心のオアシス
心のオアシス 2018年4月15日
小説『氷点』の著者として知られている三浦綾子さんは、エッセイの中で、「恵みに慣れるということは恐ろしいことだ」という言葉を残しています。そこで、彼女は、「神さま、どうか恵みに慣れてしまわないように助けてください」と祈り、自分の夫について、このように語っています。「最初は病弱な私と結婚してくれた夫がとてもありがたかった。しかし、結婚生活に慣れた今、私は最初のそのありがたさをすっかり忘れてしまい、夫に腹を立てたり、自分勝手な行動をする、わがままな妻になってしまった。慣れるというのは、本当に恐ろしいことだ」
私は以前に、「毎日が奇跡の連続です!」とメッセージしたことがあります。私たちは、“当たり前”が、実は“恵み”であることを、どれだけ感じながら生きているでしょうか? ある先生が、心臓発作で倒れてから奇跡的に回復されて、このように話しておられました。「毎日毎日は、神さまからのボーナスです。」死んでいたはずの自分が、生かされている・・・これは神さまからの恵みだと考え、一日一日を大切に生きることができるようになった、とのこと。
私たちは、毎日当たり前のようにして起き、家族や友人と接し、食事をして、仕事をして、遊んで、学んで寝る、ということをしています。しかし、当たり前のことができなくなることによって、その当たり前が、どれだけ恵みであったかと知ることになります。そこで私はこう考えました。失ってから、昔の恵みを思い返すよりも、“今”という瞬間瞬間を感謝しながら生きたら、もっと違う人生になるのではないかと。ですから私は、階段を上りながら感謝し、車を運転しながら感謝し、食べ物を美味しく食べることができることに感謝し、歩けることに感謝するようにしました。すると何とも言えない喜びが溢れるようになりました。
ある方が、「神さまの教えとは何ですか?」と問われたら、当たり前のことを、心を込めて実行すること。与えられる一つひとつの命も、物も両手でいただくこと」と答えるでしょうと、書いておられたのを読んだことがあります。毎日、心を込めて悔いのない人生を送りたいものです。
心のオアシス 2018年4月1日
私たちは、プロテスタントの教会ですが、カトリックの方々からも沢山のことを学ばせていただいています。特にマザーテレサの生き方に感銘を受ける人は多いと思います。彼女の修道会では、お腹を空かせて集まってくる人たちに、パンや温かいスープを配っています。そこには多くのシスターたちが炊き出しに従事しています。マザーが生前、奉仕を終えて修道院に戻ってくるシスターたちをねぎらう時に、こう話されたそうです。「スープボウルを手渡す時、相手に微笑みかけましたか? ちょっと手に触れてぬくもりを伝えましたか? 短い言葉がけを、忘れはしなかったでしょうね? 私たちの仕事は、福祉事業ではありません。私たちにとって大切なのは、群衆ではなくて、一人ひとりの魂なのです。」
これはイエスさまの御心そのものであろうかと思います。マザーにとって、貧しい人たちをお世話するのは、「おかわいそうに」という憐れみや施しではなく、相手を一人の人間として、その尊厳に対する当然の行為でした。ただ機械的に、“こなす”のではなく、心がそこに伴っているかが重要なポイントになるのだと思います。スープボウルを手渡すだけなら、人間でなくてもできるでしょう。ロボットならば、もっと短時間に効率良く作業ができると思います。人間だからこそできることは、心を込める温もり、優しさ、微笑み、祈り心を持って手渡すことです。
教会も大きくなってくると、個よりも群衆に目移りしてしまいます。どれだけの人が集まっているか否か、立派な建物があるかないか・・・でも、神さまが見ておられるのは、どれだけの仕事をして、どれだけ集めたかではなく、どれだけ神さまの御心を行ない、心を込めてベストを尽くしたかということなのです。数や量は、自己満足の材料にしか過ぎません。たとえ実力が5千人に対して“五つのパンと二匹の魚”でも、祈り心を込めるならば、結果は全ての人が養われることになりました。
私は、個の魂を大切にする教会作りを目指していますが、人が増えてくるとなかなか目が届きません。自分の年齢をわきまえて、本日より、若者の魂のケアのためにも若者担当伝道者を投入いたします! 感謝!
心のオアシス 2018年3月25日
20代の若さで世界最大の砂漠であるサハラ砂漠を横断したスティーブ・ドナヒューは、著書「砂漠を渡る6つの方法」で、人生を山ではなく砂漠と言っています。山を登る者には、頂上という目標があるので、所要時間を予測し、登頂方法も考えることができます。しかし、砂漠はこれと全く違います。砂漠はすべてが予測不可能であり、不確実です。砂漠では地図がありません。仮に正確な地図を持って出発したとしても、砂嵐が吹き付けると瞬時に地形が変わってしまいます。そのため、道を失い蜃気楼を追うこともあります。また、砂漠を渡るときは、登山とは違う歩き方をしなければなりません。登山には登山靴が必要ですが、もし登山靴で砂の積もった熱い砂漠を渡れば、足に水ぶくれができてしまいます。砂漠では、登山のように力強く歩くのではなく、足の力を少し抜かなければなりません。また、砂漠の地形は常に変化しているので、地図ではなく正確な方向を教えてくれる羅針盤を見なければなりません。
人生の中で、目の前に山ではなく砂漠が広がるとき、私たちは困惑します。目標も予測も計画も立てられなくなるからです。しかし一方では、砂漠は、神さまが私たちを通して作られる、非常に独特で創意的な人生の旅路を意味します。神さまはすべての人が追い求める頂上だけに、私たちを導かれるわけではありません。むしろ、自分の計画や準備が意味をなさない砂漠のような所で、私たちが神さまに人生を委ねる時に、それが美しく独創的なものへと導いてくださいます。
聖書の中には、365回、「恐れるな!」という言葉がちりばめられています。これは、毎日不安や恐れになる材料が転がっている中を歩む私たちに対して語られる神さまからの励ましです。私が支えになっている言葉の中に、「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」(出エジプト記14章14節)があります。私たちは、問題を前にすると、すぐに不平や不満、自己憐憫に陥りますが、目の前の大きな問題の壁を動かすのは自分ではなく神さまだと、本気で信じることができれば、委ねる心が生まれ、悩みもストレスも軽減されるでしょう。
心のオアシス 2018年3月18日
ジョン・マックスウェルの「小さな始まり」という本に、こんなエピソードがあります。一万人が集まったある集会で、50ドルの新札を掲げて「この50ドルが欲しい人はいますか?」と言うと、あちこちから手が挙がったそうです。それで、次にその50ドル札を手でくしゃくしゃにして「まだこのお金が欲しいですか?」と聞くと、同じように手が挙がりました。今度は、そのお札を足で踏んで汚くしてから「まだこれが欲しい人?」と聞くと、それでも人々は手を挙げたそうです。
私たちは、踏みにじられ、問題だらけで、汚れているような存在であっても、それでも手を挙げ、あなたを求めておられるお方がいることを聖書は語っています。あなたが聖い存在であろうと、罪汚れた存在であろうと関係なく、あなたは神の目には価値ある存在だというのです。どこに何の価値もないものに投資する人がいるでしょうか? しかし神さまは、イエス・キリストを通して、価値なき存在であった私たちを、いのちの代価を十字架で支払って、買い取ってくださったのです。ここに私たちの存在価値を見出すことができるのです。これを「恵み」と言います。今、教会では出エジプト記から学んでいますが、人は一旦、失敗したり、挫折したり、落ち込んでみなければ、本当の神さまの恵みの世界を発見することは難しいのではないかと思えるようになりました。そして恵みがあるからこそ立ち上がることができるのです。
詩人であり牧師であった河野進さんの詩を紹介します。
病まなければ捧げ得ない祈りがある
病まなければ信じ得ない奇跡がある
病まなければ聞き得ない聖所がある
病まなければ仰ぎ得ない聖顔がある
おお、病まなければ 私は人間でさえもあり得ない
病気をはっきりと、一つの恵みと言い切っておられます。病気だけではなく、弱さはすべて神さまを発見できる恵みです。問題なく物事が進んでいる時も感謝。そうでない時も大いに感謝するべきでしょう。
心のオアシス 2018年3月11日
ある掲示板に、このようなユーモアのある言葉がありました。「神が遠くに感じるとしたら、神を遠くに移したのが一体誰だろう。」神が遠く感じるなら、それは私たちの心が鈍くなったからです。神がおられないように感じるなら、それは私たちの心の目が見えなくなったからです。神を一度も経験できないとすれば、それは霊的な感覚が死んでいるからです。霊である神は、秘密の日差しのように私たちをいつも照らしています。暗い夜にも太陽の光が地球を照らしているように、神がいないように感じるときにも、神は私たちと共におられます。風一つ感じないようなときでも、風はいつも吹いているように、神の働きを感じることができなくても、神は私たちのために働いておられます。秘密の日差しを感じることのできる敏感ささえあれば、私たちはいつも神のご臨在の中で主の導きを経験できるのです。
日常の生活のなかで、私たちが出会う人々、私たちの目に入ってくるもの、耳に聞こえてくる音の中から、神さまが働いておられること、導かれていることを悟ることを「日常の宝探し」と呼んでいる人がいますが、私たちも、沢山の宝を日々発見させていただきましょう。
(キム・ヨンボン著「隠れておられる神」より)
私の中に、ある歌の歌詞に「日常という奇跡」という言葉が、印象的に残っていますが、確かに日常は当たり前ではなく奇跡の連続であると思うのです。私たちは、当たり前のようにして朝目覚め、話し、歩き、食べ、夜眠りにつきます。これら一つ一つの動作も深く考えるならば、奇跡的なことなのです。充電しなくとも心臓は鼓動し、呼吸もしています。今の技術をもっても同じものは作れない精巧な目というレンズで物を見て、瞬時に飲み物の温度を想定して、カップを持つ力や傾き加減と口に含む量を計算しながら口元へ持っていきます。どれ一つとっても、“当たり前”は、実は“当たり前ではない”のです。このように、普段の“当たり前”を、指折りながら数えたら、感謝しきれないほどの奇跡の中に生かされていることに気付くのではないかと思います。栄光在主。
心のオアシス 2018年3月4日
一人の前途有望な学生が自殺して、その遺書には「思うままにならない人生に嫌気がさした。人生そのものがわからなくなった」といった内容が書かれていたそうです。悲しみに沈んだ友人数名は、自分たちが常日頃尊敬する老教授のもとへ急ぎました。ともに死を悼み、慰めてくれると思ったからです。遺書の内容に静かに耳を傾けた後、その教授は、案に相違して、語気も鋭く言いました。「そのような考えで死ぬなど、思い上がりもはなはだしい。人生とは、人が生きると書く。私のように六十年以上も生きていて、なお人生はわかっていないのに、たかだか二十年しか生きていない者に、わかってたまるか。また、人生は思うままにならないのが当たり前であり、それ故にありがたいのだ。人の思いというものの中には、良いものもあるが、よこしまなものもたくさんある。それがもし、人の思いのままになるとしたら、我々は安心して生きていられまい。思うままにならないからこそ、安心して暮らすことができ、また、より大いなる者への随順の気持ちも起きようというものだ」
この教授の言葉は、決して死者に鞭打つつもりで言われたものではなく、生者に、つまり、そのわからない、思うにまかせない人生を、今後も生き続けてゆかねばならない若者たちに向けて言われたのでした。「あんなやつ、死んでしまえ」という思いが、そのまま実現するとしたら、誰も安心して生きていることはできません。かくて人生が思うままにならないということは、考えようによってはありがたいことなのです。
一人の人間が個性的に生きる、その人らしく生きるということは、実は、このようなままならない人生を、自分なりに受けとめることで可能となるのではないでしょうか。(「幸せのありか」渡辺和子著より)
神さまが私たちに与えられたこの地上での人生は、私たちの願いばかりが叶うものではなく、天国へ入る為の準備期間で、テストされ、人格が整えられる天国予備校なのです。“人生は思い通りにならないのが当たり前”だと考えると、納得できることが多いのかもしれません。
心のオアシス 2018年2月25日
神が約束された地は永遠のいのちの地です。神はキリストを信じる者にその地を約束されました。問題は「私たちがその約束を信じるか」です。神が約束された地に入ることができるなら、きょう私が涙を流したとしても、病気で苦しんだとしても、大したことではありません。神の真実さは、私たちの短い人生を数年もしくは数十年引き伸ばすかどうかの次元ではありません。私たちが本当に神の約束を信じるなら、神は私たちの死までも責任を取ってくださいます。神が責任を取ることのできないことは、私たちの人生には起こりません。問題は「私たちがそれを信じるか」です。神を信頼しますか。神の約束を信じますか。そうするなら、死んでも生きるのです。(ジョン・ホンジュン著より引用)
この歳で、もう少しで手遅れになっていた直腸癌を通して神様の、僕に用意しておってくださるご計画を知り、死ぬ前に「ひと花咲かせられる」チャンスを与えられた事に感謝が尽きないのです・・・どんな副作用が生じても心配しません。イェスさまが僕を守ってくださるから。明日を守られるイェスさまがおられるから。副作用全て感謝。この身体を通して神様の栄光がやがて現れることを信仰によって知っているからです。(N氏のブログより引用)
これは、大病をされて最近大きな手術をされた教会メンバーが書かれた文章の一部です。Nさんは、ドクターではありますが、そのブログには信仰の告白がいたるところに散りばめられていて、私自身、大変勇気づけられ愛読しています。もう70歳を越えておられるので、仕事を辞めて余生を楽しむことも許されるかと思いますが、生かされている限りは神さまが与えておられる使命を全うしたいという姿勢に感動します。
結局、「私たちが本当に神の約束を信じるなら、神は私たちの死までも責任を取ってくださいます。神が責任を取ることのできないことは、私たちの人生には起こりません。」これを信じることができるかで、その人の生きる姿勢が大きく違ってくるのだと思わされました。栄光在主!
心のオアシス 2018年2月18日
モーセは、ヘブル人としてエジプトで生まれた人物です。当時のエジプトの王パロは、エジプト国内にヘブル人の人口が増していることに脅威を覚えて、重い労役を課し、挙句の果ては、生まれた赤ちゃんが男子ならば川へ投げ込めとの命令を下しました。そのような状況下で生まれたのがモーセでした。両親はしばらく育てていましたが、隠しきれなくなりカゴの中に入れて、川へ浮かべました。なんとそこへパロの娘が水浴びにきて、そのカゴの中の赤ちゃんを見つけて養子にしたのです。神さまの深いお取り計らいによって、実の母親が乳母として10歳になるまで育て、その期間に、ヘブル人として神の選民としての意識が植えつけられ、やがてはエジプトで苦しむ同胞を救い出すためのリーダーとなるべきことを教えられてきたことでしょう。それから王宮内で世界最高レベルの教育を受けるようになりました。40歳になった時、思い立ち、今こそヘブル人を救い出すチャンスだと考えたのですが、誰も付いてくる者がいないばかりか、パロに告げ口されて、荒野へ逃げる身となりました。モーセは、エジプトの王家に属し地位があり、知恵知識に富み、40歳という一番働き盛りの年齢になった時に、“今が自分の時だ”と考えました。しかし“神の時”は、違ったのです。80歳という、記憶も薄れ、終活に入る年齢となったモーセを、神さまは二百万人のイスラエルの民を導き出すために立てられたのです。それは権勢によらず、能力によらず、神の霊によって生かされていることを学ぶためでした。
ここで考えさせられることは、神さまにとって、私たちにどんな力や能力があるかは、あまり関係ないということです。言うなれば、石ころからでもアブラハムの子を起こすことができるお方にとっては、目に見える現実がどうであろうと関係ないということが言えるでしょう。勿論、神さまから与えられた個性や賜物を用いられはしますが、それを何の為に用いているのかが問われてくるのだと思います。神さまは私たちに、カリキュラムを用意されていて、“自分”の力ではなく、“神”によって生かされていることを学ぶように導いておられるのです。
心のオアシス 2018年2月11日
四肢(シシ)欠損症という稀な病気のために、腕と脚のない身体で生まれたニック・ブイチチという人のお証です。
彼が生まれたとき、両親はその姿に愕然としました。しかし、いつも「すべてのことは神さまが備えてくださるから大丈夫!」と教え育てられてきました。しかし、お医者さんをはじめ周りの人々は、「歩くことは無理でしょう」「学校へ通うことも無理」「一人で生活は不可能」と言います。そしてそれらの言葉を受け入れてから、自暴自棄になりました。死にたいと思いましたが、愛してくれる両親のために思い止まりました。
15歳の時、ニックは生まれつき目の見えない男性についての聖書の記事を読みました。なぜ目が見えずに生まれてきたのか誰もわかりませんでしたが、イエスさまは、「この人に神の栄光が現れるためだ」と言われました。そして突然、嵐の雲を突き抜けた神の喜びがニックに注がれたのです。なぜ神が彼に腕と脚をくださらなかったのか、その理由はわかりませんが、だからと言って、何かの間違いで彼がそのように生まれたのではないことと、神さまの深い計画があることを悟りました。それから彼はこう祈るようになりました。「主よ、あなたが私に腕と脚をくださるなら、あなたを信じます。そして、たとえ腕と脚をくださらなかったとしても、私はあなたを信じます!」
ニックは、水泳、サーフィン、ゴルフをするようになり、一人暮らしも始め、数年前に結婚もしました。そして、彼の主にある情熱と障がいの故に、普通の人が行くことができない国にも訪問してメッセージし、すでに世界30ヵ国以上で講演してきました。彼のメッセージは「神様はあなたのためにご計画を持っておられる」というシンプルなものです。ニックはこれまで、人々の言うウソを信じて生きてきたために、絶望の日々を送っていました。しかし、神さまを信じると、山の頂の神様は、谷底の神様でもあることがわかりました。そして嵐の雲の上では太陽が輝いていること、そして太陽の光にたどり着くためには嵐の中を通り抜けなければならないことをメッセージするようになったのです。
心のオアシス 2018年2月4日
オーヘンリーの短編の中には、「最後の一葉」があります。
舞台は、芸術家を目指す人々の集まるワシントン・スクエア西のある一角。冬になると、貧乏な芸術家の卵たちの中には肺炎で亡くなる人も少なからずいました。ここにも一人、肺炎に犯された一人の少女が存在しました。彼女の名前は、ジョアンナ。街で出会ったスーと共に、地域の一角のアパートに小さなアトリエを持っていました。「彼女を生かすのは、治療より、むしろ生きようとする意志だ。」と医者が言います。しかし、ジョアンナは、病気のためか、その意志を持つことが出来ないでいました。そして、外にある木を見ながら、自分の死期を考えていました。あの木の葉っぱの最後の一枚が落ちたとき、自分は死ぬのだとジョアンナは言います。スーは、ジョアンナのそんな姿を見て、どうしたらいいか困り果てていました。アパートには、もう一人偏屈な老人が住んでいました。「いつか、自分は名作を描く!」それが口癖でした。そして、その夢をかなえることのないまま、年老いていきました。スーは、ジョアンナが肺炎で生きる希望を失っていることを老人に告げましたが、何の関心も示しませんでした。冬を迎え、ジョアンナが見つめる木からは、一枚また一枚と葉が落ちて行き、やがて、嵐が訪れました。嵐の過ぎた翌朝、ジョアンナは期待せずに窓を開けると、その木には、最後の一枚だけが、落ちずについたまま残っていました。 激しい嵐の中でも落ちなかった葉っぱを見て、ジョアンナは生きる希望を得て、回復しました。
同じ頃、同じアパートのあの老人が肺炎で死にました。老人はあの嵐の中、玄関にびしょ濡れでいたらしいのです。そう、最後の一葉は、葉っぱではなく、レンガに描かれた一枚の絵画だったのです。 最後の一葉は、老人の描いた最初で最後の作品だったのです。
どうしてこの話は感動するのでしょうか? それは他者のために生きる姿は、神の栄光を表わすものとして、神様が定められたからです。自分のためだけに生きた話しに感動はありません。私たちも他者のために生きる人生を送りたいものです。一番の模範は、イエス・キリストです。