「幸福になるためには、まず成功をすること」「成功をするためには、目標を達成しなければならない」このような思考パターンに私たちは陥りがちです。これは、最終目標にたどり着いた瞬間から成功・幸福が始まり、たどり着く間は成功でもないし、幸福でもないという意味です。
 しかし、成功や幸福は、その過程すべてを含めて成功だという認識が大切です。つまり、成功に向けて歩み出した瞬間から、もう成功は始まっているわけです。そうでなければ、成功しないと幸福ではないということになってしまい、幸福を感じるころにはずいぶん年を取ってしまっているかもしれません。別の表現をすれば、自分がどのような存在かを知るだけで幸福がスタートします。なぜなら、あなたは目的を持って神によって創造されたからです。(「聖書に隠された成功法則」より引用)

 私は会堂を建てることができて喜びはあるが、個人的には会堂を建てたら牧師として成功したとか、実力があったなどとは全く思ってもいない。正直なことを言うと、私は会堂を建てたくなかった。教会は“神”によって建て上げられることを悟ってから、私の伝道者としての祈りは、「ただ神さまの計画のために、私をその道具としてのみ用いてください。すべては自己実現ではなく神実現のために用いられますように。」だった。そこに生き始めたときから、会堂がなくても幸せだったし、会衆が目の前に数名しかいなくても“神さまから送られた人たち”と考えると幸せ感が溢れるようになった。勿論それで福音を宣べ伝えることを怠ったら“怠惰な者”として神さまからお叱りを受けるであろう。
 本当の“成功”とか“幸せ”は、神さまのされたいことに自分の身を委ねていくことにあるのだと思わされている。たまたま神さまは“私”を用いて会堂を建てられた。会堂が欲しいと願っている牧師に家の教会を任せられることもあれば、諦めている牧師に会堂を建てさせられることもあり不思議です。心乱されない秘訣は、やはり“神実現”です。

マタイによる福音書10章26~33節
https://youtu.be/e1Km9E-08r4

 先週23日に花園チャペルの献堂式を迎えることができた。遠くから近くから牧師先生方や献身者、宣教師の方々、応援お祈りしてくださっていた人たちが150人お集まりになり感謝が絶えない。私自身、未だに会堂が与えられたこと自体が夢のようで、この夢はまだ覚めていないような感覚でいる。恐らくエジプトから脱出したイスラエルの民の行く手を阻んでいた紅海が水垣となって乾いた土地を歩いた時も、夢の中を歩いているような気分だったのではないかと思う。計画立てながら進んでいたら、着々と進められていることに実感が湧くと思う。しかし突然予期しないことが目の前で起こると実感は湧かないだろう。“気持ち”がついていくのに時間がかかる。ずっと借り物の教会で場所を転々として、それが私たちの教会に委ねられた神さまのご計画だと思わされていたが、今年になって自分の会堂を所有している?! 不思議でしかない。
 まだ土地を買う話題さえもなかった3年ほど前に、リビングライフの巻頭言を依頼されこう書いていた。「私たちの教会は、まだ自分たちの会堂を所有していません。財力もありません。しかし、神さまが計画されているならば、いとも簡単に会堂が与えられると信じています。主が共におられれば、小さな群れでも大きなことが起こるのです」。
 私が信じていたことは真実だったことが証明された。手持ちも能力もなくても、神さまがお集めになり、能力ある人たちを送ってくださり、事を成し遂げてくださることを確信できるようになった。主と共に歩む人生は、恵みが付いて回る。どうして神さまを抜きにして歩もうとするのだろうか? 勿体ない話である。ダビデが「わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と唄った気持ちがわかるようになった。神さまにお委ねする人生の味を知ったら、もうそこから離れられない。離れたくはない。
 花園の地がその名のごとく、主にあってのオアシスとなりますように。

マタイによる福音書9章18~26節
https://youtu.be/CkiVpwOJ98E

 花園チャペルに移転してからミラクルばかりではなく、ホッコリすることも毎週起こる。先週は建築委員会のミーティングが牧師室で行われたが、役員の一人が「私たちにミーティングする部屋があるって凄くないですか?!」と言われた。私も同感である。今まで借り物の場所では、部屋は二部屋しかなく、何をするにも他のグループなどに気を使いながらであった。他の部屋では、献堂式の記念品の包装する作業が同時に行なわれている。途中で近所の小学生が遊びに来たが追い返す必要はなくヤング&キッズの部屋でギターを弾いたりゲームをして遊んで帰っていった。会堂では午後礼拝のリハーサルが行われている。「これが私たちの求めていた教会の姿だな」とホッコリしながら、この贅沢が当たり前になったり慣れっこにならないよう気を付けなければならないと思った。
 平日にも近所の高校生や小学生が遊びに来ることがあるが、それぞれ帰るときに「教会最高!」「教会love!」とか「キリスト教会いいね!」と平気で口にする子どもたちにホッコリさせられる。彼らもホッコリしすぎてなかなか家に帰らない。皆さま口をそろえて言われるのは、「花園チャペルは教会の建物というより家にいる感じがする」とのこと。確かに居心地良くて、いつまでも居たくなる。
 沢山の小学生が教会前を通って帰宅しているが、たまにピンポンダッシュする子がいる。先日たまたまピンポンが鳴った瞬間にドアを開けると逃げていく小学生の男女が数名。逃げる姿をジッと見ていると、一人の女の子が私に気付いて、深々と頭をさげて「ごめんなさい!」と謝っている。後で防犯カメラ映像を確認すると、女の子が「押したらダメ!」その直後男の子がインターホンを押して逃げている。犯人は男の子なのに、何の言い訳もせずに女の子が謝っていたことに感動を覚えた。それ以来ピンポンダッシュはパタリ無くなった。罪無きイエスさまが十字架にかかり私たちの罪をかぶってくださった。ただただ感謝しかない。

 関西カルバリーフェローシップは、12年前の2010年6月6日に教会をスタートした。その時の週報を探してみると、「心のオアシス」に以下のように書いていた。
 今日は「奈良カルバリーフェローシップ」の誕生日です! この歴史的なスタートにお立会いくださったみなさまは幸いだと思います。大げさなことを言っているようですが、そうでもありません。世界に影響を与えるような大国であっても、また人の目には留まらないようなどんな小さな群れであっても、また有名人でも目立たない人であっても、天地宇宙を造られた神様のお許しがなければ、その存在はありえないからです。この集まりは神様の壮大な歴史の一部分を担うために誕生しました。スタートは小さくても、大きな働きです。ただ委ねて前進するのみです。
 私が与えられているビジョンは、聖書のことを知らない初心者でも安心して参加でき、何かわからないけれども元気をもらって、癒され、チャレンジを受け、希望をもって帰っていけるような心のオアシスのような場所をつくるということです。ここで力を得た人たちが今度は外でこの喜びを分かち合うことができれば最高ですね。そのことのためにシンプルなプログラムと、たとえ難解な聖書箇所でも初心者にわかりやすくお話しできるよう努力します。将来的には平日の「学び会」などを通して聖書の世界を深めていけるような会も考えています。(一部抜粋引用)
 先週の礼拝には、奈良に本部を置くある有名な宗教団体の方が来られ、「これから開拓をしていきたいので、開拓12年で立派な会堂を建てられた教会さんのノウハウを教えて欲しい」という男性が来られた。その方が言うには、その団体は、初心がなくなり組織化してしまい、不定期の“おつとめ”では、専門用語ばかりで初心者には難解なので改革したいとのことだった。礼拝の感想は、「初心者でもよく理解できました!」とお褒めの言葉をいただいた。あとは聖霊様のお働きにバトンタッチした。

マタイによる福音書8章1~10節
https://youtu.be/dho349FJjzE

 キリスト教会の中で「神に委ねなさい」と教えられることがあるが、クリスチャン中には“委ねる”ことに関して誤った理解をしている方がおられるように思う。「何もしないで、事が起こるのを待つ」とか、「この道ですよ」と天から声をかけて指示されてそれに従うとか、ただ漠然としかその意味がわからないケースも多い。これは教会で、“委ね方”を正しく教えていないことが原因だと思われる。そこで私は、“委ねる”ことを、どのようにお伝えしたら良いのかを祈り考えた。与えられた言葉は、「ベストを尽くして、結果は神さま任せ」である。私たちの側ではできるだけの努力はして、その結果は、自分の望んでいなかったものであったとしても、それを神さまからの答えとして受けとめる、ということである。それが“神に委ねる”ことであると考えている。
 以下はリック・ワーレン著「人生を導く五つの目的」からの抜粋です。
 神は、あなたが最初の一歩を踏み出すのを待っておられます。力や確信が湧いてくるまで待っていてはいけません。恐れがあっても、感情が伴わなくても、正しいことを行ない、弱さを覚えながらも前進することです。これが、聖霊の働きに協力するということです。こうしてあなたの品性は整えられていくのです。聖書は、霊的成長を種や建物や子供の成長などにたとえています。それぞれのたとえは、積極的に関わることの大切さを教えています。種は蒔かれ、そして耕される必要があり、建物は突然でき上がるのではなく、建てられなければなりません。子供たちが成長するには、よく食べて運動をしなければならないのです。努力というものは、あなたの救いとは全く関係のないものですが、霊的成長とは深い関係があります。新約聖書では少なくとも八回、私たちがキリストの似姿を目指して成長していくために「あらゆる努力をするように」と教えられています。ただ座って、事が起こるのを待っていてはいけないのです。

マタイによる福音書7章24~27節
https://youtu.be/6Wh3PrHm10w