれつき不自由な人を見てイエス様の弟子達がこのように質問しました。「この人がこうなったのは、本人のせいですか? それとも両親の責任ですか?」それに対してイエス様は、「これは本人でも両親でもない。神の栄光があらわれるためですよ。」とおっしゃいました。これは神視点で考えるとそうなるのです。
 「東日本大震災は何故起こったのか?」と専門家は分析したり、ある知事の「日本人の物欲・肉欲を一掃するために起こったんだ」と心無い発言も飛び出ました。しかし私がした最近のメッセージに、全ての出来事は神さまが救い主だというサイン(しるし)だと考えるなら、この災害を通してどんな人間も無力であることを悟り、救いを神に求める為のサインだと考えるべきです。被災された人々の犠牲が無駄にならないように、それ以上にキリストの十字架の死が無駄にならないようにと祈ります。

心のオアシス 2011年3月13日

CGNTVに、「毎日幸せになる時間」という番組があります。その中でハーヨンジョ先生がこのような詩を朗読しておられました。
 
私たちは時々、神さまが約束を守らずに、遅らせていると考えます。
 しかし、神さまは、約束を忘れることも、遅らせることもありません。
 アブラハムの生涯を通して、このような事実を学ぶことができます。
 神さまがアブラハムに与えようとされた信仰の時間は25年でした。
 しかし、彼はその期間を耐え抜けずに、何度も倒れました。
 失敗し、疑い、挫折しました。
 しかし、神さまは、一度もそのご計画や時間を変えることなく、アブラハムを激励し、悟らせながら、信仰の人として造り変えました。
 あなたは放棄しても、神さまは放棄なさいません。
 あなたは忘れても、神さまは忘れません。
 私たちを通して計画されたことを、必ず成し遂げられます。
 これまで信仰の眠りについていたなら、たましいの目を覚まし、信仰が回復されますように願います。
 
 神さまのタイミングと私たちのタイミングは違います。なぜなら、私たちは過去・現在・未来という時空の中に生きていますが、神様は四次元以上の永遠という時空に存在されているので、それは私たちにとっての千年は一秒のような感覚でしょう。そのような神さまがあえて時間を創造されたことには深い意味があるということです。待ち、耐える時間を通して、実は私たちは訓練され育まれているということなのです。
 目に見える現実の世界では時間がかかっても、神さまは、確実に私たちの人生を導いてくださっています。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」
(イザヤ書49章15節)

心のオアシス 2011年3月6日

先日、心温まるある人の体験談を聞きました。
 関空から羽田まで飛行機で移動するため、ある航空会社のカウンターでチケットを買おうとしていました。シートの値段を見るとエコノミー料金に千円足せばスーパーシートというグレードアップされた席に座れることがわかり、その席を取りました。機内に入ってみると、何とエコノミークラスの席よりスーパーシートの方が混んでいる状況でした。指定の席に座って回りを見ると、隣に小さな男の子が座っているではありませんか。「小学生のくせにスーパーシートに座るなんて・・・」と思っていると、男の子は斜め前の席に座っている母親らしき女性に手を振ったり、向こう側に座っている人に目配せして合図したりで、どうも一家族全員がスーパーシートに座っているのがわかりました。やがて飛行機は離陸しましたが、途中乱気流に入ってしまいシートベルトをしていなければ、天上にぶつかるほどの酷い揺れでした。悲鳴をあげる人、後ろでは吐いている人の気配がしたりと、今まで経験したことのない揺れに機内は騒然としました。ふと、隣の少年を見ると、身動きせず、乱れることなく平然と席に座っていました。乱気流から脱し、やがて羽田空港に着陸するアナウンスがあり、機長から特別なメッセージが発せられました。「今日は、私の最後のフライトでした。パイロットとして、今まで一度も事故がなく安全に飛べたことが私にとって最も嬉しいことです。これからも当社を応援してくだされば幸いです。本日はありがとうございました。」すると、隣に座っていた男の子が大きな拍手をしました。それにつられるようにして、皆が拍手しました。「大した小学生やな~」と思っていたのですが、着陸してからわかったことは、この男の子は機長の孫だということでした。この男の子の「僕のお爺ちゃんは失敗することなく必ず安全に運んでくれる」という全幅の信頼によって、乱気流の中でも平静でいることができたのです。
 私たちの人生の機長はイエス・キリストです。乱気流があろうと、何が起ころうと大丈夫! 一度委ねてみられたらいかがですか?

心のオアシス 2011年2月27日

私たちは通常、目標を持って努力してそこへ到達することを教え込まれて大人になります。別にそれが悪いわけではありませんし、否定すべきではないでしょう。むしろそれはこの世の徳と言われることですから受け入れるべきであると思います。そしてそうでないと成り立たない現実もあります。しかしその価値観は、聖書が教える救いには当てはまらないということも知っておかなければなりません。多くの人たちは、今まですり込まれたことを念頭に置いて、救いを得ようとします。すなわち、救われるために、神に愛されるために努力しようとするのです。しかし、いくら努力してもそこへ到達できないジレンマが起こります。聖書の中で、イエス様が石打ちに値する罪の女性に対して、「私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」と言われた箇所があります。有罪が確定しているような女性に対して、「赦されるというところからスタートして、赦されている故にもう罪の生活から離れなさいよ」と言われているのです。赦されているという安心感の中で、この女性は歩み出すことができたのです。
 「聖書に隠された成功法則」(松島修著)の本の中に、自己実現の問題点は、「今の私は、まだ自分が望むステイタス(地位・存在価値)に達していないから、そこにたどり着くために頑張ろう」という概念が潜在的に潜んでいて、そういう人のセルフイメージは、まず根本的に低いところにあって、そこから「這い上がる」というイメージを持っているということが書かれています。ですからセルフイメージが低い人ほど、成功からは遠くなるばかりか、モチベーション(動機づけ)が継続しないということなのです。
 しかし、神があなたを愛していることを知ると違う世界が開かれてきます。「努力する」のではなく「知ること」なのです。自己実現とは、自分で定めた目標を目指すことであり、神実現とは、すでに神が与えておられる目的に向かって進むことなのです。
 忘れないでください。あなたはすでに神に愛され、赦されています。

心のオアシス 2011年2月20日

 旧約聖書を読んで神に対して「怖い」「恐ろしい」というイメージを持つ人は少なくない。なぜならたびたび怒りを発しておられる場面が出てくるからです。この「神の怒り」に対するイメージを変える文章を発見しましたのでそれを紹介します。マーク・ブキャナンの本の抜粋です。   
私は10代を過ぎ大人になるまで、父から愛しているという言葉を聞いた覚えがありません。でも、私の記憶には父の愛を初めて確信したときのことがハッキリと残っています。それは憤怒という表現に値するほど父が怒ったときでした。そしてその怒りは私のためだったのです。その日、私は家の前の通りで友達と遊んでいました。どこからか隣の町のいじめっ子が来て、私たちの方に近づいてきました。その子は私より3つ年上で、体も大きく、よく登下校時に私が行く道で待ち伏せし、暴力を振るったりしました。そして今度は私の自転車を奪い乗り、周囲をぐるぐる回りながらからかい、挙句には自転車を投げ出し、私に殴りかかってきました。私は何回か殴られ、そのまま倒れました。しかし突然、降りかかろうとしたコブシが止まったので、私は上を見上げました。なぜかその子は非常に怯えた顔をしていました。その子が私をいじめているのを窓越しに見た父が、助けに来たのです。父はその子のコートの襟首をつかみ上げました。「2度とうちの息子をいじめるな!」それで十分でした。それは私を守ってくれる、私の敵を倒し、すべての間違ったことを正してくれる、最後まで信頼できる愛でした。私は父の怒りの陰で安らぐことができました。おかしく聞こえるかもしれませんが、本当なのです。私は父の怒りを通して父の愛を確信しました。父の怒り故に、父の愛の中で安らぐことを学んだのです。
実は神が向けられている怒りは、私たちに対してではなく、私たちをむしばみ、苦しめ、がんじがらめにしている「罪」に対するものなのです。私たちの中にある「悪」の部分だけを抜き取りたいと願い、実行されたのが、イエス・キリストの身代わりの十字架だったのです。神は怒っておられます。でもその陰で私たちは安息を覚えることができるのです。

心のオアシス 2011年2月13日

息子が小学生の時、PTAから配られたプリントの中に非常に興味深い内容の文章が掲載されていましたのでお分かちします。
ある研究者が、一定のプログラムを通して、将来絶対に伸びる可能性を秘めたよりすぐった生徒30名を選びました。この子たちの成績は必ず伸びると太鼓判を押された子供たちでした。
そして学校にその子供たちのための特別クラスを設けて、この生徒たちをある一定期間、教育してくださいという研究者からの依頼を受けて、先生が送り込まれました。先生がその特別クラスの生徒達を見ると、どう見ても優秀には見えないような子供もいましたが、専門家が様々な観察と実験から選ばれた子だから、伸びるだろうと定めた期間、他のクラスと同様の授業を行ないました。
その結果、実際にその特別クラスの子供たちの成績が伸びていきました。やはり選ばれた特別な生徒たちであったから素晴らしい結果だったということでしたが、後でわかったことは、そのプログラム自体デタラメで、無作為に各学級の生徒が数名ずつ選ばれて、この特別クラスに送り込まれていただけだったのです。そのことは教師も親にも伝えられていませんでした。何が違ったかというと、先生たちや回りの特別クラスの子供たちに対する視線でした。「この子たちは普通の子ではない。どんな成長を遂げるのだろうか!」という期待をもってその子たちを見、教え、接していたというのです。
箸にも棒にもかからない自分中心にしか生きることができない私たちがどうして救われ、義とされ天国に行くことができるのでしょうか? それは神さまが私たちに「救われるべき者、愛する者」としての信仰の視線を送っておられる故です。
この世の中が、信仰の視線を用いて成果をあげているならば、私たちはもっと用いるべきだと思います。信仰の視線を受けた私たちは、今度は信仰の視線で他者や社会や現実の問題を見ることができるようになります。そのような信仰が与えられるよう是非祈ってみてください。 

心のオアシス 2011年2月6日

ある時、ひとりのアラビヤ人がらくだに大学の先生を乗せて、長い砂漠の旅をしました。ある所まで来ますと、アラビヤ人はらくだを止めて砂の上にひざまずき、敬虔に神に祈り始めました。大学の先生は、興味深くじっと祈っている姿を見ていました。祈り終わった時、先生はアラビヤ人に、「おい、今、君は何をしていたのかい?」と聞きました。すると、「はい、私は今、神にお祈りしていたのです。」と答えました。「ふん、神に祈った? お前はバカだね。」「先生どうして私はバカですか?」「だって、神なんか、見えないじゃないか。見えないものを信じる奴はバカだよ。」アラビヤ人は黙ってさらに旅を続けました。夜になりました。ふたりは砂漠にテントを張って一夜を過ごすことになりました。ぐっすりとふたりは眠りました。朝になりました。大学の先生は、先に目を覚ましてテントの外に出ました。すると急に大声をあげました。「おい、君、大変だ! 夕べこのテントの回りを獣が歩き回っていたぞ!」「先生、あなたはその獣を見たのですか?」「いや見てはいない。」するとアラビヤ人は、「先生、あなたもバカですね。」と笑いました。「どうしてバカなんだ?」「先生ね。あなたは昨日、見えないもの、見ないものを信じる奴はバカだと言ったでしょう?」「いや、私はバカではない。私は獣を見てはいないが、テントの回りに獣の歩いた足跡があるのだ。その足跡によって獣の存在を認めたのだ。」アラビヤ人は知恵をもって次のように神の存在について説明しました。「先生、あなたは獣を見なくても、その足跡によって、獣のいたことを認めるのですか? ちょっと見てくださいよ。美しい太陽が昇ります。そして美しい砂漠・・・これらは神の創造の足跡ですよ。私は神を見ることはできませんが、神の創造の足跡によって神の存在を知るのです。」
神さまは霊なるお方で見ることができません。しかしこの現実の世界を通して、霊の世界を示しておられます。例えば夫婦の関係を、聖書はキリストと教会との関係として表しています。この世のすべてのものは、神さまの創造の足跡です。さぁ、今日も神さま探しをしましょう!

心のオアシス 2011年1月30日

私の娘が高校1年生の時、ロータリークラブの交換学生として台湾の高校へ1年間派遣された時期がありました。娘が現地にいる間に一度は台湾へ行ってみようと思い「台湾の教会研究」という口実で娘に会いに行きました。インターネットで格安台湾旅行を見つけて手配しましたので、当然飛行機はエコノミー席で、ホテルは低いグレードのものでした。ところが現地の教会が、「違うホテルを用意しましたのでそちらに移ってほしい」と要請してきたのです。その教会は以前、何人かのメンバーが来日した時に、私たちの教会でお世話をしたことがあったのですが、私は個人的には特別なことをしたわけではありませんでした。ですから断るつもりだったのですが、強い要望に折れてその親切を受け留めることにしました。移動してみると、個人では到底選ぶことができないような高級ホテルにグレードアップされていました。そのような接待を受けるに相応しくない者に対する身に余る善意に驚愕したのを覚えています。
もう一つのグレードアップは、以前に家内とアメリカの教会研究へ行かせていただいた時、やはり一番安いエコノミーの航空券を買いました。ところが、いざ搭乗しようとした時に呼び止められて夫婦共にエコノミークラスから、ビジネスクラスを飛び越えて、ファーストクラスまでグレードアップされたことがありました。これは飛行機会社のダブルブッキングが原因だったのだと思いますが、エコノミーの値段しか支払っていないのに、食事もシートもおやつも格段の差があるファーストクラスの素晴らしいもてなしに感動したことがありました。
私たちが知らない間に、罠に陥れられたり、グレードダウンされたりすることは世の常です。ですから身に覚えのないグレードアップには戸惑ってしまうもの。しかし人類すべての人は、何の差別もなく神さまからグレードアップされていることをご存知でしょうか? 支払いは全部イエス・キリストがしてくださったのです。この神さまからの善意・愛の行為を受け入れるだけで、天国へ行けるのです。そして神の相続権をすべていただけるのです。一度神さまに甘えてみてはいかがですか?

心のオアシス 2011年1月23日

1860年代、米国シカゴにホレーショウ・スパフォードというクリスチャンの実業家がいました。彼の事業は大きな成功を収め、愛する妻、息子、4人の娘たちと幸せな家庭を築いていました。通っている教会においても大きな貢献をしていました。
 1871年。そんな幸せに満ちた彼の家庭に悲劇が訪れました。シカゴの大火事によって息子を失い、彼の事業にも大きな損害を受けました。しかしそんな状況に追いやられたにもかかわらず、彼と妻は大火によって被害を受けた人々のために財と時間を費やし捧げ、多くの人々に助けと励ましを与えました。
 ある時、彼と家族はヨーロッパで休暇を過ごすために汽船を予約しますが、スパフォードだけが仕事の関係でやむなく別の便でヨーロッパに向かうことになりました。先にヨーロッパに向かった彼の妻と娘たちを乗せた汽船は航海中に船と衝突し、彼の妻は救助されましたが、娘たちを全て失いました。
 スパフォードはその悲報を受けて妻の待つヨーロッパに向かい、航行中の汽船のデッキから娘たちを呑み込んだ海を深い悲しみの中、見つめました。そんな悲しみに打ちひしがれた彼の心は誰にも慰めることは出来ないはずでした。しかし大海原を見つめる彼の心を驚くほどの平安が包み込み始めたのです。「愛する娘たちとは再び天国で必ず会える!」その慰めを直接神さまから与えられました。そしてその時に書き記した詩が、教会で愛される讃美歌となったのです。

 安けさは川のごとく 心 浸す時 
悲しみは波のごとく わが胸 満たす時 
全て 安し 御神 共にませば     (神聖歌252番)

人はその意のままに神が動くことを奇跡と呼びますが、本当の奇跡とは、神の意のままに人間が従うことをいうのです。