心のオアシス
心のオアシス 2017年9月17日
私たちは何かしら目標とか目的をもって生きています。なぜならそれが様々な原動力になるからです。働くことも、学ぶことも、生きることも、ゴールが見えないと、虚しくなってきます。ある国の拷問の中で、バケツの水を右から左に移し替える作業をずっと繰り返させると、やがて発狂してしまうという話を聞いたことがあります。人間は無意味だと自覚していることを継続することはできないのです。逆に他者から見て無意味に見えても、本人の中にゴールが見えているならば、それを続ける活力が与えられます。しかしながら成功できた人も失敗ばかりの人も、友人に恵まれた人も、孤独な生涯であった人も、みな同じゴールが最後には待っています。それは、人は死んでいくということです。それで全てが終わりであれば、人の一生というものは実に空しいことでしょうか。
聖書は、私たちの最終ゴールは、「天のふるさと」に帰ることであると明確に記しています。旧約に出てくるアブラハムも、この地上では報われることが何もなくても、「天のふるさと」を望みみて喜びながら生きることができたとあります。イエスさまは、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍ことができたとも書かれています。この地上での目標設定も大切ですが、それはこの地上のみで終わってしまうものです。でも永遠の世界(肉体の死の向こう側)におけるゴールを知っているならば、鬼に金棒です。この地上では孤独であっても、弱者であっても、負け組と呼ばれたとしても、希望が与えられます。
この希望は、私たちの罪の身代わりのために十字架で死に、3日後に甦られ、今も生きて働いておられるイエスさまを心にお迎えするだけで与えられます。苦行を行なうこと、律法を守ること、さまざまな努力をすることによって救われるのではありません。イエスさまが全部してくださるのです。そこに安定した安心が与えられるのです。心にお迎えすることによって、私たちの生き方が自然と変えられていくのです。
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)
心のオアシス 2017年9月10日
明治の義人と言われた田中正造氏が、「人は、神に愛育されて、愛の心にあふれる」と言いました。教え育てることを「教育」と言いますが、愛し育てる「愛育」によって、人は愛の心にあふれるというのです。確かに教育によって「愛」の定義を教えることはできるかもしれませんが、愛の心を養うためには、愛情に溢れた人格に触れなければ育ちません。
聖書に登場するザアカイという人物は、取税人でありました。当時の社会では、取税人はローマ帝国が徴収する税金を取り立てるのですが、決められた額以上に徴収して、それを懐に入れて私腹を肥やしていることで知られていました。ユダヤ人でありましたが、ローマ帝国に加担していたので、ユダヤ人の中では村八分にされるような嫌われ者でした。しかし、味をしめてしまうと、自分がアブラハムの子孫であることは、わかっているけど、辞められなかったのです。ある日、イエスさまが村をお通りになられた時、「ザアカイよ、今日、あなたの家に泊まることにしています。」と声をかけられました。彼にとっては信じられないできごとです。ユダヤ人たちからは、煙たがられ、嫌われ、一緒に食事をする人は誰一人いませんでした。今、人々が注目し、人気を集めている、あのイエスさまが家に来てくださるというのです。彼は急いでイエスさまを招き入れて、一緒に食事をしながら、その愛と人格に触れただけで愛の人に変わってしまったのです。ザアカイは宣言しました。私の財産の半分を貧民に施します! 不正に取り立てていた人たちには4倍にして返します!」
私も似たような体験をしたことがあります。アメリカ留学時代に、アルバイト先のボスが、私を特別扱いし、愛と親切を注ぎ続けてくださいました。私のような者に、そのようなことをしても何の得にもならないのに一方的に愛してくれたのです。私は指導されたわけではないのに、心に変化が起こりました。それはボスの下で働くからには、自分のためではなく、ボスのために働こう!と。それは、人は無条件の愛に触れ受け入れると変わることができる!と、思った瞬間でした。栄光在主。
心のオアシス 2017年9月3日
聖母マリアも「心に納めること」を知り、かつ実行した人でした。藪から棒の受胎告知に始まり、神の子であるイエスが十字架上で悲惨な死を遂げるのを見守るまでの30数年間、マリアの生涯には、不可解なこと、「言えば愚痴になる」ことが沢山あったと思うのです。マリアはそれらのことを「ことごとく心に納めていた」と、聖書は記しています。
このように、誰にでも他人にいえない悲しみや苦しみがあるのだ、そういうものを抱えて生きているのだと思う時、私たちの相手に対する思いとまなざしは優しくなるのではないでしょうか。
そして自分もまた、すべてを洗いざらいぶちまけることなく、聖母マリアに少しでもあやかって、愚痴になることを黙っていられる人になりたいと思っています。それは決して、自分の感情を抑圧してしまうことではなくて、「神さまのなさることに間違いはない。私たちの力に余る試練をお与えにならない」と、神の愛を信じ、納得して、出来事の一つひとつを“胸にあたため、花に変えて”神に捧げることなのです。
(「目に見えないけれど大切なもの」渡辺和子著より)
答えや解決をすぐに得たいと願うのは私たち人間の特徴です。しかし、すべてのことが“すぐに”理解できるものではありません。理解することに執着しすぎると、それがストレスになります。でも、神さまはそんなに急がれていないようであります。この何千年もの歴史を通して、ご自身をあらわされておられるお方ですから、かなり気長にならないと神さまのペースには付いていけません。「忍耐」という言葉には厳しさを感じますが、「胸にあたためる」という表現は受け入れやすく感じます。
神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみを
むねにあたため
花のようになったらば
神のまえにささげたい (八木重吉)
心のオアシス 2017年8月27日
フィリップ・ヤンシー先生の著書の中からの抜粋です。
ジャン・ピエール・ド・コサードは、「毎分、毎秒の中に神の国があり、御国の糧を含んでいる。だから、どうでもいい瞬間は存在しない」と何度も強調しています。神はすべてのことを通して働かれます。「聖なることかどうかを問うのではなく、その中にある神の御手を求めなければなりません」と繰り返し主張しています。それだけでなく、時間そのものが神の働きなのだといいます。時間は「神の働きを記録する歴史」であるからです。「今立っているところで神を求めなさい」という教えはいつでも嬉しいものではありません。未来の瞬間は、挑戦的であり刺激的で、報いは大きいだろうと考えながらも、「今」という時間に捧げるべき礼拝を、ただ無視してしまいたいことがいかに多いことでしょう。しかし、覚えておかなければならないことは、主が恵みを注いでくださる場所は、まさに今立っているところなのだということです。
私たちは、自分たちの輝かしい未来の祝福を求めるために神さまに近づく傾向にあると思います。私たちの問題の解決を求め、救いを求め、癒しを求め、平和を求め、経済や人間関係の回復など、未来に対する良きものが与えられることを神さまにお願いします。ですから“今”を神さまに感謝し、賛美することは、なかなかできないのです。まるで今は祝福も恵みもないかのようにして「私を祝福してください! 恵みを与えてください!」と求めるのです。しかし、苦しみから逃れ、安心が与えられた時だけに神さまが恵みを注がれておられるのではなく、実は、解決へのプロセスの途中にある困難、孤独、痛みの只中で、すでに驚くばかりの恵みを注ぎ続けてくださっているのです。私たちにとっての無駄で無意味のように思われる時間は、神さまにとって最も重要な時間であることを悟るべきでしょう。私たちの頭で“今”を理解できなくても、後でわかる神さまのご計画が必ずあります。最終的には、「天国」において、すべての地上での不明な点が一つの線で結ばれるのです。
栄光在主!
心のオアシス 2017年8月20日
一人のクリスチャン男性が、何年も前に最愛の奥様に先立たれてしまいました。彼はショックで何年も途方に暮れて、思い出すたびに涙していました。ある日、自分の傷や痛みばかりに目を向けないで、他者の痛みに目を向けるように考えを変えました。傷ついている人たちを助けたいと思うようになりました。しかし何をしたらいいのかわかりませんでした。なぜなら彼は伝道者であるわけではなく、普通に電話会社に勤めて退職したばかりの人だったからです。彼は考えました。「私が助けることができるのは、肉親を失った人たちを励ますことができるのは、自分でもわかる。よし、自分と同じ経験をした人たちを慰めよう!」それから、彼は誰も頼んでいないし、招待もされたわけではなかったのですが、教会の葬儀に顔を出すようになりました。ただ現れて、悲しみ落ち込んでいる人たちに慰めの言葉を一言かけて帰っていくのです。時には哀れみを示して、彼らの話し相手にもなりました。そうこうしている内に、彼自身の傷が癒されていきました。そればかりではなく、何年かしてからその働きが教会でも認められて、「慰めのミニストリー」の代表者として、教会のすべての葬儀を執り行うスタッフとして働くことができるようになったのです。彼は悲しみに暮れている時に、誰か自分を元気づけてくれはしないかと待っていたのではなく、反対のことをしたのです。そして彼が他の人の必要を助け始めたときに、状況が変わり始めました。
私たちは、「受けないと他者に愛を与えることなどできない」と考えますが、聖書には、私たちが神を愛したのではなく、まず神が私たちを愛してくださった、とあります。わたしたちは神に愛されるためにではなく、すでに受けている神の愛に応えるために生かされているのです。
痛みや悪を乗り越える方法は、善を行なうということです。傷をいたわるだけでは、乗り越えることはできません。復讐して、あいこになったとしても、不正を乗り越えることはできません。イエス・キリストこそが、栄光を受ける道の模範を示してくださいました。私自身も、その模範に従うことができるよう、聖霊さまの助けを日々祈っています!
心のオアシス 2017年8月13日
ルカによる福音書には、ある一人の女性の姿が描写されています。彼女は、「その町で罪の女であった」というのです。恐らく売春婦であったのでしょう。イエスさまがパリサイ人の家で食事の席につかれていたとき、泣きながら入ってきて、その足元に寄り、涙でイエスさまの足を濡らし、自分の髪でそれをぬぐい香油を塗ったのです。見ていた人々は、「もしこの人が預言者であるなら自分が触っている女が誰だか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」と思っていました。
遠藤周作さんは、この出来事についてこう解説されています。
この罪の女性は、恐らくイエス・キリストの話しに耳を傾けながら、ふと幼年時代のことが心に浮かんできたのだろう。それは、自分を金で買った養父にたたかれ、泣きながら夜をあかした日のこと。しばらくしてその養父に売られていやしい仕事を始め苦しんだ日のこと。そして体中に吹き出物をつくって、足を引きずりながら、子供たちに石で追われながら、村から村、町から町をさまよい、やがて荒野で死んでいく、広場で見た売春婦であった老婆のように、自分も同じような運命をたどるであろうことを想像しました。しかし、もはやこの罪の仕事をしていく以外に生きていく方法はないと、自分の身も心も傷つけながら今日まで生きてきたのであろう。というのです。しかしイエスさまは、この女性の落とした涙を通して不幸な半生を全て理解されました。そしてこの女性に対するイエスさまのかけられた言葉は「あなたの罪は許された。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい」
イエスさまは、足に落ちる涙、衣にそっと触れた指先だけで、その人の人生のすべてを悟られるお方です。誰もあなたのことを理解できなくても、あなたのすべてを理解し受け入れてくださっている安心感。人は若い時代、将来のことで悩み、中年になれば、老後のことを心配し、壮年になると「どのような死を迎えるか?」ということで、悩むものです。
地上での大きな悩みは、天国ではちっぽけな事だったと気付くのです。
心のオアシス 2017年8月6日
大学を卒業し、何年か働きましたが、大きなストレスと抱えていた問題が原因で、うつ病になり、仕事ができなくなりました。私という人間は、本当に無価値で、役に立たない存在になってしまったと思いました。何をしても、何を見ても、頭は絶望感でいっぱいで、自分の感情は全く動かなくなっていました。そんな時、Fちゃんは私を教会へ誘ってくれました。自分自身でも、見捨ててしまいたくなるような私を、Fちゃんはまるで宝物のように大事にしてくれました。「私の目にはあなたは高価で尊い」その言葉が心に響きました。しかし、私はその頃、人に会うのがつらい時期で、教会へ行くことができなくなりました。あんなによくしてくれたFちゃんに対しての罪悪感から、連絡もできなくなっていました。それから、三年ほど時間が経ちました。その間に私は、教会も、聖書も、神さまも、全て忘れようとしていました。そんな私を、再び、Fちゃんは教会へ誘ってくれました。「東京に教会ができたよ」と。でも、私は、本当に行くことが怖かったのです。Fちゃんは私の行く日にあわせて仕事を休んでくれました。久しぶりに会ったFちゃんは、「会いたかったぁ!」と私を抱きしめてくれました。それから、私は一人でも教会へ行き、後ろの方に座り、誰にも話しかけられないように逃げるように帰る日々が続きました。しかし、私の心は確実に変えられていきました。メッセージで、「弱さは神の戸からの聖なる容器(いれもの)であり、神ご自身が宿りたもう至聖所である」と聞いたとき、私の涙は止まりませんでした。私の人生にマイナスとしか思えなかった弱さが、プラスへ変わった瞬間でした。この神さまと歩んで行きたい。そして、私は2004年、教会で受洗しました。私はうつ病になったことで、神さまと出会えました。頑固で傲慢な私は、自分の弱さを知ることができ、神さまに降参できました。そして、その弱さが私の宝物となりました。今は、とても平安です。何故なら、私の心の弱さの中に神さまが住んでいることを日々実感できるからです。私の人生をマイナスからプラスへ変えてくださった神さまに感謝します。 (ブログ「ことばのSweets」より引用)
心のオアシス 2017年7月30日
映画にもなっている「ベンハー」を書いたルーウォーレスという文学者は、無神論的運動をしていた人物でした。彼は5年間もの月日をかけてキリスト教を研究し、「キリスト教撲滅論」を書こうと考えました。しかし、彼の心から離れなかったことが二つあったというのです。その一つは、「どうしてあの軟弱な弟子達が、ある時期を境にして強くなったのか?」もう一つは、イエス様が十字架上で「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」この告白がいつも心に引っかかっていました。そしてルーウォーレスが「キリスト教撲滅論」の第2章を書いていた時に「我が主よ、救い主よ」とキリストを受け入れ、彼が「キリスト教撲滅論」を書くために研究に費やした5年間の全てを注いで「ベンハー」の小説を書きました。自分の個人的体験を、中心人物のジュダ・ベンハーに託して、世界に自分が救われた証しとして発表したのであります。
イエス・キリストが今も生きて働いておられることを、どうしたら人々に伝えることができるのでしょうか? 一番の方法は、主によって変えられた私たちが、その証人として、証言するということです。目撃者が証言することが一番効果的で説得力があるのです。神さまは当事者ですから、いくら「神」だと主張をしても信ぴょう性が疑われます。それを払拭するには、神さまによって変えられた人々が、体験をお分ちするしかありません。弟子たちがどうして変えられたのか? 私たちがどうして変えられたのか? それは理屈ではわかりませんが、確かに人を自分を変えてくださった方がいて、それは「神さま」だと告白できるのです。
そして自分を十字架につけた人々に「赦し」を宣言できるのは何故なのか? ある先生は「聖なる損」をすることを通して可能だとおっしゃっておられます。葛藤や言い争いが起こったとき、損をしようと決めるなら、神さまの驚くべき祝福を経験するというのです。主は「損をしてごらん。わたしがもっと素晴らしいもので満たしてあげよう」と約束してくださっています。主にある人生には、驚くばかりの恵みがあります。
心のオアシス 2017年7月23日
何年も前に一人のクリスチャンの女性が何年も前に天に召されました。そのご主人が書いた文章の内容に、大変心打たれたのでご紹介します。
2008年6月上旬、突然、左腕の痛みを訴え、MRI検査の結果、左肺に大きな影があることが分りました。その後の検査の結果、全身6箇所の骨格に多発性の転移も確認され、医学的には末期という診断でした。抗癌剤が一切効かず、日々症状が進み、体力、身体機能が衰弱し、昨日できたことが今日はできなく、歩くことも、食事をとることも手足を動かすこともできなくなり、会話の自由も困難になりました。この肺がんの末期症状の残酷とも思える現実に対して、一切、不平不満、辛さ、弱音など言いませんでした。それどころか「感謝します。皆さんのこれほどの大きな愛に囲まれて最高の人生です。ありがとうございます」など、お見舞いに来てくださる方の祝福を祈り「みなさんに出会えたことは私にとって最高でした。永遠に一緒だからね!」と苦しい息遣いの中、笑顔で微笑み、か細い声で言っていました。余りにも過酷な症状に対し私が「神様はどこを向いているのか、君を癒してくださらないのはどうしてですか」と思わず口から出てしまったとき「そういうことは言わないで。神様はいるのよ!神様はいるのよ!」と真剣な表情で私を優しくいさめてくれました。本当に息苦しい呼吸の中、か細い声での最後の言葉は、「神様、感謝します。最高です。ありがとうございます。ありがとうございます。主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」
苦しみの極みの中、どうしてこんなことが言えるのでしょう。それは家内が本当にイエス様の愛を知り、かつ経験していたからでしょう。家内の聖書への書き込みからも明らかです。「たとえ神が私を絶望させたとしても私は神に信頼する」と書き込みがありました。見事な信仰の勇者、勝利者でした。
「それでも主に信頼します!」このような告白をしながら歩むなら、違う世界が開かれていくでしょうね。私もそう告白し続けていきたい!
心のオアシス 2017年7月16日
神さまの「怒り」に恐怖心を持っておられる方もいらっしゃると思いますが、その「怒り」がどこに向けられているものなのかを正しく理解すると、安心することができます。「神の怒り」のイメージを変える文章がありますので、ご紹介します。
私は10代を過ぎ大人になるまで、父から愛しているという言葉を聞いた覚えがありません。でも、私の記憶には父の愛を初めて確信したときのことがハッキリと残っています。それは憤怒という表現に値するほど父が怒ったときでした。そしてその怒りは私のためだったのです。その日、私は家の前の通りで友達と遊んでいました。どこからか隣の町のいじめっ子が来て、私たちの方に近づいてきました。その子は私より3つ年上で、体も大きく、よく登下校時に私が行く道で待ち伏せし、暴力を振るったりしました。そして今度は私の自転車を奪い乗り、周囲をぐるぐる回りながらからかい、挙句には自転車を投げ出し、私に殴りかかってきました。私は何回か殴られ、そのまま倒れました。しかし突然、降りかかろうとしたコブシが止まったので、私は上を見上げました。なぜかその子は非常に怯えた顔をしていました。その子が私をいじめているのを窓越しに見た父が、助けに来たのです。父はその子のコートの襟首をつかみ上げました。「2度とうちの息子をいじめるな!」それで十分でした。それは私を守ってくれる、私の敵を倒し、すべての間違ったことを正してくれる、最後まで信頼できる愛でした。私は父の怒りの陰で安らぐことができました。おかしく聞こえるかもしれませんが、本当なのです。私は父の怒りを通して父の愛を確信しました。父の怒り故に、父の愛の中で安らぐことを学んだのです。(マーク・ブキャナン著抜粋)
神の怒りは、私たちをむしばみ苦しめる“罪”に対しての怒りなのです。イエス・キリストは、私たちの“罪”だけを取り除くために十字架にお掛かりになり私たちに対する“愛”を示されました。神さまは今日も怒っておられます。その怒りの陰で、私たちは安息することができるのです。