イスラエルの民は紀元前約500年頃、バビロン捕囚から解放され神殿再建をすることが彼らの願いであった。しかし敵の妨害によって長くそれが中断されていた。エルサレムに帰還した指導者を励まし神殿再建を進めさせた時の神の言葉が「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリヤ書4:6)であった。“権勢”とは集団的な力で、“能力”とは個人的な力を表している。しかし神はそれらの力ではなく“神の霊”によって可能になることを教えられた。この言葉は14年前に開拓を始めた時に与えられたものであるが、それを握ることによって自分の能力や自分の手持ちを気にすることなく主の道具となりきることができた。当時から「会堂を建てましょう!」ではなく「神さまが必要なら直ぐにでも会堂を建ててくださるでしょう。今は借りた部屋で礼拝することを主が望んでおられますから、それに従いましょう」と話していた。そして12年目にして主は100名入る美しい会堂をお建てになった。
 9年間お借りした石切チャペルでの宣教では知恵は尽くし大人は少しずつ増えていったが小学生は全く集まらなかった。次世代がいなければ教会の将来は危ういと思い祈ると、主からの答えは「ベストを尽くし後は我に任せよ。我が霊において成す」であった。学生たちが主に立ち上がるようにお祈りしても、問題のある人や病気の人たちのためにお祈りしても返ってくる答えはいつも同じであった。主に任せそこに身を置くと不安や心配などがないわけではないが、良い意味で一喜一憂して感情に振り回されることが少なくなった。そして今、近所から子どもたちが集まり、大きな声で賛美し、主の十字架に感動するようになった。学生たちが賛美集会を企画し、また恵みの証をするようになった。これは私や他の教師たちのやり方によってではなく、私たちは以前と変わらずコンスタントにベストを尽くしてきただけである。私が分かることは「ただ神の霊によって教会が導かれている」ということである。
 私の元には毎日祈りのリクエストが入ってくる。人間的にお手上げのものばかりであるが主の霊によって何とかなると信じて祈っている。

 先日、東大阪福音教会・石切チャペルの献堂式に出席させていただいた。元々建っていた建物をリフォームされたのだが、このチャペルは私たちの教会とは深い関わりがある。私が教会開拓をスタートして二年目からこの建物を9年間お借りさせていただいた。それまでは公民館や集会所を借りて礼拝を行なってきたが、使用できなくなる度にバージョンアップしていった。午後行なっていた礼拝は奈良市内にあるカトリック教会を借りて行なうようになり、午前の礼拝は石切チャペルを使用させていただけるようになり、それぞれ教会の会堂をお借りできるようになった。当初からお貸しくださった神父さんや牧師先生には頭が下がる思いである。しかし私は「追い出される度に私たちの教会はバージョンアップしてきたので、どうぞ早目に私たちを追い出してください。そうすれば次なる飛躍があることを確信していますので・・・」と牧師先生にお伝えしていた。しかし返された言葉は「いえいえ、関西カルバリーが入ってきてから何かよどんでいた雰囲気が変わり澄み切るようになりました。ずっといてください」だった。私はそのようなお言葉に対して「関西カルバリーを祝福する者は祝福されることを確信しています!」と返答していた。
 そして献堂式に参列しながら「この石切チャペルは、やはり祝福された」と思った。しかしこれは逆のことも言える。私たちが石切チャペルから出るときに、貸していただけた9年間があるからこそ花園チャペルの建築ができるようになったということへの感謝を表すために献金させていただいた。家賃も払っていたので必要はなかったのかもしれないが、役員さんたちと話し合い、これから土地を買うためにお金が必要な私たちにとってはかなり負担になるような大きな額の捧げものをさせていただいた。何が起こったか・・・その決断をして準備した日の夜に、ある方から連絡が入った。「献金をしたいので口座番号を教えてください」そして振り込まれた額は、何と私たちが捧げた10倍であった。神さまのくすしき御業に地にひれ伏すしかなかったのを覚えている。主の働きをする者を応援する時に与えられる祝福を強く感じた瞬間だった。

  • <告知>堺チャペルの礼拝は、建物の閉鎖に伴い8月25日(日)の礼拝をもって花園チャペルに合流することになりました。
  • 2024年元旦礼拝の動画を掲載しました。YouTubeで見る
  • 関西カルバリーフェローシップの歴史の動画を公開しました。YouTubeで見る
  • 花園チャペル案内の動画を公開しました。YouTubeで見る
  • 大和カルバリーチャペルの祈祷会での小﨑師のメッセージをリンクしました。YouTubeで見る
  • 8月、9月、10月の予定掲載しました。
  • 新型コロナウィルスに対する教会の対応

 花園チャペルに通う小学生たちから驚きの発言が飛び出している。「今度の土曜日はユニバに行く止めて教会のキッズクラスに来るねん!」「今度の日曜日、〇〇へ行かなあかんねんけど、教会に来れないのが嫌やねん」「昨日の夜、教会行くのが楽しみ過ぎて寝れんかった」朝の登校時間帯の旗振りの時には「今日は教会開いてる? 学校終わったら行くで~」と声を掛けられる。それぞれ違う子どもたちからの声なのだが、何がそんなに楽しいのであろうか? 平日は私も執務があるので一緒に遊んであげられない。宿題をするためになら来ても良しとしているが、何のイベントもないのに15名近く集まることもある。会堂前には自転車置き場があるが、そこに友達の自転車を発見すると芋づる式に吸い寄せられて来るようだ。娘がいる時には解散時間のラスト10分だけ一緒にゲームをする。なかなか帰ろうとしない子どもたちに「早く帰りなさい」と追い立てる教会も珍しい。先週の午後礼拝には大人と同等の人数の子どもたちが座っていた。これらの現象を見て思うことは、これが本来“主の家”のあるべき姿だということである。
 ダビデは詩篇の中で何度も「私は永遠に主の家に住みたい!」と言った。敵が自分を襲いかかっている時にも、生活の真ん中で激しい戦いがある時にもしがみついてでも神の家に戻りたいという感情を表している。
 「神の家」とは何なのか? それは礼拝する場所のことを指している。彼はいつ何時にも神さまを礼拝することを求めた。“礼拝”の何がいいのか? なかなか理解できない人は多いと思うが、これが私たちの究極の姿なのである。詩篇やイザヤ書によると私たちは「神を賛美し礼拝するために造られた」とあるように、主を礼拝する時にこそ本当の満足が訪れるようにそのDNAに刻み込まれているのである。
 新約の時代に入り私たち自身が聖霊の住む神の宮であるというのであるが、物理的にそれを表しているのが“教会”である。今は子どもたちはただ「ここにいたい」と思っているだけかもしれないが、その魂が神を礼拝することを求めているからだということにいつか気付いて欲しい。

ピレモンへの手紙8~11・17~19節
https://www.youtube.com/live/pz2k4iYaU28?si=f3sBn3WN6OnChJja

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道の書3:11)これは14年間の開拓伝道だけではなく、私の人生を振り返ってみて総括するとこの御言葉が当てはまる。人間的に見ると山あり谷ありだったのかもしれないが私の心はいつも平坦であった。なぜなら神がついている人生は必ず良い場所に着地するようになっているからである。これは神を信じる者の強みだと思う。
 今年の8月末で堺チャペルの礼拝を終了することとなった。その建物を無償提供してくださっていた店のオーナーの体力の限界などの理由でお店を9月末で閉じることになったからである。小さな会堂ではあったがいっぱいになることもあった。近辺で場所を探すことも考えたが花園チャペルのローンの返済もあるため断念した。そこで9月から堺チャペルのメンバーが花園チャペルに合流してくださることになった。いつも道が閉ざされる度に教会はバージョンアップしてきた歴史を振り返ると、7年間の堺での働きに終止符を打つことはとても残念なことではあるが、神さまの次なる計画が明らかにされることへの期待も大きくなった。
先週の役員会でその次なる神さまの計画が明らかにされた。まだ微調整が必要なので正式な発表は8月に入ってからにするが、一石三鳥ほどの内容で、あまりにもタイミングが良すぎて私も驚いている。
 東京都知事選挙のある無党派の立候補者が「選挙を楽しんでください。これはふざけようという意味はなく、逆に一生懸命にやってみましょうという意味です」と語っているのを聞いた。私は全世界の人たちに「人生を楽しんでください!それはベストを尽くして結果は神さまに任せるということ。そしたら毎日がワクワクしますよ」と訴えたい。山があっても谷があっても、私たちのベストは尽くし結果は神さまの願っておられることに委ねるのである。そうするならば、まるで平坦な道を歩んでいるかのような気持ちになれる。
 先日、会堂祈祷前に恵先生と会話をした「この美しい会堂どうやって建てたんだっけ?」「いつの間にか神さまが建てられたよね」

コロサイ人への手紙3章18~25節・4章1~6節
https://www.youtube.com/live/aUlQfypXezc?si=qKaeljIC99fseqta

 今礼拝では「幸せの秘訣シリーズ」でお話しさせていただいている。幸せな人生を送るためにパウロはコロサイ書3章の中で「上にあるものを求め、思いなさい」と勧めている。“上にあるもの”とは一体何であろうか? それはこの地上にあるものではなく天上にあるもの・・・つまり“キリスト”ということである。
 神はアブラハムに「あなたはわたしが示す土地へ行け。そこをあなたとあなたの子孫のため永久に所有として与える」と言われ、彼はすぐに出で立った。しかし約束の土地に入っても先住民がいるので絶えずいざこざがあり家を建て定住することはできなかった。そこでテント生活をしながらあちらこちら移動しながら、まさに旅人・寄留者のように生きていた。しかしアブラハムからは何の不平も出てこない。へブル書によると彼が求めていたものは、この地上のものではなく天上のものを求めていたからだと記されている。この地上の住み心地の良い場所を願っていたのであれば、いくらでも故郷に帰ることはできたが、彼が求めていたものは天の故郷だというのである。故に導かれた場所は期待外れのような土地であったが、彼は幸せだった。
 聖歌476番「やすけさは川のごとく」を作詞したホラティオ・G・スパフォード氏は1800年代に活躍した実業家であった。ある日彼の4人の娘たちが大西洋を船で横断している時、他の船と衝突し沈没して彼の娘たちを含む200名を超える人たちが亡くなるという大惨事が起こった。彼は奥様からの電報でそれを知り、悲しみに暮れながら船で帰途についたが、丁度事故現場を通過した時にスパフォードがジッと渦巻いている波を見つめている様子を船長が目撃していた。どん底に落とされた気分であろう彼はその夜に、200年間世界中で今も歌われ続けているこの讃美歌を作詞したのである。「安けさは川のごとく 心満たす時 悲しみは波のごとく わが胸満たす時 すべて安し み神共にませば」
 上を見上げてあらゆる困難を乗り越えることができたのは彼だけではない。どの時代も主を見上げる者は勝利してきたのである。

コロサイ人への手紙3章1~15節
https://www.youtube.com/live/wUa1K1Z1HN4?si=WalAzA9fMDdeMzgZ