関西カルバリーフェローシップ(KCF)の教会分析をしていて驚いたことがある。一般的に日本の教会の男女比率は8~7(女):2~3(男)と言われている。ほぼ女性しかいない教会もあるが、何故かKCFは男性の方が多いように思える。前で音楽のご奉仕をしている方々の様子を見ても男性8、9割といった感じである。礼拝出席者の年齢層は日本では高齢化が進んでいるが、牧師の年齢前後の人たちが集まる傾向が強いので、牧師の平均年齢が70歳ということから考えると仕方がないであろう。勿論若い牧師が立つ教会では若者に特化した所もある。そういう意味ではKCFは各年齢層のバランスが良く赤ちゃんから80代までおられる。私は還暦に近い年齢であるが50代・60代が多いわけではない。 
 もう一つ不思議なことは、日曜学校には通常クリスチャンの親に連れられて来ることが多いが、KCFでは9割が近所から自発的に来ている。毎週喜んで教会へ出かける我が子を心配する親もいるようだ。
 ここまで読んだ教会関係者からは羨ましく思われるかもしれないが、自慢話をしているのではない。14年前に教会をスタートした時、会衆は1人であった。会堂もなく小さな集会室などを借りて点々としていた。12年前より生駒山の中腹にある東大阪福音教会が使用していなかった石切チャペルをお借りできるようになった。その時には口コミやHPを見て午前と午後の礼拝合わせて15名ほどの人たちが集まるようになっていたが、東大阪在住は私以外いなかった。ほとんど片道1時間以上かけて来られる距離の人たちばかりである。チラシを何千枚配っても近所から来る人はいなかった。
 私が挫折せず継続することができたのは、神の願いの為に自分が用いられることを求め努めたからだと確信している。自分の野心や願いを持たなかったし持てる状況もなかった。だからたとえ今でも会衆が一人であったとしても、神がその一人のために自分を用いておられると考えるなら受け入れることができる。もし将来本を書くことを要求されたらタイトルは「自分のビジョンを捨てよ! 神のビジョンを持て!」の予定。

ピリピ人への手紙1章12~21節
https://www.youtube.com/live/mprqqtTzcYg?si=aHqWtpZUsgSh71N5

 近所の小学生を取り上げた内容の“心のオアシス”は、とても受けが良い。それは大人に限らずキッズクラスの子どもたちの中にも読んでいる子がいて評価してくれることがある。先週一人の子が「教会のホームページの心のオアシス見たで~ 今週のはいい話やった」と私に伝えに来てくれた。小学生にも理解できるレベルで書けている安心感と、小学生にも読まれているという緊張が高まった瞬間であった。大変嬉しかったが、毎回子どもネタを書くわけにもいかない。しかし硬い内容であっても分かりやすく書くように努めなければと思った。
 現在礼拝メッセージでは、パウロが書いた獄中書簡からシリーズでお話している。福音書とはガラリと変わり、この世で生きていくための知恵が詰まっている。牧師にとっては道徳的な内容なのでどのように伝わるかが心配であったが、思いがけない人が反応してくださることもあり、聖書は全体を通して、あらゆる人の求めに応じていることがわかった。
 エペソ書の後半には「妻たるものよ」「夫たるものよ」、「子たるものよ」「父たるものよ」、「僕たるものよ」「主人たるものよ」とあらゆる人間関係について書いているが、パウロはこれらの各関係性の中に神と人との関係が秘められているのだと語る。であるから男性も女性も、どちらかが優位に立っているわけではなく、人間としては“平等”の立場であるが、それぞれの“役割”が違うのだということである。それは夫婦だけではなく親子関係、上司部下の関係も同じであることを示唆している。そしてそれぞれの立場でその役割を果たしていく、すなわちお互いに従い、敬い、仕え、愛することによって、結果的にはそれが神に従い、仕え、神を愛し敬うことに繋がっているのである。非常に深い論法である。
 「私は神には従うが、あの人には従えません」と人は考えるが、それはただ自分の気持ち次第の都合の良い宗教をやっているにすぎない。神はあなたに火の中、水の中を通されることもあれば、人間的には理不尽な扱いをされることもある。目に見える人に仕えることができなければ、目に見えない神に仕えることはできない。すべては天で明らかにされる。

エペソ人への手紙6章10~20節
https://www.youtube.com/live/4LtR2b9PYBE?si=fOzp-Q5E-NrpMLH-

 小学生の登校時の旗振りをしている時に人間観察をしていると面白い。朝からテンションが高い子、昨夜見た夢を話してくれる子、声をかけても寝起きで不機嫌な顔をしている子、旗を触って絡んでくる子、低学年なのにやたらとコミュ力がある子など様々である。高学年が低学年の子たち数名を引き連れての集団登校組もあるが、残念なのはその中の一組は、リーダーが挨拶をしない子で、私や娘がいくら「おはよう」と声をかけても、目も合わせず返答しないのである。それに見習うようにして低学年の子もスルーする。私も試行錯誤しながら挨拶させようとするがずっと失敗に終わっていた。旗振りを始めてから半年ほど経ったある日、その日も相変わらず私を無視しながらそのグループは登校していったが、その中の一年生の女の子が、大泣きしながら私が立っている交差点に戻ってきた。私がどうしたのかと尋ねると「忘れ物をしたー」というのである。そして私の前で大泣きして一歩も動かなくなってしまった。もう確実に遅刻する時間帯である。私も家まで車で送ってあげようかとも思ったが、誘拐扱いになる事案だと危惧し、持ち場を離れるわけにもいかないので、とにかく動かないその子に、「今から帰ってお母さんに学校に電話かけてもらってね。そしたら遅れても大丈夫だから。大丈夫。大丈夫。」と安心させてあげると泣き止み家の方へ歩いて行った。その日は長めに立っていたが、その子は戻ってくることはなかった。次の日、その子が私に笑顔を見せてくれた。「昨日は大丈夫だった?」すると「大丈夫だったよ」と返答してくれた。その日から私が見えなくなるまで何度も振り返って手を振ってくれるようになった。それを見ていたリーダーの子が小さな声ではあるが挨拶に応答してくれるようになったのである。 
 先日娘は仕事があって私一人で立っているとその子が近づいてきて「もう一人の人は?」と聞いてきた。「今日は仕事でいないの。おじさんも別にお仕事あるから毎日は立てないんだよ」と言うと「えー毎日いて欲しい」と言うのである。この子のためだけでも毎日立っていたいと思うほどキュンとした。私も神さまからそう思われたいと切に願った。

エペソ人への手紙5章22~33節
https://www.youtube.com/live/DxKnIrtk8KE?si=x0PBUcwzP-voFKlj

 今、私たちの教会では何か不思議な変化が起こっている。近所の小学生の何人かは、もう何ヶ月も前から弁当持参で日曜日の朝8時に教会に来て午後3時半まで入り浸っている。また一人の高校生は去年の夏キャンプで火が付き、ほとんど教会に来ていなかったのに、今では礼拝だけでなく平日の集会まですべてを最優先に加わるようになった。以前は教会に来ても挨拶は牧師にだけしてすぐに帰っていたが、積極的に人々に声をかけ日曜日は朝から夕方まで教会で仕えている。それを見た他の高校生にも伝染している。先日、元プロのドラマーから「『無料でドラム教室をしなさい』と上からの示しがあったので、させていただきたいです」と申し出があった。殺到すること必至である。どのような形にするのかは検討していくが、これも嬉しい話題であり賛美が引き上げられるキッカケにもなる。
 これらすべての現象は喜ばしいことではあるが、今までの牧会経験から危惧もしている。それはこれがただ“自分のしたいことができるから”とか“楽しいから”だけでは“神実現”ではなく“自己実現”へと走りやすくなる。またその波に乗り切れない人や年代によっても考え方や感じ方も違うので混乱を招くこともある。牧師は火を付けて回る役目もあるが、時として水をかけるという嫌われ役を果たす必要もある。なぜなら急激な覚醒は様々なリスクも伴うからである。御言葉に根差し祈り、人に仕えることができる姿勢がなければ、それは本物ではない。ある人が「目に見える人に従うことができないのに、目に見えない神さまに従うことはできない」と言ったがその通りである。悪魔の働く隙を与えてはならないのである。
 先週、一人の受洗者が与えられた。5年前に待望の第一子が妊娠8ヶ月で召されてしまった。私は「求道者にどうしてこんなことを許されたのですか?!」と神に文句を言った。しかし主は「これは神の栄光を表すため」と言われる。この方が書いた原簿に「長女を亡くしたことが信仰の強いきっかけとなる」とあった。神のなさることは計り知れない。

エペソ人への手紙5章1~4・18~21節
https://www.youtube.com/live/brnSK_G-Bb4?si=5r2aG2dxtccScf8D

 私は牧師という立場上、教会内外から様々な電話や手紙、メールなどを毎日受け取る。先日ある方から「サタンは巧妙で私たち夫婦に攻撃をしてきています。」というLINEが届いた。私は霊的な戦いには疎い方であったが、開拓を始めてから周期的にその波が襲ってくるのを感じるようになった。今では「悪魔の攻撃があるのは、神さまの恵みが流れる前兆」と考えることができるようになった。実際に幾度となく仕掛けられてきたが、その後には必ず教会はアップグレードされてきた。だからそれを感じたときにはその挑発や誘惑に乗ってはならない。ともすれば私たちが悪魔に利用されてしまうこともある。
 最近子どもたちの中に賛美をしたいという波が起こっている。先日は、学生会が中心となり賛美集会が行われた。若者たちに聖霊の火が付いたのを目の当たりにした。長い賛美の時間、しかも知らない曲も半分以上あり慣れないところもあったが、多くの参加者があり「涙が出てきた」「また行なって欲しい」という声があった。その背後にあった必死の抵抗を感じてきていたが全てサタンの敗北に終わった。
 午後礼拝で一人の証人が立った。交通事故で脳を損傷して様々な精神的疾患が出て薬漬けにされ妄想によって包丁を振り回すこともあった。しかし不思議な導きで豪州のクリスチャン薬物更生施設で毎日賛美と御言葉付けにされることによって癒され解放された。その後、受洗し帰国した夫の変化を見た奥さんが「これこそ本当の神」だと確信し受洗した。
 悪魔に勝利する方法はこれである。「悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り・・・」(エペソ6章) 
恐れる必要はない。神ご自身が戦い大勝利してくださるからである。