心のオアシス
心のオアシス 2018年9月2日
ある朝早くひとりの老人が病院にきました。看護師が老人の対応をしました。血圧と体温を測りながら「今日は先生の診察まであと1時間はかかりそうです」と言いました。しかし、老人は「できれば急いで欲しい」と言いました。看護師は「何か急ぐような約束を医師としていますか?」と尋ねました。老人は答えました。「いいえ、でも妻と一緒に朝食をとるために介護施設に行かなければならないんです」老人の妻はアルツハイマーにかかって介護施設で生活しているのでした。看護師は尋ねました。「少し遅れたくらいで奥様は心配なさるんですか?」「いいえ、妻は5年前から私が誰だか分からないのです」と老人は答えました。看護師は驚いた様子で再び尋ねました。「奥様はあなたのことがお分かりにならないのでしょう? それでも一緒に朝食をとりに行かれるのですか? 何のためですか?」老人は微笑んで答えました。「妻は私のことを忘れ覚えていないけれど、私は妻のことを知っているんだよ」
この文章を読みながら、故ハ・ヨンジュ先生がかつて、「神さまの片思い」とおっしゃっておられたことを思い起こしました。私たちは、神さまのことを忘れることも裏切ることもあるでしょう。全く関心がないかもしれない。でも、神さまの側は、私たちが、今、どのような状態であるかは関係なく、一方的に愛してくださっているのです。
このアガペー(無条件の愛)があるからこそ、私たちには本物の平安が約束されているのです。いつも神さまの顔色を見て、愛されているかそうでないかを伺いながらビクビクしながら生きる必要はないのです。
ある人は言いました。「神が愛ならば、どうして私はこんな目に遭うのですか?」それは、人間が頭の中で勝手に想定した神が理屈に合わなかっただけで、人間の理性を越えた神の存在を否定することはできないのです。あなたがもし、自分の願望を叶えてくれるのが神の働きだと考えているならば、そのような“神”は存在しないということなのです。
聖書の神は、人類における様々なマイナスさえも用いて神の計画を進め、私たちを最善に導こうと願っておられるのです。「神は愛なり」
心のオアシス 2018年8月26日
動物が大好きな少年がいました。いつも近くのペットショップに出かけては買うわけではありませんが、外の窓越しに見ていました。ある日、大好きな子犬が6匹入荷したようで、たまらず少年はお見せのご主人に聞きました。「おじさん、この犬いくら?」「2万円だよ」「2万円もするの・・・」財布を見てもだいぶお金が足りません。ペット屋のおじさんが、一匹一匹、丁寧にお店に入れるのを見ていますと、どうも一番最後の6匹目の犬の左の後ろ足が短いのか、バランスを崩していました。少年は「おじさん、この犬いくら?」おじさんは言いました「あ~この犬は君が買ってくれるのなら半額にしてあげよう」しかし少年はニコリともしませんでした。「よし、それならただでいいよ」すると少年はさらに顔を曇らせて言いました。「おじさん、ただはダメだよ」「じゃ、半額にしておこうか?」「半額もダメだよ。この犬は定価で売らないとダメだよ。2万円で僕が買いたい」と言い出しました。おじさんは「いや・・・これは足が悪いんだから、商品としては価値がないんだよ。ただでいいって言ってるじゃないか」「おじさん、これから僕、お父さんにお金もらってくるから、この犬、絶対、誰にも売らないでね」少年は家に帰って、お父さんを説得して2万円をもって来ました。お店のおじさんは、2万円出されても「じゃ~半分でいい」と言います。しかし少年は「2万円で買いたいんだ」と言って、後ろの左足の少し短い犬を、本当に宝物を抱えるようにして家に持ち帰りました。「奇妙な客だな~ あの犬は売れないと思っていたけど、ありがたい」と思いながら、その少年の帰る後ろ姿を見て、ハッとしたそうです。「今まで何年も顔は見てたけど、そうだったのか、あの少年の左足も少し短いんだな・・・」少年の歩く姿を見ていると、ペット屋のおじさんは、ハッキリそうだとわかりました。
私たちは、自分の価値をどのように決めてるでしょうか? この世の中の評価で自分の価値を決めてはいけません。私たちを創造してくださった神が決めるものです。映画の中の主役も通行人Aや通行人Bによって引き立てられているのです。主にとってはすべての人が主役です。
心のオアシス 2018年8月19日
アメリカのベリーという女性には、大きな夢がありました。それは、自分のように貧しさのゆえに勉強できない子供たちのために学校を建てるということでした。ある日、祈っているうちに思いついたことがあって、大富豪のヘンリー・フォードを訪ねました。そして彼に、学校を建てるための寄付を募ったのです。話を聞いていたヘンリー・フォードは、コインを1枚差し出しました。それは屈辱的な拒否の表現でしたが、彼女は失望せず、祈った後、そのコインで一袋の種を買い、それを空き地に蒔いて育てました。毎年少しずつ種の量は増え、数年後には農場に変わりました。ついに建物を建てることができたベリーさんは、もう一度ヘンリー・フォードを訪ねました。「数年前にいただいた1枚のコインによって、成し遂げた成果を見てください。」ヘンリーは、コイン1枚で学校を建てたという言葉が信じられず、農場を見に行きました。そして、深く感銘を受けた彼は、学校のために100万ドルを寄付しました。
北森かぞう先生が書物の中で、このように言っておられます。「私たちの天の父なる神様は、あくまで『信仰』の対象であって、『実感』の対象ではありません。もし、『実感』できるのであれば、信仰する必要はないでしょう」。これは、自分の願った方向に物事が進んでいるということを実感していなくても、神の愛を実感することができなくても、神さまは最善をしてくださるということと「神は愛なり」と信じることなのです。
ベリーさんは、現実的には、とうてい学校など建てることができない1枚のコインで、学校を建てることができました。どうしてでしょうか? それは目に見える現実によって判断したのではなく、信仰を働かせたからです。神さまが与えてくださる小さな一粒のからし種ほどの信仰があるならば、それは現実に奇跡を生み出し、死に対する解決さえ与えるものなのです。娘を失って落ち込む会堂司ヤイロに対してイエスさまは、「今、恐れるのをやめて、信じ続けなさい!」と言われました。その時の気分や状況によって左右される“点としての信仰”ではなく、どんなことがあっても動かない“永続的な信仰”を求めておられるのです。
心のオアシス 2018年8月12日
つまづいたおかげで
つまづいたり ころんだり したおかげで
物事を深く考えるようになりました
あやまちや失敗をくり返したおかげで
少しずつだが
人のやることを 暖かい眼で
見られるようになりました
何回も追いつめられたおかげで
人間としての 自分の弱さと だらしなさを
いやというほど知りました
だまされたり 裏切られたり したおかげで
馬鹿正直で 親切な人間の暖かさも知りました
そして・・・
身近な人の死に逢うたびに 人のいのちのはかなさと
いま ここに 生きていることの尊さを
骨身にしみて味わいました (以下省略)
(相田みつを著『にんげんだもの』文化出版局刊より)
私たちはみんな“幸せ”を求めています。そして“幸せ”になるためには、どうしたら良いかを考えます。幸福になるために、成功することを求め、成功するためには、目標を達成しなければならない、という図式ができあがるわけです。このような思考パターンを持ったままでは、最終目標にたどり着くまで、成功もしないし、幸福にもなれないということになります。聖書的幸福とは、イエスさまが教えられた八福の中にもあったように、「心が貧しくても」「悲しんでいても」幸いだということなのです。何があったとしても、神の御心が自分の人生に行われていることを幸せだと思えるようになったら、もう何があっても大丈夫です。
心のオアシス 2018年8月5日
関西カルバリーフェローシップの開拓は9年目、堺チャペルは2年目に入った。一つの教会を開拓していくことは至難の業と言われていたので、私は、それだけはしたくないと牧師になってからずっと思ってきた。ところが神さまはそうはさせてはくださらない。私の願いではなく、神さまの願いが実現していった。私にとって最初の開拓地は、1993年、アメリカはカルフォルニア州・ラグナヒルズという町でした。そして次が2010年、東大阪と奈良。そして2017年に堺市となる。ゼロからのスタートは、神経をやられてしまう伝道者も多いと聞くが、確かにそうかもしれません。しかし幸いなことに、私は関西での伝道を始めたときに、開拓経験のある先輩牧師から、このようなアドバイスを受けた。「『数』を追うと自己満足か自己憐憫に陥るので、それは止めた方がいいですよ。神さまが人を送り、神さまが人を取られるので、神さまがなさることに委ねたら悩まないですよ」この言葉が、私の開拓の指針になった。神さまが、指一本動かせば、一晩で多くの人たちが教会に来るだろうし、神がそれを望まなければそれで良し、“神実現のための自分”を意識すると本当に楽しくなった。私は、「数」を追うのではなく、神さまが自分に与えてくださっている賜物を100%用いてベストを尽くし、後は神さま任せにした。神がたとえただ1人の牧会を任せられたとしてもそれで良し! それが私の心を守ってきた開拓の秘訣なのです。
以下は、ダニエル・キム宣教師の文章です。励まされます。
この時代を生きる宣教師として考えるべきことは、「働きの実がなくても、その働きを続けられるかどうか」ということだ。地の果てに行くほど、実を得るのが難しい。主の再臨が近づくほど、目に見える働きよりも地下に入っていく働きが多くなる。イエスさまは私にこう語られた。「明日、人が集まらず、礼拝堂を奪われ、働き人がいなくなったら、あなたは何によって喜ぶだろうか? 明日、声が出なくなって賛美ができなくなったら、あなたは何によって喜ぶだろうか? 目に見える結果ではなく、天の父があなたをひとりぼっちにせず、共に歩んでくださることを喜びなさい」そんな思いで主の前に立てば、地の果てまで行くことができる。その思いさえあれば、主が来られるその日まで、地の果てまで宣教の使命を果たす人として用いられるだろう。 アーメン!!
心のオアシス 2018年7月29日
新聞にアメリカのある小学校の先生が書いた記事が掲載されました。
その先生は自分のクラスの一年生たちに、感謝祭にちなんで自分たちが何か感謝しているものを絵に描くように言った。しかし正直なところ、この学校に通う子どもたちの家庭は貧しく、感謝するものが何もないかもしれないと思った。ほとんどの子どもたちが、肥った七面鳥か、テーブルに山と盛り上がった感謝祭のごちそうを想像して描いていた。子どもたちなりの夢だったのだろう。ところが、ダグラスが描いた絵は、先生を驚かせた。それは、子どもっぽい単純な線を使った「手」の絵だった。一体誰の「手」なんだろう? クラス全員がこの謎めいた抽象画にすっかり心を奪われた。やがて、一人の子どもがこう言った。「きっと神さまの手だよ。食べ物をその手いっぱいに持ってきてくれるんだ」「ちがうよ。きっとお百姓さんの手だよ。だって七面鳥を育ててるのはお百姓さんだもの」と別の子が言った。生徒たちは思い思いに想像をめぐらしていたが、やがて静かに自習を始めた。先生はダグラスのそばを歩み寄ると腰をかがめ、こっそり話しかけた。「ダグラス、あれは誰の手だったの?」「先生の手」と、ダグラスの消え入りそうな声が返ってきた。先生は休み時間になると、ひとりぼっちでいるダグラスの小さな手をしばしば握ってあげたことを思い出した。特別扱いしたつもりはないが、その手は彼をとても幸せな気持ちにさせたのだろう。
感謝祭とは与えられたものや好意に対して感謝する日だと思われがちですが、この記事を通してもう一つの意味を発見しました。それはどんなささやかなことでも、人に何かをさせていただけるチャンスが与えられたことに対して感謝する日でもあるのです。大きな何かをしなくても、日々の小さな親切の積み重ねが、大きな感動へと繋がっていくのです。そして、人に何かをさせていただけることこそが、本当に感謝なことなのだと気付くべきなのです。
「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈る」(ピリピ1:3)
心のオアシス 2018年7月21日
「八風吹けども動ぜず」という言葉をご存知でしょうか? この言葉の意味は、「自分を惑わす出来事に動じず、強く心の根を張ろう」です。
自分を惑わす「八風」とは、どのような風なのでしょうか?
一つ目は、「利」(り)=自分の意にかなう利益のこと。
二つ目は、「誉」(よ)=陰で名誉を受けること。
三つ目は、「称」(しょう)=目の前で称賛されること。
四つ目は、「楽」(らく)=様々な心身を喜ばすこと。
五つ目は、「衰」(すい)=意に反する損失のこと。
六つ目は、「毀」(き)=陰で不名誉を受けること。
七つ目は、「譏」(き)=目の前で中傷されること。
八つ目は、「苦」(く)=様々な心身を悩ますこと。
誰でも褒められたら嬉しいですし、けなされたら傷つきます。苦しいことだけに限らず、楽しい事、嬉しいことでも、慢心を生み、有頂天になってしまい、結果として私たちの心を動揺させるものです。このような八つの風に毎日揺すぶられながら高慢になったり、劣等感に陥ったりしながら、周りの環境に影響されながら人は生きています。新約聖書の中でパウロは、「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」と言いました。人生の八つの風に対処する方法は、自分は神の目的の為に創造された存在だということをハッキリと認識するというだと思います。そこに立ち続けるならば、何が起こっても動揺は軽減されます。
今月で、レストランIMUも、堺チャペルも1周年を迎えました。運命共同体のレストラン教会です。この一年間、牧師にも店長にも“八つの風”が吹きました。しかし、平安があるのです。何故なのかを考えてみました。するとわかりました。結局、「主は与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」「生きるも死ぬも主のため」と腹をくくると、何も恐れることはなくなるのです。私たちは、神さまに与えられた“自分”を用いてベスト尽くし、結果は神さまにお任せするのみなのです。
心のオアシス 2018年7月15日
強制収容所での生活を送った私たちには、忘れられない仲間がいる。誰もが飢えと重労働に苦しむ中で、みんなに優しい言葉をかけて歩き、ただでさえ少ないパンの一切れを身体の弱った仲間に分け与えていた人達だ。そうした人達は、ほんの少数だったにせよ、人間として最後まで持ちうる自由が何であるかを、十分私たちに示してくれたのだ。あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。
(ビクター・E・フランクル著『夜と霧 ―ドイツ強制収容所の体験記録―』より)
通常、私たちが考える“自由”とは、自分の願い通り、欲求に従って言動できることがそれだと思っている。しかし、深く突き詰めていくと、このような“自由”がまかり通る世界になってしまったら、大変なことになるということに気がついた。なぜなら、人それぞれの願いや欲求は違うからです。人を傷つけたり、殺したいと願っている人の思いが実現できる“自由”があるなら、私たちは外を出歩けなくなるでしょう。アダムとエバが、自己実現に生き始めた時から、この世に殺人、一夫多妻、争い、復讐の文化が入ってきたことが創世記に記されています。私たちに与えられている“自由”の使い方によっては、物事が円滑に進んだり、上手くいったり、問題が生じたり、混沌とした世界になっていくということでしょう。
以前にある方から「クリスチャンになると酒もタバコもできなくなって自由が制限されるから嫌だ・・・」と言われたことがあります。大酒以外の酒やタバコを禁止するような教えは聖書の中にはありませんが、私は思いました。「酒やタバコがないと生きていけないなんて可哀想だな~」なくても楽しく生きることができる“自由”に感謝しました。
イエスさまは、自分に与えられている“自由”を、神実現のために用いました。肉の欲求はありました。しかし、神の欲求に答えられたのです。そこに人類に対する救いと希望が与えられ、主ご自身も神の右の座につかれるという栄光をお受けになられたのです。ハレルヤ。
心のオアシス 2018年7月8日
アブラハム・リンカーンの略歴です。
1816年 リンカーン一家は家の立ち退きを迫られ、家族を養うために働き始める
1818年 母親死去
1831年 共同経営の店が倒産
1832年 イリノイ州議会に立候補し落選し失業
法律学校を受験し失敗
1833年 友人から借金をして新しい商売を始めるが同年中に倒産
17年かかって借金を返済する
1834年 再び州議会に立候補し当選
1835年 婚約するが相手の女性が死亡し、失意のどん底に
1836年 極度の神経衰弱に陥り半年間病床につく
1838年 州議会議長に立候補し落選
1840年 大統領選挙人に立候補し落選
1843年 連邦下院議員に立候補し落選
1846年 再び連邦下院議員に立候補し当選
ワシントンに移り、業績をあげる
1848年 連邦下院議員の再選をめざすが、落選
1849年 国有地管理局長の職を逃す
1854年 連邦上院議員指名投票で落選
1856年 共和党大会で副大統領候補としての指名を狙うが落選
1858年 連邦上院議員指名投票で再度落選
1860年 アメリカ大統領に選出される
「何かやろうと決めたら、途中でやめてはいけない、と誰でも思っている。努力することが、人生において我々に与えられた義務だからである。私はその義務を果たすようにとの神の声を聞いた。」(リンカーン)
彼の執務室の机の上には、いつも開かれた聖書が置いてありました。
心のオアシス 2018年7月1日
先日の礼拝前に、私が教会メンバーのNさんとお話しをした時、神さまが、その方の人生に深く関わっていてくださっていること知り大変感動しました。Nさんは、何年も前にした脳の手術の後遺症で、頭痛や痺れなど長年苦しんできました。そんな中、イエスさまと出会い、今から7年前、私たちの教会で洗礼を受けられました。それでも当時は、「どうして私だけが、こんな苦しみにあわなければならないの? 神さまは不公平・・・」と文句ばかりを言っていたそうです。そして自暴自棄になった時期もありました。しかし最近、こう思えるようになったそうです。「この苦しみがあったからこそ、自分は神さまに出会うことができた。もし痛みがなければ、今も神さまを無視して自分勝手な道を歩んでいたと思います。今胃の調子も悪くて近々検査をしますが、胃がんであったとしても感謝できます。」牧師としては、苦しみを取り、癒されるように毎日お祈りしていますが、癒されるまでの期間を感謝しながら歩むことができる人生は、他者にも感動を与えるのだと学ばされました。他にも闘病しながら同様に感謝しながら力強く歩んでおられる方々がいらっしゃいますが、これこそが神の存在を知る者の特権だと思わされています。
私はすべての病が必ず癒されることを信じて、希望を持って祈り続けている牧師です。その癒しをいただくまでの生き方を神さまは勿論、人々も注目しています。どのように生きるかが大切だと思いました。
フランクリン・ルーズベルト大統領のファーストレディーでアメリカ史上最も尊敬される女性として選ばれたエレノアさんは、「今、あなたが苦しく辛いのは、外的要因ではなく、あなた自身がその状況にあって苦痛と感じることを選択し、それに屈服したからです。」と語っています。辛ければ辛いし、痛ければ痛いですが、同じステージの上に立っていて、神と世を呪って生きるのか、感謝しながら生きるのかで、その人の人生は大きく変わってくるということです。そしてその人の周りへの影響も大きく違ってきます。願わくは感謝の人生でありますように。
「いつも喜び、絶えず祈れ、すべての事に感謝せよ。」(聖書)