礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2010年10月31日

フィクションでありますが、アメリカのテレビ番組で、このような内容の
ものを以前に放映していました。
アメリカの大統領が、一人の死刑囚の死刑を執行するしないで、葛藤する
内容であります。タイムリミットまで、大統領の一言で死刑を取り止めに
することができるわけですが、その決断ができないまま、死刑が執行され
てしまいました。それまでに様々な人を通して、大統領に助言があったわけ
ですが、決断できなかったわけです。そのドラマの最後に教会の神父が出て
きて、このようなやり取りを大統領としました。
 神父「あなたは祈りましたか?」 大統領「勿論ですとも。祈りましたよ。
何度も何度も答えをくださいって、求めました。でも、神様は語られません
でした。」そこで神父はこのような例話を話し始めました。「ある男が川にい
ました。大雨が降って川が増水して、人々は避難を始めました。しかし、そ
の男は言いました。「私は、神に愛されているから、祈っていれば、どこかへ移されるから大丈夫。」大雨は降り続いて、川の水位が上がりました。
そしてボートに乗った人が男に声をかけました。「そこの人。避難しなけれ
ば危険だぞ!」しかし男は言いました。「私は神に愛されている。だから祈
れば必ず助けてくださる。」しばらくしてヘリコプターが飛んできて、メガ
ホンで叫びました。「はしごをたらすから、それにつかまりなさい!」しか
し男は言いました。「神に祈れば、安全な所へ連れて行ってくれるよ。」そし
てこの男は増水した水にのまれ、溺れて死んでしまいました。
 その後、彼は天国の門に立ち、神に面会を求めました。「私は、あなたに
祈りを捧げました。愛されていると思っていました。なのに、どうしてこん
な目に遭うのですか?」神は言いました。「私は無線の連絡と、ボートとヘ
リコプターを差し向けました。なのに、どうしてあなたはここにいるのです
か?」
私たちは、神からの直接的なご介入を期待していることが多いと思います。
たとえば、神様ご自身が自分に語りかけられるとか、天使を送って危険から
守ってくださるとか・・・。勿論そのような現れ方をされる場合もなくはな
いでしょう。でも、多くの場合、人を通して助けられ語られるのです。自分
を縛っている固定概念を払いのけ、もっと回りを見て耳を傾けるなら、神か
らの助けの手が差し伸べられているのを見、天からの声が聞こえるでしょう。

心のオアシス 2010年10月24日

1975年、キャサリン・クールマン師の癒しの集会で起こった出来事です。その集会では、たくさんの車椅子の人たちが立ち上がり、ガンが癒され
目や耳の不自由だった人が、次々と治るという奇跡が起こりました。集会が
終わって、会場の出口から人々が出始めました。その集会に参加していた
ある一人の青年も帰ろうとして出口に近づいた時、母親に押されている車椅
子の少女が視界に入りました。驚いたことに、この少女の頭は異常に大きく、
その体は異常に小さかったのです。すぐに奇形児だとわかりました。その青
年は、その子供を見て悲しく思い、神様に訴えました。「主よ! どうして
この少女を癒されなかったのですか? この子こそ、今、癒しを必要として
いるのですよ!」そして神様が、その少女を癒されなかったことに憤りを覚
えました。
 それから青年はピッツバーグからトロントに帰るためバスに乗りました。
長いバスの旅でしたが、2時間ほど経過したときウトウト居眠りをしながら、
夢を見ました。それは、自分が2時間前に見た、あの会場から出て行く群衆
と少女の車椅子を押している母親がいました。そこには、その様子を見なが
ら、「主よ。どうして、この少女を癒されなかったのですか?」と文句を言
っている自分自身の姿もそこにありました。しかし、そのシーンを見ている
と、イエス様が、その少女の後ろに立たれて、その大きな頭を抱きかかえて
おられました。そしてこう言われたのです。「私は、この子を忘れているの
ではありません。一度も忘れたことはありません。」それがイエス様からの
答えだったのです。

 私たちの人生で起こる「何故?」という出来事の中には、神様の目的や意
図がわからないことも沢山あります。それでも神様が造られた存在すべてに、
目的とプランがあり、責任をもって面倒をみていてくださっているのです。
何ができるできない関係なく、長生きできても、短命であろうとも、それぞ
れには、神さまからの特別なご計画があります。私たちが天国に行ったとき、
今まで理解できなかったことが、点と点が線で結ばれるようにして全てが明
らかになるでしょう。それを信じることを「信仰」といいます。
 「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する
ことである。」(ヘブル11章1節)

心のオアシス 2010年10月17日

砂漠地帯の木を育てるときに、成長の過程のある時期、水をやらないそうです。それは、将来、雨が降らなくても生き延びることができるためだそうです。水をやらないことによって、木は水を求めて下へ根を伸ばすようになります。過分に水分を与えると、根を伸ばす必要がないので、伸びないまま厳しい環境では育ちにくくなるというのです。成長のプロセスの中に、何も人によって手が加えられないように見える期間こそが、実はその木にとって最も大切な時間なのだということです。
 四肢欠損症というまれな病気のために、腕と脚のない身体で生まれたニック・ブイチチがこう証ししています。「人には誰にでも障がいがあります。それが目に見えるかどうかだけです。過去にいじめられたせいで、成功できなかったせいで、あるいはまだ独身だからというせいで傷ついた心という障がいです。しかし、一時的なものに幸せを見出すならば、その幸せも一時的なものにすぎないということです。成功する前に、結婚する前に幸せでないのならば、それらを手に入れても幸せになることはできません。」ニックは腕と脚がない自分に希望を見いだせず、怒りと混乱を抱えながら成長しました。まるで神が沈黙しておられるかのような毎日でした。15歳の時に聖書の話しを聞いて、「私に腕と脚をくださるなら、私はあなたを信じます。」と祈りました。腕や脚が生えてくるという奇跡はまだ起こっていませんが、何かの間違いでそのように生まれたのではなく、神様が将来と希望を与える素晴らしいご計画をもっておられることを信じることができるようになりました。それからというもの彼の情熱とその特別な障がいのおかげで、老若男女、そして懐疑的な人、動けない人などさまざまな人々にふれ合うことができるようになりました。これまでに29カ国で講演をすることができました。そのメッセージは、「神はあなたのためにご計画を持っておられる」というシンプルなものです。
あなたにとっての神の沈黙とは何でしょうか? 荒野のような只中にも、後の日のための特別訓練が施されているのです。
「神の真実さは、私たちの短い人生を数年、もしくは数十年引き伸ばすかどうかの次元ではありません。私たちが信頼するなら死までも責任をとってくださいます。神が責任をとることができないことは、私たちの人生には起こりません。」  (ジョン・ホンジュン師)

心のオアシス 2010年10月10日

牧師であり詩人でもあった河野進さんの詩をご紹介します。

病まなければ 捧げ得ない祈りがある
病まなければ 信じ得ない奇跡がある
病まなければ 聞き得ない御言葉がある
病まなければ 近づき得ない聖所がある
病まなければ 仰ぎ得ない御顔がある
病まなければ 私は人間でさえあり得ない

人は病気になると、その病気に心が縛られてしまったり、それに振り回されるような人生を送ることが多くあります。病気だけではなく、様々な問題や、まさかの出来事にも同じことが言えると思います。また自分だけならまだしも、その問題が家族や友人にまで巻き込んでしまうことさえあるでしょう。ある意味、私たちは「人生における何故?」によって支配されコントロールされています。そして、一生かけて絶えず起こる様々な問題解決のために労力を費やして人生は終わってしまうのです。
聖書の中に、このような記事があります。4人の友人が、一人の中風の男を床のままイエスの元へ連れて来ました。その時に語られたイエスの言葉が印象的です。「あなたの罪は赦された。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」。今までのこの男の人生は床に縛られ、その病に振り回されるような毎日でありました。しかし、イエスはその床を取りあげなさいとおっしゃるのです。取りあげるというのは、主導権が床にではなく、この男にあるということなのです。救いを受けた後の人生は、問題に支配されるどころか、その問題を逆に支配して生きることができるようになることを示唆しています。
河野進さんの詩は、病をコントロールしている人の姿を表しているように思います。問題がまだ残っていたとしても、それによって得るものは大きいと発想の転換ができるのです。これは信仰から来る恵みです。

心のオアシス 2010年10月3日

息子の保育園時代に、発表会がありました。園児たちで合奏をするということでした。大きなペットボトルにビーズのようなものが入っていて、振るとガシャガシャと音がなる手作りの楽器を手にしているグループの中に息子がいました。演奏が始まる前から、子供たちは隣の友達とふざけ合ったりしていました。いよいよ合奏が始まりました。ところが練習はしたのでしょうけれども、先生の指揮のテンポを守っている子供はいないばかりか、「ガシャガシャ」「ドンドコ」「ピ~ヒャラ~ ピピピ」とそれぞれ違った騒音がそれぞれのパートから鳴り響き始めました。
もしこれが有料の音楽会でしたら、「入場料返せ!」との野次が飛んできてもおかしくはないのですが、この音楽会では、呆れて帰ったり文句が出るどころか、みんな始めから終わりまでビデオを回しているのです。そして、その騒音楽会の演奏が終了するや、拍手喝さいではありませんか。ブーイングに値する演奏を聴いて「素晴らしい!」とは、一体何がどうしたのでしょうか?
これは「関係」にあるのです。この悲惨な演奏をした子供たちと、それを聴きながらビデオを回している人たちは、親子関係にあるのです。親は自分の子供が「良い音楽を奏でることができたから」とか、「一生懸命にやっているから」というのではなく、その子供の存在が、その演奏の価値を決めているのです。
私たちの神と人との関係も同じことが言えます。私たちは真面目だからとか、良い行いをしているからとか、熱心だから、価値があるのでもなく神様に愛されているというのではありません。あなたという存在そのものに価値があるのです。
パウロは言いました。「私は神に背く者であり、反逆する者、迫害する者であったにも関わらず、忠実な者と見なして、この務に任じて下さったのである。」
神様は今日も、あなたを大切な存在として視線を送っておられます。
「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ43章4節)

心のオアシス 2010年9月26日

ある村から、一人の若者が隣の村に住むために移動していました。途中で一人の老人に会いました。この若者は、この老人に聞きました。「私が今から行こうとしている隣の村には、どんな人たちが住んでいますか?」老人は、それを聞いて逆に問いました。「あなたが住んでいた、あちらの村には、どんな人たちが住んでいたんだい?」すると若者は言いました。「あの村には、もう二度と帰りたくはありません。とても不親切な人ばかりで、嘘はつくし、いじめはあるし、友達なんて一人もできませんでしたよ。とんでもない村でした・・・」すると老人は答えました。「今からあなたが行こうとしているあちらの村にも、同じような人たちが住んでいるよ。」 しばらくして、別の若者が前の若者と同じ村から出てきて、隣の村へ行こうとしていました。その若者も、途中で老人に出会い前の若者と同じ質問をしました。「今から隣の村へ行こうとしているのですが、そこにはどんな人々が住んでいるのですか?」老人は逆に質問しました。「あなたが住んでいたあちらの村には、どんな人たちが住んでいたのかね?」するとその若者は言いました。「あの村には本当に良い人たちばかりがいて、親切で、親しい友人もたくさんできました。とても名残惜しいです。」そうすると老人は言いました。「今からあなたが行こうとしている隣の村にも、同じような人たちが住んでいるよ。」
同じ環境、同じ境遇にいても、その人次第で幸せにもなれるし、不幸にもなれることを教えている寓話です。私たちが住んでいるこの地上での問題や悩みは、様々な形でほとんど平等に分け与えられているように思います。現実は変わらなくても、どうやってそれを乗り越え幸せに生きることができるのでしょうか?
パウロの名言です。「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ・・・わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
息子(誠)の好きな言葉。「(神にあって)なるようになる」

心のオアシス 2010年9月19日

1988年に、ランドルフ・バード博士が、サンフランシスコ総合病院の心臓病集中病棟の患者393名を対象にした「祈り」に関する実験の研究結果を発表しています。それによると、患者を二つのグループに分けて、一つは、米国内の様々な場所にいるクリスチャンの集団が、指定された病人たち一人一人に対して祈られているグループ。もう片方は、誰にも祈られていないグループ。そして「祈り」という要因を除いては、すべての患者は同じハイテク治療を受けました。誰が祈られ、誰が祈られていないのかは、医師、看護師、患者すらも知らされていません。その結果、祈られた患者の方が、いくつかの測定の結果、統計学的にみて明らかに有意に良くなっていることがわかったということです。また、「祈り」の距離に関しても、その効果に左右する要因にはならないということがわかったそうです。すなわち、何千キロも離れた東海岸側からの祈りも、西海岸にあるこの病院に近いグループからの祈りと、まったく同様に効果的であることがわかりました。
この実験結果を踏まえてバード博士は、「もし、なんらかの物理的エネルギーが送られているのであれば、遠距離より近距離の方が、祈りの力はよりパワフルになるはずである。なぜなら、物理的なエネルギーならば、距離と共に弱まるからである。祈りの効果は、覆ったり遮断したり、封鎖したりすることができない。ということは祈り手から相手に向けて、ある種のエネルギーが送られているわけではないのである。離れた場所からの祈りが、どのようにし作用するかについては、現在の我々の科学は無知であるということからすれば、『神の力が働いたのだ』と信じる人々は、自分たちの主張に改めて自信を持つべきであろう。このような考えは、どのような説にもまして、最良の説明のように思われるからだ」と書いています。医学・科学の世界が、「祈り」の力を証明しています。    
神がこの世の全ての人に与えられた恵みの一つは「祈り」であります。人は危機に面した時に、瞬間にでも崇高な存在に助けを求めます。是非祈ってみてください。神様は必ず必要を満たしてくださいます。

心のオアシス 2010年9月12日

1992年、バルセロナ・オリンピック陸上男子400mの走者に、イギリスのレドモンドという選手がいました。彼はそのレースで勝ちたいと願ってレースに臨みました。スタートして快調に走っていましたが、ゴール前250m地点で、悲劇が起こりました。突然、足の筋が切れて失速し、激痛のために顔をゆがめ足を押さえながらトラック上に倒れ込んだのです。痛みと、走ることができなくなった悔しさの混じった悲痛な表情でした。やがて救護の人が担架を持ってきましが、その時、彼はそれを拒否して、立ち上がり、片足でケンケンするかのようにして走り始めたのです。すると突然、大きな男が、スタンドから群集をかき分け、警備の人を制しながらトラックの中へ入ってきました。それはレドモンド選手の父親でした。父は泣きながら足を引きずっている息子に言いました。「こんなことをしなくていいんだぞ」。しかし息子は言いました。「いや、これを最後まで終えたいだよ」。それを聞いた父は答えました。「それなら、一緒に行こう」。父は息子の肩に腕をまわし、助けながら一緒に走りました。そして間もなくゴールラインの前で、父は手を放して息子を一人でゴールさせたのです。そこにいた6万5千人の観衆が総立ちして拍手をする中、レースを完走することができたのです。レドモンド選手は一位になることはできませんでしたが、レースを最後まで走り抜くことができました。痛みがあったにも関わらず、涙を流していたにも関わらず、全力を尽くすことができました。それは彼が倒れそうになる時に引き上げる父の愛があったからです。観客席から立ち上がり、競技場のトラックの中に入ってきて息子を助けようなんてことを、どうして父はしたのでしょうか? それは息子を愛していたからです。そして、激痛に苦しむ自分の子供の顔を見、しかし最後までレースをやり遂げたいという息子の姿勢を見て、父はその両方を支えたいと思ったのです。
天の父なる神様は、痛み、苦しみ、戦っている私たちの所に来て助けたいと願っておられます。みなさんの人生のレースはどうでしょうか?
 「わが助けは、天と地を造られた主から来る」(詩篇121の2)

心のオアシス 2010年9月5日

カナダとアメリカの国境にある世界で最も大きく美しい滝の一つに、ナイヤガラの滝があります。以前にドイツの綱渡り師が、カナダとアメリカ側の岸に鋼鉄を張って、そこを渡って見せたそうです。背中に何か重いものを乗せて渡りました。そして渡り終えた時に拍手喝采でした。この綱渡り師は言いました。「皆さんは、私が人を背負ってでも、ここを渡ることができると思いますか?」そこにいた調子の良いアメリカ人の一人が、「勿論、あなたなら渡れますよ!」と言いました。そこでこの綱渡り師は尋ねました。「そうですか? では、あなたを背負って渡ってみせましょう。」そうするとその男性は、「いえいえ・・・それは遠慮します・・・」威勢の良かった人は、よわよわしい声で拒否しました。そのようなやり取りをしていましたが、結局、誰も綱渡り師に身を委ねることができないことがわかったときに、小さな少年が出てきました。「僕を背負って渡ってください!」綱渡り師は、その子を背負って渡り始めました。しかし、この少年は、ニコニコしながら手を振ったり、ピースしたりで、見ている方がハラハラ・ドキドキしていました。そして無事に渡り終えることができました。人々は少年の勇気ある申し出を称えながら質問しました。「よくやったね! 怖くなかったの?」少年はニコニコしていましたが、やがてこう言ったそうです。「実はね。あの綱渡り師は、僕のお父さんなんだよ。」
この少年は、お父さんに全幅の信頼を持っていました。みなさんの周りに信じることができる人はいるでしょうか? ニュースを見ても、周りを見ても、信じ切ることが難しい世の中です。政治も、学校の先生も、社会も、親も子供でさえも、裏切ることがあります。何も信じることができない世界ほど、虚しいものはありません。しかし、もし、お父さんを信頼した少年のように、純粋に神という存在に委ねることができたら、人生何が起こっても安心があります。神が良いことも、悪いことも全部用いて、自分に最善をしてくださるという信頼からくる安心です。
一度、神に賭けてみてはいかがですか? 保証します!

心のオアシス 2010年8月29日

動物が大好きな少年がいました。いつも近くのペットショップに出かけては、外の窓越しに眺めていました。ある日、お店が、少年の大好きな子犬が6匹入荷したようで、たまらず店主に聞きました。「おじさん、この犬いくら?」「2万円だよ。」「2万円もするの?」この少年にとっては高い値段でした。少年の持ち合わせでは買うことはできません。店主が一匹一匹、丁寧にお店に入れるのを見ていると、どうも一番最後の6匹目の犬の左の後ろ足が短いのか、バランスを崩していました。少年は聞きました。「おじさん、この犬はいくら?」店主は言いました「君が買ってくれるのなら、この犬は半額にしてあげよう。」しかし少年はニコリともしません。それを見た店主は言いました。「じゃ、それならタダでいいよ。」そうすると少年はさらに顔を曇らせて言いました。「おじさん、タダは駄目だよ。」「そうか? じゃ、半額にしておこうか?」そうすると少年は言いました。「半額も駄目だよ。この犬は他の犬と同じように定価で売らなきゃダメだよ。2万円で僕が買うよ。」その言葉に驚いた店主は言いました。「いや~、これは足が悪いんだ。だから半値でも売れないからタダでいいって言ってるだろう。」「おじさん! タダも半値もダメだよ。これから僕、お父さんにお金もらってくるから、この犬、絶対に誰にも売らないでね!」と言って、少年は家に帰って行きました。「奇妙な客だな・・・あの犬は売れないと思っていたのに・・・」ペットショップの店主が、その少年の帰って行く後姿を見てハッとしました。「今まで、何年も顔は見ていたけれど、そうだったのか・・・あの少年の左足も少し短いんだ・・・」少年の歩く姿を見ていると、ハッキリそうだとわかりました。自分が「半額でいい。タダでいい」と言ったのを少年は「タダなんて駄目だ」と言った意味が初めてわかりました。少年は障害があるから2万円の価値がないとは思わなかったのです。なぜなら自分自身に障害があるから価値のない者とは思わなかったからです。
あなたが、どのような人物であったとしても、神の目には高価で尊い存在です。神の価値観にこそ希望があります。ハレルヤ!