ヨハネによる福音書16章7・22~24・32~33節

 実業家で作家の本田晃一氏が「半径3メートル以内を幸せにする」という著書の中でこんなことを書いている。
人は、自分を喜ばせること以上に、大切な人を喜ばせることに、より深い幸せを感じるようになっているのではないかな、と思います。1万円で、自分の欲しかったものを買う。これも幸せです。だけど、同じ1万円で、大切な人を喜ばせることができたときは、もっと幸せではないでしょうか。人それぞれかもしれないけれど、僕にはどうも、人間はそんなふうに設計されているように感じられるのです。だったら、その本来の設計どおりに生きたほうが、より幸せになれるでしょう。とはいえ、自分が満たされているという前提がなければ、人を喜ばせるということに疲れてしまいます。さっきの例だって、明日のご飯にも困る状態では、いくら大切な人のためでも、1万円も使うことはできません。
(中略)
 与えたら見返りがほしい。与えたら認められたい。これは、自分が満たされていないから、思うことです。満ちていない状態で、人を幸せにしようとすると、いまだ満ちていない自分の欲求不満を、相手に思いっきりぶつけることになってしまうのです。一番の理想は、「相手を幸せにすることそのものが自分にとっての幸せであり、そのあとは、ぶっちゃけどうでもいい。見返りや承認なんて求めるまでもなく、幸せにするだけで幸せなんだよ~!」という状態です。つまり、まわりの人を幸せにすることで、何より自分が幸せになるということ。もっといえば、自分が幸せでいたいから、まわりの人を笑顔にするということです。そのためには、まず自分を満たすことが大事だし、自分が喜んでできる範囲を見極めることも欠かせないでしょう。

 著者が聖書を読んでおられるかどうかはわからないが、神の“法則”を直感的に発見されたのではないかと思わされる。私も若き時代は受けることが多かったが、年を重ねるごとに与える恵みを学ばされている。

ヨハネによる福音書15章1~11・16節

 あなたが好かれ、嫌われる割合は、以下の通りだそうです。
世界中の2割の人は、あなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。6割の人は、行動によって好き嫌いが分かれる。でも残りの2割の人は、あなたがどんなヘマをしてもあなたの事を好いてくれる。世界はそういう比率でできてるらしい。“捨てる神あれば拾う神あり”ということわざが、そのままデータ化された感じがします。
 この2:6:2の比率は他の分野でも検証結果がでているようです。例えば、どこの職場や学校にも、2割は良くできる人、4割はそこそこの人、2割は全然できない人がいるようです。できない人は必要ないのか?と思いきや、ある社長さんはこのように言っておられた。「2割の仕事ができない人がいるからこそ、2割の仕事ができる人が育っているのです。ですから仕事ができない人も2割必要なのです。」これは神さまが与えたこの世における絶妙なバランスです。だからこそ、私たちは他者と比べないで、神さまが与えてくださった“自分”を精一杯咲かせれば良いのだということです。
 「世界に一つだけの花」という歌の中に、このような歌詞がある。
   それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
   一人一人違うのにその中で 一番になりたがる? 
   そうさ 僕らも 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ
   その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
   小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから
   No.1にならなくてもいい もともと特別なОnly one
 この神の法則を知ると、もっと他者に寛容になれるし、こんな自分でも神は必要としてくださっているし愛してくださっている、という気持ちを持つことができる。他者を批判するべきではないし、自暴自棄にもなることはない。あなたがあなたである故に必要とされているということです。あなたの造られた目的は、主に従うことです。その目的のために自分自身を用いるよう心掛けていたら、どんな人も輝き出します。 

ヨハネによる福音書14章1~6・22~24・27節

 旧約聖書の知恵の書の一つである箴言11章24~25節に「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」という格言がある。誠にその通りだと思う。母教会の大和カルバリーチャペルは、“与える教会”です。最近も主任牧師が、「私たちは自分だけが潤うのではなく、他者を潤す者とならなければ、やがては廃れてしまうでしょう」というお話しをしておられたが、私もそれを実践しようと決心して、開拓初期から、そのような教会の在り方を試みてきた。 
捧げてきたことを公にすることは“自慢”とも受け取られかねないし、そのようなことを他言すべきではないと自覚はしているが、一つの祝福の証として書かせていただくことをお許しいただきたい。
 私たちの教会は、ご存知のように先月、土地購入の仮契約を済ませることができた。その土地の価格交渉の中で、短期間のうちに現金で買うのであればという条件でリーズナブルな値引きがされた。そこで教会の12年間に献げられてきた「土地&会堂指定献金」がどの位貯まっているのかを調べてみると、なんと仲介不動産に渡された手数料などもすべて含めた見積りと寸分たがわず同額となっていた。その額5400万円。これは大きな額の献金をしてくださった人も、小学生が新会堂のためにその分を捧げて欲しいと、両親からの誕生日プレゼントを辞退した小さな献金もすべて主の手の中にあることを示している数字である。どうやって貯めることができたのか? 勿論、大切な献金を無駄遣いしたことは一切ない。でも一つ心当たりがあるとするならば、他のミニストリーのために献げてきたということです。開拓を始めた数年間は、牧師へ支払う謝礼は全くなかったが、被災地や貧しい国の子どもたち、苦労している他教会、いくつかの宣教団体へ毎月捧げてきた。その結果がこれなのです。私たちは無謀になってはいけないが、神さまからの促しがあればそれは祝福へと繋がることだという認識は大切なことです。
 今年の個人的な抱負は「施し散らして富を増す!」 楽しみです。

出エジプト記14章13~14・19~20節

 元日と元旦の違いは・・・「元日」とは、1月1日、1年の最初の日のこと。「元旦」とは、元日の朝のことで、新しい年を迎えることをお祝いする日という意味があるそうです。古来より日本では年末になるとお坊さんにお経を唱えてもらう風習があり、これを俗に「釜締め(かまじめ)回り」と言い、“火の神様”に対して一年間の感謝をしてお正月には休んでいただくのだとか。だから正月には竈(かまど)を使用することができないために保存が効くような食べ物を前もって準備していたのが「おせち料理」ということだそうです。因みに年末によく「年の瀬」という言葉を耳にすると思いますが、この言葉は江戸庶民の生活からできた言葉で、「年の瀬」の“瀬”は川の瀬のことで、川が浅くなり流れが急に早くなり船で渡ることが困難な場所を指します。江戸庶民の生活は「ツケ」がほとんどでした。その「ツケ」を年末に清算しなければならないが、そうするとお金が無くなり正月を迎えられなくなる。支払いたいけど支払えないという困難さを、川の瀬にたとえて表現し、年末の慌ただしく押し詰まっている様子を「年の瀬」と言うようになったとのこと。
 関西カルバリーフェローシップは、この「年の瀬」ならぬ「神の瀬」を経験している。それは様々な崖っぷちに対して、天地万物を創造された主が、私たちの能力や限界を超えた圧倒的な力で乗り越えさせてくださっているということです。私は昨年の春ごろから何か大きな力が加わるのを感じ始め、年末にはその流れが急加速した。主は休むこともまどろむこともなく、確実に私たちをある方向へと導いておられるのを感じている。神さまが動き始められると地響きがするようです。
 ロシアで宣教しておられる先生が、その働きを担うことができる秘訣を「無力さで満ちていることだ」と言われたことに驚きを覚えた。主が喜ばれるのは、礼拝堂の大きさでも、メンバーの数でも、画期的なプログラムでもない。どんな状況でも主のことばを信じて従う無力な人だということなのです。今年はどんな壁が立ちはだかるでしょうか? しかし主にとっては何の妨げにもなりません。信頼して進みましょう!

コリント人への第二の手紙3章18節