礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2018年1月28日

 牧師は、毎週聖書からメッセージしますが、聖霊のお働きがなければ、人の心が動き、変えられることは難しいと毎回考えさせられています。それゆえに、勿論、御言葉を語ることにおいては全力投球しますが、それ以上に祈り備えます。牧師がメッセージを語る前から、救いや癒しが起こるケースを今までに何度も見てきています。確かに神さまの指が動かなければ、私たちが何をしようと、本当の変化を見ることはできないでしょう。それだからこそ、祈り備えなければならないのです。
 最近ある方が、「いつも『自分が、自分が・・・』と、自分がしなければならないと思っていましたが、聖霊さまに委ねることを学んでから、全く生き方が変わりました。」とお証しされていました。またある方は、「夫の良い部分が今まで見えませんでしたが、良い部分が見えるようになりました。」など、祈りを通してなされる不思議を体感しておられ姿に私が励まされました。まだ数回しか教会に来られたことのないある方は、「メッセージされる先生の背後に、神がおられるのが見えました。」と発言され、私自身も襟が正される思いをしています。私も人前で話をすることが苦手な者ですし、雄弁でもありませんから、今でもメッセージ中に自分の姿を客観視して驚きと感動を覚えることが度々あります。これは神さまの働きがなければできないことなのです。
 「“自分の弱さ”に気付けば、“神の強さと働き”に気付くことができる」「祈りは、すべての問題を解くカギである」「万事は益」「生かされている者すべては、神の選びと愛が必ずある」「神はあなたをアガペー(無条件)で愛しておられる」「神の視点から自分を見る」「私たちの人生は、神実現のためにある」「ベストを尽くして神さま任せ」これらは、私のライフメッセージです。関西カルバリーフェローシップにいる限りは何十回、何百回も聞かされる内容だと思いますが、聖霊がこれら一つひとつを教えていってくださることを切に願い祈っています。

 「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

心のオアシス 2018年1月21日

 第二次世界大戦が終わり、連合軍がアウシュビッツ収容所を掌握した後、部屋を点検していたアメリカ軍の兵士が、部屋の壁に書かれた言葉を見つけました。「神はどこにおられるのだろうか。」自分もそこにいたなら当然そう考えただろうと思いながら通り過ぎようとした兵士は、その下にある別の言葉を見つけました。「神はここにおられる。」そして、さらに下に書かれた賛美を見つけた彼は、それを何度も読み返しながら涙をこぼしました。「たえなる神の愛 ことばに尽くせず 高き星を越えて 低きこの地へと・・・神の奇しき愛 はかり知れず 永久に変わらぬ愛 ほめ歌いませ」(韓国賛美歌304番)
 その人は、時間とゆとりのある豊かな都市でこの賛美を黙想したのではありません。神はどこにおられるのかと問う苦しい質問がうっぷんのようにこみ上げてくるアウシュビッツ収容所で、苦しみと迫害の中で死に向かいつつ、これを黙想したのです。そして、「神の愛は語り尽くせないほど大きい」と告白したのです。
 私たちも、信仰の道を歩むときに遭遇する苦難に苦しめられる時があります。「一体どうして」という質問が怒りと共にこみ上げてきますが、神様は答えてくださらないように思えます。しかし驚くことに、「神様、一体どこにおられるのですか」という質問がこみ上げてくる瞬間こそ、神様が私たちと最も近くおられる瞬間なのです。
(「午後5時に来た人」ソン・ビョンジュ師の著書からの抜粋)
 
 先週、私たちの教会メンバーである隅谷光さんが89歳で天に召された。今から6年前に死ぬか生きるかの状況の中で、不思議な導きで私と出会い、信仰告白をして病床洗礼を受けられ、奇跡的に健康回復されて、聖書通読を始められました。天国を楽しみにしながらの幕引きでした。酸素のチューブが手放せないので、外に出歩くことは全くできなかったので、教会の方々もご存知ない方がほとんどでした。「孤独な人生だったのかな」と、ご遺体を前にして祈っているときに「一羽のすずめさえ、主は目をとめたもう」というゴスペルの歌詞が頭をぐるぐるしながら、「人目につかないような存在さえも目にとめているよ。だからこそあなたを送り、長老さんたちを送ったでしょ?」という主からのメッセージに感動しました。悲しみよりも、主の愛に涙した葬儀でした。ハレルヤ!

心のオアシス 2018年1月14日

 以前に見た感動した映画の中にこのようなものがありました。
 それは、生まれた時、お医者さんが驚いたほど小さく、一晩ももたないだろうと言われた赤ちゃんが、12歳になったときからの話が中心的に展開していくのですが、彼は、両親からは見放され、完全に無視された環境の中で成長していきました。身長は12歳にして96センチにしかならなかったのですが、野山を駆け巡り、湖で泳ぎ、野球もする少年に成長していきました。彼はいつも「神様は何か理由があって僕を小さくしたに違いない」と信じて、特別なプランが神様から与えられる日を待っている・・・という内容で、最後には、神様が彼を小さくした理由がわかる日がくる・・・という結末で終わる映画なのです。
 私たちは、あまりにも無駄なエネルギーを消費しながら生きています。自分の置かれた環境や、身の回りにある問題や弱さや、世の中の不条理、歪な人間関係によって苦しみ、傷つけられ、心が痛むのです。ある方が、世間の「不条理」といったものをしっかり受けとめながら、しかもそれを「人間の条件」として受け入れていくと、非生産的なエネルギーをより少なくすることができるとおっしゃっていました。この十字架ともいえる「人間の条件」は、誰が与えたのか?という疑問が出てくるが、これは“神”という私たちを創造された存在を抜きにして考えることができない発想である。私は「神に主権がある」ことを受け入れることができたら、この世で、どんなに割り切れないことがあっても、すべて解決できると思っています。実際に、それを受け入れてから人生が楽になりました。一喜一憂することはあっても、それによって振り回されることはなくなりました。死でさえも怖くありません。すべて、どんな人にも、神さまの目的があって、特別なプランを用意してくださっていることを信じることができたら、ハッピーライフは、もうあなたのものです。
 
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8章28節)

心のオアシス 2018年1月7日

 ガンにかかったある信徒の方が、次のような文章を書きました。「ガンが好き勝手にできないことがある。ガンは愛を病ませることはできない。希望を失わせることもできない。信仰を錆びつかせることもできない。平和を奪うこともできない。プライドを破壊することもできない。友情を壊すこともできず、思い出を消すこともできない。勇気を失わせることもできず、たましいに侵入することもできず、永遠のいのちを縮めることもできない。聖霊の火を消すこともできない。ガンには復活の力を弱める力は絶対にない!」このような文章は試練が私たちにとって益であることを知っている人だけが書けるものだと私は思います。その信徒はガンという大きな病と闘っていますが、彼の心には真の信仰がありました。何よりも神さまに信頼することにより、変わることのない永遠の希望がありました。
 私たちが苦難に対してどう反応し、どう解釈するかによって、苦難は私たちにとって祝福にもなり、ただ苦しみを与えるものにもなります。苦難は、神さまの愛の証しであると信じる積極的な忍耐が、私たちのからだとたましいに力と勇気を与えるのです。もし罪による苦難のために苦しんでいるなら、罪を告白して悔い改め、神さまに立ち返ってください。苦難を通して訓練されれば、残りの人生で力と平和の実を結ぶことができます。後にどんな苦難が訪れたとしても、その中で神さまの愛の手を見いだし、以前よりもさらに多くの益を味わうことができるのです。
     (「苦難があっても絶望はない」キム・サンボク師著より抜粋)

以下は私たちの教会メンバーのNさんのブログからの抜粋です。最近大きな手術をされましたが、術後の大きな変化を書いておられます。
 「どれ位の余生かはキリストの神様だけがご存知だが、天国に迎え入れて下さる日まで精一杯生きるのだ、と心底思えるようになって『死』は怖くなくなりました。これは術前と違う最大の変化です。平安に満たされています。」
 
 「死は勝利にのまれてしまった。」(Ⅰコリント15章55節)

心のオアシス 2018年1月元日

 心理学者カール・ユングによると、人が生まれて40年間は、いろいろなことを見いだし、征服する時期だそうです。それまでは、すべてが可能性として残っています。しかし、中年を過ぎると、人生の地平線の向こうが見えはじめます。青壮年期の情熱と力がいつしか消え、歳月と世に征服されたような気持ちになります。私もやはり、10代の息子たちと一緒に運動すると、自分の瞬発力や闘志が以前のようではないのを感じ、驚かされることがあります。息子たちはそんな私に「お父さんももう年だね。無理しなくていいよ」と言ってくれますが、それは全く慰めにはなりません。高校卒業40周年記念の同窓会で、「ただ老いに向かってひたすら走ってきたようだ」とつぶやいていた同窓生たちの言葉が今も耳に残っています。(「たましいの冬に歌う希望の交響曲」より引用)

 私の家から生駒山を眺めることができます。春はピンクの山桜が緑の山の合間に散りばめられ、新緑から深い緑に変わると夏になり、秋には紅い色に、冬は所々枯れ木となりますが、それがまた味わい深く楽しむことができます。一年を通じて暑い日も寒い日もありますが、神さまは四季を与えて、それぞれの季節を楽しむことができるようにしてくださいました。私たちの人生は、老いや衰え、弱さに向かっているように思えますが、それぞれのシーズン、時代の中で、神さまからの召しと選びが与えられていて、無意味な年齢はないことを知れば、どの時節も楽しむことができると思います。
 “ひと見るも良し ひと見ざるも良し 我は咲くなり”とは、武者小路実篤の言葉です。人が見てくれようが、くれまいが、褒められようが、無視されようが、他人の評価に左右されないで「私は咲く」という潔さは、「神」という存在を抜きにしては、なかなか考えることはできない発想であります。2018年、どんな時も毎日を、喜びと感謝と平安で過ごせますようにと心よりお祈りいたします。

 「受けた召しと選びを確かなものにしなさい。」(Ⅱペテロ1章10節)

心のオアシス 2017年12月31日

 新米の先生が5年生の担任として就任した時、一人服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいました。先生は、中間記録に少年の悪いところばかりを記入するようになっていました。ある時、少年の過去の記録が目に止まりまった。「朗らかで、友達好きて、誰にでも親切で、勉強も良くでき、将来が楽しみ」とある。先生は、他の生徒の記録に違いないと思った。2年生になると「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」。3年生では、「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りをする」そして後半の記録には「母親が亡くなる。希望を失い悲しんでいる」とあり、4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存性となり、子どもに暴力をふるう」とあった。先生の胸に痛みが走った。先生にとって目を開かされた瞬間であった。放課後、先生は少年に声をかけました。「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?」少年は輝くような瞳と笑顔で「はい!」と応えた。それから毎日、少年は教室の自分の机で予習・復習を熱心に続けた。クリスマスイブの午後だった。少年が小さな包みを先生に持ってきました。後で開いてみると香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその香水を身につけ、夕暮れに少年の家を訪ねました。先生の匂いに気づいた少年は「ああ、お母さんの匂い!今日は素敵なクリスマスだ!」それから何度か少年から感謝のカードが届いたが、それから6年後に届いたカードには、「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。お陰で奨学金をもらって医学部に進学することができました。」とあり、それから11年後届いたカードは結婚式の招待状だった。「母の席に座って下さい」と一行添えられていました。
 これは実話です。私たちはこの一年間、上り坂もあれば下り坂もありました。「まさか」という坂もありました。でも、どのシーンにも背後で支えてくださる神さまの手があったことも事実です。感謝のうちに新しい年を迎えることができれば幸いです。ハレルヤ、主よ、感謝します!

心のオアシス 2017年12月24日

 クリスマスのキャンドルサービスを、ご経験になったことがありますか? 隣の人から自分のキャンドルに灯を灯してもらい、そして今度は自分が、また自分の隣の人のキャンドルに灯を灯してあげる・・・。そうやって、一つひとつキャンドルが灯されるごとに、その部屋がどんどん明るくなっていきます。私のキャンドルの灯を隣の人に差し上げても、私の灯が弱くなったり、減ったりすることはありません。
 私たちは、他人から分けていただいたキャンドルの灯によって、輝いて生きていくことができます。そしてその灯りを今度は隣の人に差し上げること、それは、人間がお互い同士、助け合い、持っているものを分かち合って生きている姿と言ってもいいのではないでしょうか。同じことが「愛」についても「ほほえみ」についても言えます。「愛は溢れゆく」という言葉がありますが、ほほえみも溢れていきます。
 あるトラック運転手さんの投書が全国紙に載っていたことがあります。長距離を夜っぴて走ってもう少しで目的地に着くという朝7時半頃、トラックの前を小学生が手を上げて渡り始めようとしていました。いまいましく思った運転手は、タイヤをきしませて、トラックを停めたところ、その小学生は、横断歩道を渡り切ったところで、運転台を見上げてにっこり笑い、「ありがとう」と言ったというのです。「穴があったら入りたい気持ちだった」とその運転手さんは書いていました。そして、「これからは、スピードを出しすぎることはすまい。横断歩道の手前ではスピードを落とし、渡る人ににっこり自分からほほえみかけようと決心した」とも書いていました。ほほえみは、このように、もらった人の心を和ませる力を持っています。皆が、自分の“キャンドルの灯”を惜しむことなく、隣人に与えるようにしたら、どんなに社会は住みよくなることでしょう。親が子どもに伝えたい大切なことの一つです。
(「愛と祈りで子どもは育つ」渡辺和子著より引用)
 
 希望の光を私たちに灯してくださったお方は、イエス・キリストです。心にお迎えするだけで“永遠”が保証されるなんて・・・Merry Christmas!

心のオアシス 2017年12月17日

 先週のローマ書9章からのメッセージには、「スッキリしました」「疑問が解けました」、またインターネットを見られた方からは「思わず聴き入ってしまいました」などの反応が多数あり、私自身も驚いています。
 「神の大権(摂理・御心)」と「人間の自由意思」は、互いに矛盾する内容でありますが、両方とも真実であることを聖書は前提にしています。例えば、イエスさまを裏切ったユダは、自分の意思で裏切ったのですが、使徒行伝やルカ福音書の中には、「あらかじめ定められていたこと」とも書かれています。実はこの問題は、数百年にもわたって、予定説に立つカルビン派と自由を強調するアルミニアン派によって論争が続けられ、今もなお決着はついていないのです。しかし、私たちの教会は、聖書にあることは、私たちの頭で理解できなくても、私たちの頭脳を遥かに超えた神の領域として捉えるという立場をとっています。
川端光生先生は著書の中でこう表現しておられます。
 聖書に記録されている記事には、人間の理性で受け取ることのできるものもあれば、不合理で矛盾していると思われるものもあります。しかし、人間の理性に不合理だからといって、神の権威がぐらつくわけでもありません。創造主は被造物の頭脳に収まるように、つまり人間の都合や理屈に合わせて存在しなければならない義務はないのです。この世界をどのような構造に創造するかは、創造主の自由です。ですから人間の理性で説明できないことがあって当然で、むしろ無理に説明をつけようとすることのほうが危険です。説明できないことを説明しようとすると、聖書にはないことや聖書に反すること、あるいは半分だけの真理を唱えるという誤りを犯してしまいます。
 神の大権と人間の自由の矛盾の問題もその一つです。人間の理解を超えたことは神秘として受け止める勇気も、時には必要です。
 もし、この領域に関して興味がある方は、先週12月10日の礼拝メッセージをお聴きになってください。Kansaicalvaryfellowship.com
 「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」(ローマ10:11

心のオアシス 2017年12月10日

 テレビのトークショーにゲストとして出演した女優が、このような告白をしたそうです。映画の中で、彼女が雨に濡れるシーンがあるそうですが、ふつうに雨が降っている日に映画を撮ることはありません。晴れた日に散水車を使って主人公の周りだけに水を降らせて必要なシーンを撮るのです。よく晴れた日に彼女はただ一人雨に濡れて演技をしているのに、他の人たちは晴れた空の下で仕事をしているという・・・その時、自分がこれまで生きてきた日々がオーバーラップしました。他の人たちの人生は日が当たって幸せそうなのに、自分は一人苦難の雨に打たれていることを考えながら憂うつになり悲しくなりました。しかし、突然、監督が「カット!」と言ってサインを出すと、雨が上がるではありませんか。彼女は「雨が降る憂うつな日も、悲しみと落胆の中にあるときも、神さまが『カット!』と言ってサインを出されれば、私の人生も逆転するのだ」と思ったそうです。
 役者は与えられた役を、どのように演技するかで、その役柄が評価されるのであって、他の役柄をうらやんだり嫉妬したりしても、何の益にもならないのです。私たちは神のご計画の中で、それぞれ与えられている環境や能力、役割や賜物は違いますが、一つの召しのために生きるように造られているのです。私たちに委ねられていることは、与えられている役柄に、精一杯生きるということであります。
 私たちの人生にも、思い通りいかないことや、願いとは違う方向へ導かれたり、他の人とは違う道を通ったりすることがあります。しかし、それは、神様の壮大なご計画の一部分を、私達がそれぞれの召しに応じて担わせていただいているということなのであります。神さまが、この世界の歴史の脚本家であり、総監督です。私たちそれぞれに違った役柄が宛てがわれています。私たちの召しは、全力で与えられた人生を走りきることです。天国で、地上でのすべての謎が解き明かされるでしょう。
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益としてくださる」(ローマ書8章28節)

心のオアシス 2017年12月3日

 今から約470年前の1549年、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に入ってきた。その後に続いた宣教師たちは、日本語の厚い壁にぶつかって、とても苦労したそうです。やがて禁教令が発せられて、宣教師たちは国外に追放されるか、殉教を余儀なくされるのですが、彼らが死ぬ前、国へ帰る前に、これだけはどうしても日本人に伝えたいと願った一つのメッセージがあった。それは、今日でも、キリスト教がその中心思想とする「神は愛なり」ということであった。しかし、当時の日本では「愛」という言葉が違った意味で認知されていました。それは仏教では「愛」は「煩悩、執着」を表わしていた影響があったのでしょう。そこで宣教師たちは、「愛」の代わりに、やまと言葉の「ごたいせつ」を使ったのです。しかし、この「ごたいせつ」こそ、愛の本質を表現する言葉でもありました。それは、人間の一人ひとりが、性別、年齢、家柄、身分など一切関係なく、大切な一人であることを言い表し、人は自分の命を粗末にしてはいけないというメッセージだったのです。
 今日の日本に「愛」という言葉は溢れています。ラインやメールではハートマークが飛び交っている。にも関わらず、何と多くの憎しみと無関心が横行していることでしょうか。毎日100人近い人たちが自殺し、いじめ、金銭目当ての殺人、衝動的な殺傷事件に、人々はもはや驚かなくなった。大変恐ろしいことです。それは相手の存在を「ごたいせつ」に思う心が欠如しているからだと考えることができるでしょう。偏差値にも、容姿容貌にも、弱さのあるなしに関わらず、利用価値、商品価値を度外視してでも、「その人」を大切にする心を育てることが求められている。教会こそが、その役割を担っていかなければならないでしょう。
 イエス・キリストは、2千年前、滅びに向かう私たちを何とかして救いたいと願い、この地上に来てくださいました。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5章8節)
 私たちは神さまにとって“ごたいせつ”な存在なのです。