エペソ人への手紙2章1~10節
https://www.youtube.com/live/lNOOMe4x_vI?si=TDGUsztFMyoTNM25
何ヶ月も前の話であるが、何人かの小学生たちが私のところに来て「教会のポストが蹴られて壊れたんでしょ?」と聞いてきた。私は意味がわからなかったので「そんな事実はないよ。学校にもクレームしたことないし、誰がそんなこと言ってるの?」と問うと、その現場を見ていた人が学校に通報したので全校集会の時に校長先生が注意したらしい。実際に教会に何か被害があったわけでもなかったのでそのままにしていたが、それからしばらくしてその小学校の校長先生が学校行事の予定表を持ってきてくださった時に、「そのようなことを言ってる子どもたちがいたが、どういうことだったのですか?」と問うとこんな返答であった。「あーそうではなく、私が説明したのは、教会の隣にある駐車場の柵に貼られてある政党の応援ポスターを蹴って破ってしまった子がいて、それを見ていた他の子が学校の先生に報告してきたので、それを注意したんですよ」それを聞いて驚いた。子どもたちの中で「教会」というキーワードだけが頭に入り、自動的に「ポスター」が「ポスト」に変換され、牧師が学校に文句を言ったということになっていた。
しかしこのような現象は子どもたちだけではなく、我々大人もしでかしてしまうことがある。自分の都合の良いように変換していくのである。その最たる例が「“みんな”が言っているから・・・」というワードである。本当は自分に賛同してくれる数名しかいないのに“みんな”と表現するのである。一つの言葉だけを切り取って都合の良いように解釈していくのはメディアがよく使う手法でもある。
私たちは“今”という点だけを切り取って一喜一憂しながら生きているが、神さまの壮大な計画は“点”ではなく、“線”で結ばれていくものである。自分の都合によって解釈してはいけない。現状だけを見て結論を出すのは早すぎる。もし神は私を最善に導かれることを信じているならば、その“線”が恵みの線となっていることを信じるべきである。
「ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)
エペソ人への手紙1章13~23節
https://www.youtube.com/live/FcWZrhpwhEI?si=9uHdu-muyaHxZ2YO
私たちの教会には大学生から中学生までの常連は10人ほどいる。それぞれ学年が違うので毎年受験生を抱える。本人や家族は当然ハラハラドキドキであろう。しかし牧師もかなり緊張している。「主の御心の道に進むように」と受験生にはお祈りをしているが、心情的には「本人の希望する道に進ませてあげて欲しい」というのが親心ならぬ牧師心である。
娘は大学受験で初めての挫折を経験した。第一志望が不合格となったのである。その大学は聖書信仰に土台していて、キャンパス内では学生たちが自主的に祈り会を行ない、英語での授業、就職率99%という当時の私たちにとっては理想的な教育を提供する場所であった。韓国の大学なので授業料なども安い。私にとっても娘にとっても「ここしかない!ここは主の御心の場所!」と人間的な確信を持っていた。韓国国内ではかなりの難関校であるが、外国人枠はほぼ内申だけで合否が決まる。しかし蓋を開けてみると落とされてしまった。もう日本の大学も受験期は過ぎていて、もうどこにも行く当てがなく娘は大泣きしていた。私は「“神の御心”の道に進みますように」と祈っていながら、“自分の御心”がならないことに落ち込んでいることを示され悔い改め、こう娘に言った。「ここは神さまが『違う』と閉ざしてくださったんだよ。ここよりももっとあなたに相応しい場所を用意してくださっているから神さまに信頼しようよ」その半年ほど前に、韓国の別の大学の学長が教会に来られたときに大学のパンフレットを私に渡してくださっていたのを思い出した。長い話を短くするとその学校の言語学校からスタートすることとなった。
そしてその結果はどうであったか・・・外国人寮は、9割が中国人で中国語か英語しか通じない。授業は韓国語。仕えていた教会は国際部で主に英語を使用。この環境の中で本人が望んでいた多言語の学習を日常の中で修得することができマルチリンガルになった。様々な人に対応する度胸もついた。当時仕えていた教会の長老さんから大学四年間分の奨学金が贈られ無償で学ぶことができた。娘曰く「自分の中の第一希望が落ちて良かった!」創造主を信頼するなら万事は益!道は開かれる。
エペソ人への手紙1章3~12節
https://www.youtube.com/live/7OfJR2SWauY?si=NWdyurKiE5w9CF6N
所ジョージが対談で「結婚生活の極意」みたいなことを話していた。なるほどと思わせるような内容があったのでそのまま書き出してみる。
所:「かみさんと俺は“価値観”も違うし“好きなもの”も違うし・・・」
質問者:「喧嘩とかしませんか?」
所:「皆、“自分と同じ”と思うから喧嘩するんだよ。『自分と同じように思ってよ』と思うから喧嘩になる。面白いよね。元々は全然、価値観が違うのよ、かみさんとは。よく価値観が合わなくて離婚するじゃん? 他人だもん。だって合うわけねーじゃん。『俺はこう思うんだからお前もそう思えよ』っていう結婚をしてるじゃん。そうじゃないよ。相手は違うから楽しいんじゃん。人生を二つ楽しめるんだもん。かみさんが『どこか行こうよ』と言ったときに『いや、俺はいいよ』と言っちゃうと、もう一つの人生を遊べない。『めんどくさくて行きたくねーな』と思っても行くの。そうすると・・・意外に楽しい!」
質問者:「じゃ、相手の趣味にも合わせるということですか?」
所:「合わせるというか・・・“合わせる・合わせない”“行く・行かない”じゃなくて行くの!まず!それは友達同士でもそう!『めんどくせ~』と思っても行くと面白い!」
これを聞きながら私は「信仰生活の極意」がひらめいた。もし私に対談が申し込まれたならば、「神さまに従うなんて難しいし、この世の価値観と違うので信仰をもって生きるなんて無理なんじゃないですか?」との質問に次のように答えるであろう。「“従う”“従わない”“信じる信じない”ではなくて従ってみるの!信じてみるの!まず! そしたら不思議が起こるし奇跡を見れるし道が開かれる。『難し~』って思っても信じたら人生楽しくなるよ!」
神を信じ従うとは、神実現のために生き、神の御心を問い、神が与えてくださる答えを受け留め、神に信頼して自分の願い通りではなくても神が開かれる道を進むこと。神から来るものはすべて感謝し受け入れるということ。信じれば奇跡は起こる!
ルカによる福音書24章13~20・28~32節
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私たちの教会は開拓を始めたばかりの頃から、母教会からのお客様が多い。最近ではお客様がいない日の方が珍しいほどである。当時私は学生会担当牧師で20年間、学生たちと関わってきた。その子たちが今は家庭をもち、社会的立場が与えられ活躍しておられる人もいる。中には献身者となりカルバリーグループの教会や他教団で牧師になっておられる方々もいる。私の中ではみんな“学生”のままで止まっているが成長している姿に嬉しく思う。どうしてわざわざチャペルまで足を運んでくれるのだろうか? 関西に親族がいるからとか、旅の途中にということもあるだろうが、“関り”があったということが一番大きい。私は伝道者になったばかりの頃コミュニケーション能力が低めだった。そんな私が“関わり方”を学んだのがこの学生会であった。どうにか一回り以上若い学生たちと関わるためにしたことはランチを一緒に食べることからである。何も話さずにそこにいるだけでは、ただの難しいオヤジが座っているだけで緊張感を与えてしまう。そうならないようオヤジギャグを言ってみる。たまに関西の血が目覚めてボケツッコミをするが引かれてしまう。こんなことを繰り返しているうちに彼らとの距離が縮まるようになった。(今の私のギャグはその時からの名残である)勿論真面目な学生礼拝もしたが、“関り”がなければその場だけでお終いであったであろう。
私は花園チャペルに出入する子どもたちに何かを教えるというよりも“関り”を持つことに専念している。要求されれば汗ダラダラになりながら鬼ごっこもする。超教派のミーティング場所として花園チャペルをお貸しした時に、若い牧師たちが別室で遊びに来た子どもたちと私がゲームをしている姿を見て驚き感動されていた。私にとってそれは普段の姿であるが、彼らにとっての主任牧師のイメージは違ったのかもしれない。今では登下校する子どもたちが遠くからでも声をかけてくれるようになった。感謝なことに教会メンバーの中には新規の人を見つけて声をかける方がいる。イエスさまは罪人ザアカイの家に入られ“関り”を持たれただけで彼の心に大きな変化が起こった。イエスさまに見習いたい。
ルカによる福音書23章32~35・39~43節
https://youtube.com/live/qrSRxNO9DeM?feature=share
小学生の登校時の旗振りボランティア時に様々なドラマが繰り広げられるので、その時の話題が必然的に多くなってしまうが今回も一話。
先日の2月14日バレンタインデー当日、いつものように交差点で子どもたちの横断補助をしていると後ろに誰かが忍び寄ってくるのを感じ振り向くと教会に出入している子たちが二人立っていて、その一人が「ハッピーバレンタイン!」と言って手紙を渡してくれた。嬉しくて「わ~ありがとう!」とハイテンション気味に答えると、嬉しそうな顔をしながら歩いていった。終わってからラブレター読むとこう書いてあった。「おざき先生へ いつもおかしとかくれてありがとう。お年玉とかうれしかったよ。これからも仕事がんばってね。〇〇より」短い内容であるが、その“心”に感動した。先週レプタ2枚(150円前後)を捧げた貧しい女性をイエスさまは評価なさった聖書箇所から学んだばかりだが、そのイエスさまのお気持ちが少しわかるような気がする。今年の元旦礼拝はキッズクラスはないことを子どもたちには事前に伝えてあったので誰も来ないと思っていたが、その子は一人で大人の礼拝に参加するために来た。見知らぬ大人が大勢いて緊張していたせいか帰る時には表情が硬くなっていた。「よく来たね。礼拝もちゃんと受けれたね」という気持ちを込めてクオカードの入ったお年玉を玄関で渡すとパ~っと顔が明るくなってお礼を言って帰っていった。それがよほど嬉しかったのか一ヶ月半も経過しているが、未だそのお礼を書いてくれている。
律法学者たちは宗教には熱心であったが、その動機や目的は自分が評価されるためであって本来中心にしなければならない「神」は無視した活動だった。彼らは自己満足感はあったかもしれないが、いつも何かに縛られた窮屈な生活をしていた。それが宗教の実体である。本来「クリスチャン」とは、宗教をやっている人ではない。もっと言うならばキリスト教をやっている者でもない。創造主なる神・イエスさま・聖霊さまの三位一体なる神との“心”の繋がりである。その中で、明るく元気でのびのびとした人生を生きることができるのである。