礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2016年3月6日

 子ども向け学習教材に「おうちのかたへ」と書いてある小冊子があり、その内容は、「私たちがまだ小学生・中学生だったころは、ひたすら勉強して、いい高校、いい大学へ入ることで、ある程度の幸せが約束されていると、多くの人が思っていました。そのゴールに向けて、テストが終われば忘れてしまうようなことをも、必死で暗記したことを覚えています。「何のために?」「この勉強は何の役に立つの?」そんな疑問も少しは胸に秘めつつ、答えを出すことを、ずっと後回しにしてきた気がします。今は、どうでしょうか? レールに乗って走ってみても、幸せは必ずしも約束されないのだ、ということは誰もが実感しています。しかし、だからといって、子供たちに「勉強しなくたっていいんだよ」とは言えないこともわかっています。「勉強」の意味自体が問われる時代になったのです。難しい時代、将来が見えにくい時代だからこそ、「自分の道を見つけ出すことができる学び」が必要なのではないでしょうか。それは大人になっても役に立つ学びです・・・
 この後も文章は続いているのですが、では何が自分の道を見つけ出すことができる「学び」なのか、については書かれていませんでした。多くの人は、何かがおかしい?と感じながらも、答えがわからないまま過ごしています。そしてその不安を忘れさせる何かを求めて生きています。
 私がもし、イエス・キリストに出会っていなければ、何のために勉強し、何の為に仕事をし、何の為に生きているのかという最も重要なことを見逃しながら、ただ目の前にある問題解決ばかりに目を向けて毎日を過ごしていたことでしょう。聖書に出てくるザアカイという人物も「自分の人生はこれでいいのか?」という疑問を持ちながらも、いかに知恵を使って金儲けをして、私腹を肥やすかを考えながら生きていました。そしてキリストに出会い、自分は神に選ばれ愛されていることを知った瞬間に、今までの価値観が全て崩れ、新しい人生へと変えられたのです。  
 
 明治の義人と言われた政治家・田中正造がこう言いました。「人は、神に愛育されて、愛の心にあふれる」   「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4:16)

心のオアシス 2016年2月28日

人は皆弱さを持っています。あなたも、肉体的、情緒的、知的、そして霊的な弱さや欠点を抱えていることでしょう。また、経済的な問題や人間関係の問題など、自分ではコントロールできない問題に悩んでおられるかもしれません。ここで大切なことは、あなたがこれらの問題にどう対処するかです。通常、私たちは自分の弱さを認める代わりに、自己弁護をしたり、言い訳をしたり、隠そうとしたり、憤ったりします。しかしそれでは、神がその問題を通してなさろうとしておられる働きを妨げることになってしまうのです。神はあなたの弱さに対してあなたとは違った考え方を持っておられます。神は言われます。「わたしの考えは、あなたがたの思いを遥かに越えたものだ。」そのため、神はしばしば私たちの思いとは全く逆のやり方で働かれます。私たちは、神がお用いになるのは私たちの長所だけだと考えがちですが、むしろ、神はそのご栄光のために私たちの弱さをお用いになるのです。主イエスは、自分の必要を素直に認める人を「心の貧しい人」と呼ばれました。これが、神に祝福される人に見られる心の態度です。(人生を導く5つの目的より抜粋)

 聖書を読めば、神さまがどれほど不完全な、ごく普通の人間を用いて驚くべき働きをなさるかがわかります。イエスさまの弟子たちを見ると、ペテロは気性が激しく感情的な人でした。トマスは疑い深い人でした。そして会計係にユダという盗人を採用されました。旧約聖書に出てくる人たちも同じです。「勇士」と呼ばれたギデオンはセルフイメージが低く自信のない人でした。「信仰の父」と呼ばれたアブラハムは、一度ならず二度までも、自分を守るために自分の妻を妹だと偽りました。もし、神さまが完全な人しかお用いにならないのであれば、神さまの働きはすぐにストップしてしまうでしょう。なぜなら私たち人間の中に、欠点のない人など一人もいないからです。不完全な人を用いてくださることは、私たちにとって、大きな励ましであります。神さまはあなたの限界によって制限されるお方ではありません。ごく普通の人に神の偉大な力を現されるのです。
「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」(聖書)

心のオアシス 2016年2月21日

 あるところに大きな橋がありました。それは長くのびていて川にかかっていました。この橋は、一日何度も上がったり、下がったりして汽車や船を通していました。ある日、交換手が準備していて、時間がきたので、遠くの方を見ると汽車が見えました。スイッチを押して橋をおろして向こう岸につなげようとしましたが、なんと、その日は機械が故障していて、何度やっても動きません。信号も赤に変わらないのです。このままいくと、汽車が橋に衝突して、川に落ちてしまいます。この汽車には、たくさんの人が乗っています。しかし、この交換手は、このような緊急事態には、どう対処すれば良いのか、わかっていました。線路の反対側に、レバーがあって、それを手動で下げて橋を降ろすことができたのです。汽車の振動は近づいてきました。交換手は、必死に走って、そのレバーの所まで行って下げて、橋を降ろすことができました。丁度、その瞬間に「お父さん!」と、5歳になる自分の息子が走ってくるのが見えました。「こっちに来ちゃ駄目だ! もどりなさい!」と叫びました。しかし、その小さな子供の耳にはお父さんの声は入ってきません。子どもの足では、とうてい線路を渡りきることはできません。彼は、レバーを離して子供を助けに行きかけた時、橋がまた上がり始めました。その時、彼は大きな決断をしたのです。汽車は何もなかったかのように、その橋を通過していきました。誰一人として、その子供が死んでしまったことに気付きませんでした。そして、そのレバーに、しがみついて何時間も泣きつづけている父親の姿に、気付く人は誰もいませんでした。

 もし、この人の経験したことを理解しようとすれば、きっと天のお父様が、滅びに向かう私たちを助けるために、ご自分の一人子なるイエス・キリストを、天国への橋渡しのために犠牲にしてくださったことが、わかるかもしれません。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりになってくださいました。それが十字架なのです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)

心のオアシス 2016年2月14日

 愛とは、相手がうまくいくようにすることであり、相手が喜ぶようにすることです。そして相手が成功すれば、妬ましく思うのではなく、たとえ自分が犠牲になっても心から喜べることが愛の姿です。そのことを表している子どものある発言があります。「親は、苦い味のものが好き。つぶれたイチゴを食べて、ご飯は冷たいのが好き。不思議なことに、自分は焼き魚の腹わただけを食べて、おいしい身は私にくれるの。」親は、おいしいものを知らないのでしょうか? ただ子どもに美味しいものを食べさせたいから自分は残り物を食べるのです。数年前、私も同じような体験をしました。教会の長老さんといっしょにある信徒さんの家庭訪問に行った時でした。いちごが出されたのですが、上に乗っているものだけが新鮮で、下のものはつぶれていました。ところが長老さんは、つぶれたものばかり食べるのです。私にいいものを食べさせるためでした。これが愛の姿です。
 栗の村に住んでいるおじいさんの話です。秋になって栗がたわわに実ると、週末に若い男女がやって来ます。若い男女は、大きい実を勧め合うそうです。「大きいから、これ食べて。」すると、残るのは小さい栗だけです。しかし、中年夫婦が来ると、何も言わずに、相手に大きい実を食べさせようと小さいものから食べるので、残るのは大きいものばかりです。これも愛ですね。

 十字架は、ただのアクセサリーではありません。命をかけた私たちに対する愛の証なのです。私たちは、死後の世界において自己中心に生きてきた刈り取りをしなければならないのですが、私たちが、永遠の死ではなく、永遠の生命を受けて欲しいと願った神さまが、イエス・キリストとしてこの地上にきて、本来私たちが受けなければならなかった罪の罰を、全部、十字架上で引き受けてくださったのです。それは、私たち人間がうまくいくこと、喜ぶことを、喜びとしてくださった愛の姿です。
 私たちは、愛の中に生かされていることを忘れてはならないのです。

心のオアシス 2016年2月7日

 アメリカでは、あらゆる犯罪が多発していますが、その中でも聞いて笑ってしまうような事件もあります。実際に新聞に掲載された事件です。
お腹をすかせてスリが、スーパーで皿に盛られているウインナーをつかんで逃げ出しました。ところがそのウインナーは、切れていないもので14メートルも繋がっていたそうです。その男は盗んだのはいいのですが、後から後からそのウインナーがついてくるではありませんか・・・
それに気付いた犯人は、手で巻きつけはじめましたが、ついには腕が動かなくなって警察に御用になってしまった・・・というお話。
 
 私たちの自己中心性は、結局、自分自身に返ってきて、私たちを縛り付けて動けなくしてしまうことになります。聖書のいう「罪」は、まさにそのようなもので、自分の勝手だと考えていた自由行動が、やがては、私たちを縛り付けてしまうことになっていくのです。どうも、私たちが想像し考えている「自由」は、聖書が言っている「自由」と根本的にその概念が違うように思います。私たちは、人に迷惑がかからなければ、自分の好きなことをして、一番楽な道を生きることが「自由」だと考えています。それは枠の中だけではなく、ルールに縛られない生き方です。しかし、聖書には、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31・32節)神さまのルールの中で、本当の自由を得ることができるのだと言うのです。
「クリスチャンは、酒やタバコができないから、自由が束縛されている」と言われる方がいます。(聖書は、酒やタバコを禁止していません)しかし私にとっては、どう考えても、その人は酒やタバコに縛られているように思えます。それらのものが無くても生きることができるのは、果たして自由が束縛された人生でしょうか? 
 沈みゆく船の上でパーティーをすることは、一時的な不安解消にはなりますが、確実に沈んでいます。罪によって動けなくなる前に、一度、イエス・キリストに自分を預けてみられたらいかがでしょうか?

心のオアシス 2016年1月31日

 ハワイでは、休日にビーチへ行って、そこでバーベQをする人たちが多いそうですが、ある日、タロー先生家族が、友人、親戚を呼んで、ビーチでバーベキューをしました。沢山の食べきれないほどの肉を準備しました。火を起こして、沢山のチキンを焼いていると、良い香りがしてきました。もうみんなお腹がすいて、早く食べたい気持ちでしたが、焼いている間、我慢して待っていたのです。しかし、チキンが次々に焼き上がって皿に盛られ始めたころに、向こうの方から、路上生活をしている汚いかっこをした人が歩いてきました。タロー先生は、それに気付いて、「こちらに来るな! 来ないように!」と内心念じていたそうです。しかし、その男の人は、良い香りにつられるようにしてやってきました。タロー先生は、「こんな男に分けてやるものか」と思って見て見ないふりをしていたそうです。ところが、兄弟がその男性を見つけて、プレートに焼き上がったばかりのチキンや肉を山盛り載せて与えているではありませんか・・・タロー先生は、「どうしてそんなことをするんだ!」と内心思って、怒りにも近い感情があったのですが、ふと、心の奥から、神様の囁きが聞こえてきました。「先週、レストランでランチを食べた分は、誰が払ったか?」あの日のランチのことを回想しました。先生家族は、レストランでランチを食べていました。食べ終わって、会計をしようとしたところ、「もう支払われています」とウェイターに言われました。それは、あるクリスチャンがそこに来ていて、タロー先生を見かけて、家族分の全部のランチ代を支払って、レストランを後にしていたそうです。その時に、タロー先生は感動して、ありがたいな~ 感謝だな~と思っていたのですが、そのことを回想しているうちに、今、有り余る肉を、その貧しい男性にあげることができない自分の醜さが示されたそうです。自分は神様から与えられているのに、どうして自分は与えることができないのか? 自分の姿に恥じ入り情けなくて涙が出てきたそうです。 
 
 今日は洗礼式! 何もわからなくても、イエスさまが、私たちの罪の支払いを、すでに済ませてくださったことを信じるだけで、大丈夫です!

心のオアシス 2016年1月24日

 その日、ダンキンドーナツに立ち寄った、学生のケイシー・フィッシャーさん。すると、1人のホームレスの男性が、持っている小銭を数えながらお店に入るのを見かけました。「何かしてあげたいな」そんな軽い気持ちで、そのホームレスの男性に話しかけたそうです。男性が持っていたのはわずか1ドル。ケイシーさんはコーヒーとベーグルを買ってあげました。すると男性は、自分の生い立ちから今まで起きた様々なことを語りました。名前はクリス。自分がホームレスであるせいで、どれだけ周りの人たちが冷たく当たってくるか。ドラッグがどんな風に自分を大嫌いな自分に変えてしまったのか。ガンで失った母親のこと、そして会ったこともない父親のこと、自分はただ、母親が誇りに思ってくれるような人間になりたいだけだということ…こんなことを話しているうちに、そろそろ授業に行かなければいけないことを伝えると、クリスさんは少し待って欲しいと言い、紙に何やら走り書きをし始めたのです。クシャクシャのレシートに書かれた手紙をケイシーさんに手渡し去って行きました。手紙を見たケイシーさんはハッとしました。こんなことが書かれていたのです。「今日、自殺しようと思っていたんだ。でもきみのおかげで、もうそんな風には思わない。ありがとう、素敵な人。」

 私たちの教会は、5年前、まだ数名しか礼拝出席者がいない時、奈良のカトリック登美ケ丘教会が何の得にもならないのに、どこの馬の骨かもわからない私たちプロテスタント教会の開拓のために集会室を無償で貸してくださった。そして大阪では東大阪福音教会が他教会に礼拝堂を日曜日に貸してくださっている。見込みもない、自分の益にもならない存在に対して見返りを期待せず投資し親切にする。これこそが、「水の上にパンを投げる」「天に宝を積む」ことだと思う。私はこの6年間、沢山の祈りと愛と親切とサポートされながら支えられてきました。今度は、小さな教会、見込みのない人たちに与える側にならなければ、神さまからお叱りを受けるでしょう。何よりもイエス・キリストは、私たちがまだ罪人であったときに愛を示してくださったのですから・・・

心のオアシス 2016年1月17日

 私たちの教会の近くには東大阪では有名な神社があり、年始には多くの参拝者が教会の前の参道を歩く姿を見かけます。普段の参道は閑散としているのに、大多数の人たちは、年に一度だけ、小銭を賽銭箱に投げ入れて大きなお願いするのです。私はそんな姿を見ながら、「人間の都合や欲求に振り回される神社の神さまも大変だなー」と思っていました。ところが、ある読み物の中でその道の専門家が、こう指摘していました。「神社は『お願い事をするところではない』ということに、目からウロコと思った人は、今まで間違った参拝をしていたことに気づきましょう。実は神社の参拝の意味は、神様を敬い、感謝の心を持つことと祈りを捧げる場所、神様との交流の場なのです。なので、お願い事をするのではなく、まずは神様と交流する為にまめに参拝し、自分を知ってもらうことが大切です。」神社での祈りはそうなのか?!と目からウロコでした。
 
 イエスさまが、弟子たちに「祈るときは、こう祈りなさい。」と教えられた主の祈がありますが、そこにこのようなクダリがあります。「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイ6:10)これは、「主導権は神さまの側にあります」という信仰告白の祈りでもあるのです。人間は、どうしても「神さま」を、自分の願いや欲求を満たすためのツールとして利用してしまいます。人間の側に主権があるのです。しかし聖書は、天地万物を造られた神さまが人間を造り、神のために人は存在していることを教えています。極端に言うならば、主導権は神にあって、人間は神さまの願いや欲求に答えるための道具だというのです。私たちの人生に様々な問題や疑問が起こり、ストレスがあるのは、神さまが造られた目的の通りに自分を用いていないからなのです。すなわち使用方法を間違っているということです。勿論、イエスさまご自身も「求めなさい!」とおっしゃいましたし、自分の必要のためにお祈りしてもぜんぜん構いません。大切なことは、自分の願った通りにならなかった場合も、主権は神さまにあると考え、与えられた答えを受け止める。これが「みこころが、地にも行われますように。」の意味なのです。

心のオアシス 2016年1月10日

 昔、中国に花を育て美しい花を咲かせることが大好きなティンという少年がいました。その国の皇帝も花が大好きでした。しかし高齢だったので、後継者を探さなければならない時期になり、このような命令を出しました。「今から、国中の子供たち全員に、特別な花の種を与えます。そして、一年後に最も美しい花を咲かせて持ってきた子を、私の後継者としよう」この知らせが、国中に知れ渡り、至るところから種を求めて子供たちが集まってきました。ティンも皇帝から、特別な花の種をもらい、自信満々でその種を植えました。毎日、水をあげました。しかし、何日経っても何も出てきません。もっと良い土を探して、入れ替えました。それでも何も出てきません。ついに1年が経過しましたが、何も出てきませんでした。春が来て、国中の子供たちが、綺麗におめかしをして、美しい花を持って、宮殿に集まってきました。しかしティンの鉢には何もありません。恥ずかしい気持ちでいっぱいでした。彼のお父さんは言いました「お前は、よく頑張ったよ。最善を尽くしたのだから、そのまま皇帝に持っていけばいいよ」その言葉に従い、彼は空っぽの鉢を持って宮殿に行きました。皇帝は子どもたちが持ってきた花を見ていきました。どれも美しい花ばかりです。ついにティンの鉢に目がとまりました。皇帝が彼を前に出るよう促すと、彼は泣きながら言いました「僕は毎日、一生懸命世話をしたのに何も出てきませんでした。だから、ここには何も出てない空っぽの鉢しかないのです」この言葉を聞いたとき皇帝の顔に笑みが浮かびました。ティン君の肩に腕をかけて群衆に叫びました「私は、ついに私の後継者になるべきふさわしい人物を見つけた!君たちは、どこから他の種を持ってきたか知らないが、私が与えた種は、調理済みで、芽が出る種ではなかったのだ。この少年は、勇気をもって空の鉢をもってきた。そのことを称えよう。彼は、今は何もないけれど、私の王国の皇帝となって、この国の富の全てを持つことになろう!」
 あなたの状況が良くなくても、神さまの前に誠実に生きるなら、あなたは持っていないようで、多くを持つことになるのです。

心のオアシス 2016年1月3日

 今年の関西カルバリーフェローシップに与えられている年間聖句は、エレミヤ書29章11節「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」です。
 この言葉は、当時、イスラエルの人々が、住んでいたエルサレムからバビロン帝国に捕らえ移され、バビロンにて捕囚生活を送っている時に、預言者エレミヤを通して与えられた神さまからの言葉でした。その前後を読むとわかりますが、バビロンにいたユダヤ人は、ずっと捕囚生活に苦しむのではなく、70年後には故郷エルサレムに帰還することができるという約束でした。何か変化する兆しもない状況の中で、今の奴隷のような生活から解放されるなんて、到底信じることはできなかったでしょう。しかし、神さまが常に私たちに発信しておられるのは、将来と希望のメッセージなのです。そして、歴史が語っているように、神さまの言葉は、本当に実現していきました。
 
 もし、問題しか見えないのであれば、それは現実に対する信仰が強いからです。すなわち、私たちの経験値や環境、状況、手持ちだけに信頼しているからだと言っても過言ではないでしょう。でも、神さまに対する信仰が強くなれば、嵐の中でも計り知れない平安がきます。なぜなら、神さまは私たちに災いを与えようとしておられるのではく、希望の将来を与えようとしておられることを信じることができるからです。これは、気休めではありません。本当に、リアルに私たちの人生に働く、神の不思議な力です。私も何度もそれを体験しました。是非とも、神さまに対する信仰によって2016年を走り続けましょう。
 神さまは、私たちの頭の中で考えることができる範囲の小さなお方ではありません。私たちの計画や予想や能力を超越した驚くべきお方です。
このお方が私たちの人生にご一緒してくださっているなら、どんなに道が険しくても大丈夫! 必ず平安へと導かれ、解決が与えられます。