礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2020年5月31日

 聖書は、自分の“頑張りや努力”によって救いを獲得するのではなく、神の側の行ないによって救われることを教えている。私たちがすることは、神が行なわれた業を信じ受けとめるだけなのです。私たちは本来、創造主の計画と目的のために生きるよう造られました。しかし人は自分の願望と目的のために生きるようになりました。それが聖書の教える「罪(的外れ)」なのです。その罪から生み出されるものは不和や争いで、後は滅びが待っているだけです。そんな私たちの罪の代価を、神が肉体をとって地上に来られたイエス・キリストを通して、自らが十字架にかかって支払ってくださったのです。その事実を信じ受けとめることによって救いがきます。信仰によってイエス・キリストを受け入れたら、神の霊である“聖霊”が働きはじめます。聖霊が働きはじめると、不思議なことなのですが、今までの的外れな生き方に違和感を覚えるようになります。そしてそのような生き方はしたくないと思うようになるのです。本当に信じたら、この聖霊が私たちの内に、すぐ働き始められ、神の計画と目的のために生きたいと自然と願うようになるのです。
 聖書の記録によると、イエスさまの弟子たちは皆、師を見捨てて逃げてしまうような人たちでした。イエスさまが十字架にかかり葬られ甦られて天に昇っていかれてからは、迫害の大きいエルサレムで人目を避けるようにして、家の戸を固く閉じて怯えながら祈っていました。そうしていると聖霊が彼らの上に降り、それ以来、殉教をも恐れない大胆さと力が与えられ変えられました。多くの歴史学者たちは、この弟子たちの変化に疑問を感じるのです。何故、あの弱い小心者の弟子たちが、ある時期を境にして、こんなに力ある働きができるようになったのか?    
 それは“聖霊”によるのです。“信仰”がその人の中に入ると、“聖霊”が働き始めて、現状は変わらず、混乱の現実の中でも、不安が平安に、弱さが強さに、恐れが喜びに変えられるのです。それは自分の努力の結果ではなく、聖霊の実です。素晴らしいと思いませんか? あなたも受けることができます! ペンテコステ(聖霊降臨)おめでとう!

心のオアシス 2020年5月24日

 先日、日曜礼拝で、モーセ五書の学びを終え感無量だった。イスラエルの民がエジプトに移住して三百年も経過すると、イスラエルの人口が増加して脅威を覚えるようになりました。そこでエジプトは、イスラエルが力をつけないように虐げ、過酷な生活を強いるようになりました。挙句の果てはイスラエルに生まれてくる男の子を殺せとの命令を下しました。そこでモーセが生まれた時に、母親はカゴに入れて川に流し、何と「殺せ」と命じたパロの娘がそれを発見し、王宮の中で養い育てられるという不思議な神の計画が進められました。四十歳になった時、自分は“イスラエル人”という自覚を持っていたモーセは、ある日、同胞を苦しめていたエジプト人を殺しました。かばって助けたのだから、彼らは「モーセを通して神がエジプトの虐げから救い出してくれる」と悟ると考えていました。しかし実際には悟るどころか拒みました。そればかりか、エジプト人を殺したことがパロの耳に届き、モーセの荒野での四十年間の逃亡生活が始まりました。王室で育てられ、一流の教育を受け、体力も気力も申し分ないこの年齢こそ、イスラエルを導き出すチャンスでしたし、本人にもその自覚があったにも関わらず、その一番脂の乗った時期を荒野で過ごすことになったのです。そして八十歳になって、身も心も衰え始めた頃に、神さまから「イスラエルをエジプトから導き出せ」との御声を聴きます。その声に聴き従ったものの、二週間もあれば行ける目的地に四十年間も荒野をさまよい、人々からは「マナは飽きた、水が飲みたい、荒野で我々を野垂れ死にさせるのか? エジプトの方が良かった!」などと文句を言われ、脅迫され、散々な目にあい、結局、目的地の目と鼻の先まで来ていながら、モーセはその土地に入ることなく召されていきました。モーセ自身も失敗を経験しました。しかし、彼が召される前に書いた遺言書の結論は、「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」(申命記32:4)だったのです。彼は自分の人生を回想しながら、それを悟りました。神への信頼は、揺るぎない平安を与えます。

心のオアシス 2020年5月17日

 「わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。」(申29:5)
 これは、私が申命記を読むたびに、いつも心の残る言葉です。そして、自分の人生を振り返った時に、「神さまはいつも私の必要を満たしていてくださっていたな~確かにそうだったな~」と思わされています。イスラエルの民は荒野という岩や砂漠しかない、食べ物も水もない場所で、天からマナが与えられ、岩から水が与えられ、衣服も擦り切れなかったことが、当然、当たり前、普通のこととして、それが日常化してしまうと、奇跡を奇跡とは考えることができなくなっていました。事実、彼らは「マナは飽きた! 水を出してくれ! 我々はここで死ぬのか? エジプトの方が良かった。神はどこにいるのか?」と不平不満を言いました。極めて身近なところで、毎日が奇跡の連続であったことを悟ることができなかったのです。
 新型コロナウィルス騒動の中で、人間はなんと無力な存在なのかと感じさせられます。そもそも私たちは初めから無力なのに、神さまから与えられた恵みを“当たり前”だと感じて、自分の力で立っていると考えていたことが錯覚だということにどれだけの人たちが悟ることができたでしょうか? 元気なのに外に出ることができない、友人と会うこともできない、学校にも会社にも行けない…このような不自由さを経験して、今までの生活がどれだけ恵みであったかを思わされます。住む場所があり、着る服があり、食べることができ、会社に行けること、学校に行けること、教会へ行けることなど、どんな小さなことでも、実は、当たり前のようで、当たり前ではない、奇跡の連続だったのだな、と考えると、感謝しか出てこない。私は小さな存在で、ただ神さまの恵みによって生かされているということ・・・それだけで「感謝」と思える日々を送ることができるようになりました。これは私のStay Homeの収穫です。
 「彼らを恐れ、おののいてはならない。主があなたと共に行かれるからである。主は決して見放さず、見捨てない。」(申命記31章6節)

心のオアシス 2020年5月10日

 TVアニメ『ちびまる子ちゃん』(フジテレビ系)で、ネット上で大反響が起こった回があったそうです。
 話題のエピソードは『おかあさんの日』の巻で、内容は、親友・たまちゃんから“母の日のプレゼント”について切り出されたのをキッカケに、まる子は母・すみれへの贈り物に思い悩んでいました。しかしプレゼントを渡そうにも所持金はたった250円しかない。ひとまず250円で買えるものはないかと、まる子は商店街へ足を運ぶ。そこでたまたま見つけたのは、とある雑貨屋さん。まる子はこのお店で親切な店員のお姉さんと出会い、ハンカチをプレゼントすることにした。そして数あるハンカチの中から、まる子が選んだのは280円の“花柄ハンカチ”。値段が少しオーバーしてしまったが、お姉さんの計らいでまる子は無事にハンカチを購入することができた。ハンカチをプレゼント用に包んでもらい、さらに母親へのメッセージカードを用意する。もともとは自分の株上げのためにプレゼント選びをしていたまる子だったが、いつしか本気で母親を喜ばせようと一生懸命に……。 
そして来たる5月の母の日。まる子は例のハンカチを手渡すが、ここで母親が同じハンカチを持っていたことが発覚する。まる子は「何さ、こんなもん!」とハンカチを奪い取り、「もう持ってるものなんてちっとも嬉しくないじゃん! まる子のなんか嬉しくないじゃん、こんなもの!」とせっかく選んだハンカチをくしゃくしゃにしてしまう。部屋でひとり泣きじゃくるまる子。一方すみれは似顔絵と“いつもどうもありがとう”と書かれたメッセージカードを見つけ、まる子の想いを知る。そしてもともと持っていた花柄のハンカチをまる子に差し出し、「これお母さんのハンカチ。まる子にあげる。だってお母さん、まる子のくれたハンカチがあるんだもの」と満面の笑みを浮かべた。というものでした。
 同じプレゼントをするにしても形式的なものなのか、もしくは“気持ち”が込められているかで、その物の価値は大きく変わるものです。
 神さまからのプレゼントは、御子イエス・キリストです。私たちの罪の身代わりに十字架にかかりました。それは命がけの“気持ち”でした。

心のオアシス 2020年5月3日

 旧約聖書のサムエル記上を読んでいると、興味深いことが書かれている。そこには、イスラエルの最初の王になったサウル王と、次に王となったダビデについて描かれている。それぞれ自分の部下をどのように得ていったかを見ると、「サウル王は力の強い人や勇気のある人を見るごとに、それを召しかかえた。」(Ⅰサムエル14:52b)とあり、ダビデはサウル王に追われて、ほら穴に逃れている時に、「しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった」(Ⅰサムエル22:2)と記されている。どちらかと言えば、サウル王の軍隊の方が、最強のように思えますが、ダビデに従った、どこにも採用されなかったような人たちが、後の日に「勇士」と呼ばれるようになったのです。
 神さまは、私たちの手持ちがあってもなくても、神さまが用いれば、それはどんなに弱小であっても、最強の働きをすることができるようにしてくださるのです。モーセは口下手で、数百万人もの民を導ける素質はなさそうでしたが、アロンという助け手が与えられて、神の計画は進められていきました。そんなことを考えていると、私たちの教会も、確かに神さまの御手によって、動かされてることを認めざるを得ません。
 私たちの教会は今年5月で教会開拓満10年になります。私は、インターネットやホームページ作成などの知識が乏しく、ネット放送など考えたこともなかったのですが、スタートして間もなく、その道の助け手が与えられるようになって、今では、YouTubeで、礼拝のライブとアーカイブを流せるようになりました。それに加えZoomを使ったライブ配信も同時に行ない、礼拝後に教会メンバーと対話もできるようになり、今後の可能性も含め、神さまの御業を見させていただいています。
 足りない部分があっても、それで悲観することはありません。神さまは必要であれば、必ずその足りない部分を補う誰かや何かを送り、状況を整えてくださるお方です。もし補われることがなければ、神さまは他の計画を考えておられるということです。
 「主の山に備えあり」(創22:14)

心のオアシス 2020年4月26日

 聖書を読んでいて、「どうしてこのような記述があるのか?」「何故、愛なる神がこのようなことをされるのか?」「これでも神の計画なのか?」と思えるような箇所が多々あります。今も昔も、聞き心地の良いものは受け入れやすいが、現代の私たちでも、受け入れ難いことが、イエスさまや旧約聖書に登場する預言者たちによって語られることがある。これは人間の側の都合で聖書が書かれているのではなく、神が主体となっているからです。しかしながら、当時の政治的背景や文化、風習、習慣などを、考古学分野、また歴史的事実に基づいて調べていくと、かなり解決することや納得することができます。それでもわからないことは、神さまの立場、気持ちになってそこを読むと見えてきます。それでもわからなければ、祈って待つことです。
 私は、整理整頓は好きですが、書類が積み重ねられていくことがあります。ある時、家内が私の家の色々なペーパーが無造作に置かれている机の整理をしてくれました。(私は、どこに何があるのかは把握しているつもりではあったが・・・)複数のファイルの箱が作られ、「マニュアル関係」はこのファイルで、「手紙関係」はこのファイル、「教会資料関係」はこのファイルなどと種類別に作られ、書類がそれぞれに仕分けしていかれました。しかし最後に、どのファイルにも属さないペーパー類が残りあふれて、結局は片付かないわけです。そうしますと、そのような書類の行くファイルが作られました。それは「理解できないファイル」という特別な箱でした。どこにも所属しない不明の書類は、この「理解できないファイル」を見れば入っているということなのです。これで机の上はスッキリしました。
私たちの人生には、理解不能と思えることが多くあります。理不尽なこと、不条理なことなど、私たちがわからないことは、「理解できないファイル」を作って、そこに入れて置くのです。これは神に信頼することができる人のみに与えられている特別なファイルであり特権なのです。
「わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇 121:2)

心のオアシス 2020年4月19日

 「牧師の喜びって何ですか?」と問われるならば、「神さまの愛や恵み、そしてイエス・キリストは今も生きて働いておられることを伝えること。そしてそれが誰かの心に届いて、受け入れてくださる時。更に信じ受け入れた人たちの人生が変えられたという報告を聞く時」と私なら答えるでしょう。「何故、牧師になったのですか?」と問われたことがあるが、それは、美味しい素敵なお店を見つけたら、それをSNSなどに載せてみんなに伝えたくなるでしょう? 誰かと一緒にそのお店に食べに行きたくなるでしょう? それと同じように、私を愛し共におられ、導いてくださり、私を変えてくださったお方を体感したので、それを誰かに伝えたくてたまらないからです。私は牧師になる前は、商売をして一発当てたいと思っていた時期がありました。そのために地方から東京へ出ました。しかし、中2の時にイエスさまと出会ってから、少しずつ神の愛の大きさを理解し、神の力を現実的に体験していくにつれて、その感動を伝えずにはおれなくなったのです。天秤にかけた時、金儲けするよりも、キリストを伝える方が自分にとって価値のあることだと思えるようになりました。多くの日本の牧師は、アルバイトをしながら牧師をしていますが、私と同じような思いであるからでしょう。
 新約聖書の13の書簡を書いたパウロという人物は、当時エルサレムでは最高学位となるガマリエルの門下で学び、律法学者のエリートコースを歩んでいました。クリスチャンを迫害し、捕らえ牢獄へ入れるために躍起になっていましたが、キリストに出会ってから、その歩みが全く変わりました。その時から彼は握っていた学歴、立場、収入を捨てるかのようにして、テント作りのアルバイトをしながらキリストを宣べ伝える者になったのです。彼は主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の故に、全てを失ったが、それらのものが真の価値ではない、とまで言いました。それ程までにキリストの感動が彼の人生を大きく変えました。
 イースターに2名の方が受洗しました。私が牧師であって良かったと思える瞬間でした。キリストの感動がすべての人にありますように。

心のオアシス 2020年4月12日

 花売りのおばあさんがいました。人生の嵐をたくさん経験したためか、顔には深いしわが刻まれ、髪は真っ白で、背中は曲がっていました。しかし、花を売りながら笑顔を絶やしませんでした。彼女を見ていた人々は、その笑顔の秘訣が一体何なのか気になっていました。ある日、それを尋ねた人がいました。「おばあさんはいつも嬉しそうで、顔が穏やかなので、問題も苦しいこともなさそうに見えますね」おばあさんは答えました。「まさか。私だって心配事を積めば、トラック百台分くらいにはなるんだよ」「そうなんですか? では、なぜいつもそんなに明るく嬉しそうにしておられるのですか?」「聖書にはねぇ、イエスさまは十字架につけられて死なれ、三日後よみがえられたとあるのよ。だから、私も苦しいことがあるたびに『私も三日だけ待とう。人生には苦難の金曜日だけではなく、復活の夜明けもあるのだから』と自分に言い聞かせるの。そうやってね、三日じっと我慢して待つと、いつも神さまが喜びを与えて、良いことに巡りあえるようにしてくださるのよ!」 
 私たちは、どうしても過去のことに縛られ、今現在起こっている出来事に影響受ける傾向にあります。それが良いことであれば、その時点では舞い上がり、そうでなければ、落ち込んでしまいます。そしてそれによって未来が明るく感じたり、暗く感じたりするのです。今、世界はメディアによって現実が描写され、人々の中に焦燥感が漂っています。残念ながら、まだ明るい未来を語る人は一人もいません。信仰とは、神が語っている言葉を、“今”の事実として受け取ることです。神さまは、災いのように見えても、問題だらけでも、こう語られています。
 「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ記29章11節)
 イエスさまは、“死”を打ち破り甦られました! Happy Easter(^^)/

心のオアシス 2020年4月5日

 つい先日、現場で戦っておられる著名な内科医から新型コロナウィルスに関しての本音を直接お聞きすることができましたのでお伝えしたいと思います。そこには新聞社の記者さんもおられて、記事になる可能性があるのですが、今の世間の感情的風潮から、名前は出さないで欲しいとのこと。ここでは全部を書き切れませんので、メディアでは伝えられていない、医療関係者の中で話されている本音だけを抜粋します。
・新型コロナウィルスは、毎年変異して現れるコロナウィルス(風邪)の一種で、たまたま中国で騒ぎになったので、世界中で騒がれている。従って、行政は国民感情を抑えるために自粛要請などしなければならないが、ハッキリ申し上げると無意味。新型コロナは、今年の風邪。(補足すると、国や行政に反対するとか、自粛の目的達成に効果がないという意味ではなく、経済活動などをストップしてまでの犠牲と比較して、ということです)
・メディアが感染者数や死亡者数を出して不安を煽っているが、それ以上にインフルエンザは毎年日本だけで50万人前後が感染して、1万人前後がそれに起因する肺炎等で亡くなっている。また、新型コロナはかかると病状が急激に悪くなるのが特徴だと言われているが、毎年の流感や風邪でも、肺炎になって数時間、数日で亡くなるケースは珍しくない。
・今までの疫病との比較をするならば、数年前に出たMARSは致死率30%だったので感染者が亡くなることが多く、数ヶ月でウイルス自体が消滅した。致死率が高いと流行しない、従って新型コロナは非常に弱くて、発病しても死亡率は低い。ワクチンや薬がないことに不安を覚える方もいるが、毎年の新種の風邪にも特効薬はない。基本、免疫力で治せます。
・重症化・死亡率が高いのは、断トツ喫煙者+高齢者で、通常の24倍。あと基礎疾患を有する人(糖尿病・免疫抑制剤使用)は注意が必要。
・終息はいつか? 人口の7割にウイルスの抗体ができたら収まると言われている。夏もウイルス自体は存在するが、高湿度のため流行らない。
 もし、毎年のようにしてメディアによって風邪による感染・死亡者数が報告されるようになったら社会は立ち行かなくなるでしょう。教会は、社会的責任を果たしながらも、振り回されずに、神にある希望を伝え続けていかなければなりません。「うわさを聞いても恐れるな!」(ルカ21:9)

心のオアシス 2020年3月29日

 石切チャペルの午前礼拝の後、80代の長老さんの後を継いで、自発的に一階から二階の入口まで掃除機をかけてくれる小学生たちがいる。その姿に歓心しつつ、微笑ましく思っていたのですが、先日、都合で教会に来られなかった時に、その親が代わりに掃除機をかけておられた。それを見ながら、神の人との関係と連想して恵まれました。子どもたちは、親が自分のできない部分のフォローをしてくれているとは思ってもいないでしょう。歩き始めたばかりの子は、倒れそうになる時に親がその手を引き上げていたからこそ倒れずに歩いているという自覚はないかもしれません。しかしながら、実際には親の手助けがあるからこそ安全に歩くことができているのです。同じように天の父なる神さまも、私たちの弱い部分、出来ない部分を、フォローしてくださっているからこそ歩んでいくことができるのです。
 現在、教会の礼拝では申命記から学んでいます。それはイスラエルがエジプトによる奴隷としての束縛から解放されて40年間荒野を旅した道中を回想しながらモーセが語っているメッセージであります。8章でこう言っています。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」(申命記8:2-4)
 実は毎日の日常が奇跡の連続なのです。当たり前が当たり前になると不平へと繋がります。荒野でマナを食べることは当たり前だと感じ始めたときに不平が出てきました。でも当たり前が奇跡だと思えるようになると、感謝が溢れるようになります。私たちは奇跡の中にいるのです!