先週、花園チャペルのフェローシップルームで小学生たちが、かき氷を作り販売した。これは夏のキャンプ費用を補うために行なった小学生アルバイト企画である。堺チャペルの小学生も親に連れられ加わってくれた。勿論大人たちの背後の援助があってこそだが、それぞれが自分の役割分担を担い協力しあっていた。ここ数年できなかったことができるようになったことと、老若男女が集まってそれぞれが楽しんでいる姿を見ること、そして新会堂の機能が発揮し始めたことが、牧師にとって何よりも嬉しいことだった。
私たちは当たり前だと思っていることが当たり前でなくなった時に、初めてすべては恵みだったのだと気づかされるものである。会堂が与えられていることも、使用させていただいていることも、“神の恵み”以外何ものでもないと思わされる昨今である。昔、杖をつきながらヨタヨタと教会に来られているおばあちゃんが、「動けなくなってから後悔しないように、歩ける間は教会へ出向くことを心がけているのです。」と言っておられたことに感銘を受けたことがある。瞬間瞬間を悔いが残らないように全てに感謝しながら歩んで行きたいと願わされる。
先日の礼拝の特別賛美の歌詞に感動した。
「恵み/Grace」。
①築いてきた我が全て 過ごしてきた過去の日も 歩んできた道のりも
当たり前でなく恵み 朝日が昇り夕暮れ 春の花と秋の実も
移り行く季節さえも 当たり前でなく恵み
※すべて恵み 恵み 恵み 主の恵み
当たり前のことなど一つもない すべてが主のみ恵み
②この地に生まれ生くこと 幼き日から今まで息をし 夢見ることも
当たり前でなく恵み 神の子として生くこと
主を拝し称えること 福音を伝えることも 当たり前でなく恵み
出エジプト記14章19~29節
https://www.youtube.com/live/3VXOeYT1DUE?feature=share
- 関西カルバリーフェローシップの歴史の動画を公開しました。YouTubeで見る
- 花園チャペル案内の動画を公開しました。YouTubeで見る
- 大和カルバリーチャペルの祈祷会での小﨑師のメッセージをリンクしました。YouTubeで見る
- 6月の予定掲載しました。
- 新型コロナウィルスに対する教会の対応(6月2日更新)
今月で関西カルバリーフェローシップの開拓は13年になる。当時の私にとって、関西での開拓伝道は未知の世界であった。24歳で東京へ出て仕事をしていたので、奈良で育ったとはいえ、知っている教会や牧師先生方はごく少数。どのようにしてここまでくることができたのかを探るために過去の「心のオアシス」を読み返してみた。11年前の6月(開拓2年目)にこのようなことを書いていた。以下に抜粋してみる。
関西での開拓は、単身赴任で、しかも子供たちは海外留学で、みんなバラバラ。人間的に計画していたこととは違うことも起こり、果たしてどうなることやら?といった心境でした。私の心を支えたのは、創世記28章に記されているヤコブがベテルという場所で経験した出来事でした。兄エサウの怒りにふれて逃げるようにして一人旅が始まりました。ヤコブは不安で満たされていました。自分がこれから行こうとするのは未知なる場所、兄から命狙われている恐怖、一人身の寂しさ、何もない荒野の旅をまっとうできるのかという心配・・・石を枕にして寝ているときに夢を見ました。一つのはしごが地の上に立っていて、天にまで達していて、神の使たちがそれを上り下りしている光景でした。そして神が彼のそばに立ってこう言われました。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」(28:15)それを見たヤコブは夢から覚めて悟りました。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」私はこの言葉にどれだけ励まされたかわかりません。そしてスタート時点から私の背中を押すかのようにして助け手を備え、救われる人たちを与え、不思議な導きばかりが起こりました。そのことを書き出すとこのスペースでは全く足りません。まことに主がおられたのです。
自分で書いた文章であるが改めて励ましを得た。開拓2年目も現在も同じように主の恵みが伴っている。そしてこれからもそれは続くのです。
出エジプト記13章17~22節
https://www.youtube.com/live/CVbqidOsy_g?feature=share
教会がキリストの体として生きている証拠の一つは、そこに繋がる人々に大きな変化があるということ。罪の中にいた人が悔い改め、落ち込んでいる人が元気になり、絶望の中にいた人が希望を見いだし、悲しんでいた人が喜べるようになると、「何がそうさせているのか?」という疑問が出てくる。確信して言えることは、神さまを求める人々に聖霊さまが触れてくださり人生を変えてくださっているということです。
私たちは神によって創造されたとありますが、与えられた存在目的は“神を礼拝する”ことです。「礼拝」という言葉を聞くと、何か儀式をすることと思われがちだが、簡単に言うと「神さま大好き!」という心の表われが「礼拝」なのです。英語では礼拝を“Worship”(ワーシップ)と言ったりするが、これは“価値あるものとみなす”という意味の古い英単語に由来しています。「神さまこそ私にとって最も価値ある存在」として、神のために生きる時に人間は正常に機能して最も安定した歩みができるように造られています。こんなことを書くと無神論者からは「自分は神を信じてないし何にも依存していない。自力で生きている」と反論が来そうであるが、どんな人にもその人を動かしている動機があります。それは富であったり、名誉、快楽、アルコール、人の手で作った神々などがそれです。一番価値があるとし、大切にしているものが「神」となっているのです。聖書は、私たちを創造した神以外を第一にすることを“偶像礼拝”と呼んでいます。車を走らせるためにはガソリンタンクにガソリンを入れなければ走らない。自分にとっては体に良いからといってオリーブオイルやゴマ油を入れたら、いずれはエンジンが壊れるでしょう。私たちも同じように、メーカーである神が造られた仕様に生きなければ必ず歪みが出てきます。
今から二千年前、イエスさまは罪の奴隷であった私たちを買い取ってくださり、信じる者に聖霊が降り人生変えられていった。Happy Pentecost.
最近、お会いしたことのない方から相談されることが多くなったが、先日は遠方のあるクリスチャンから電話があった。YouTubeで教会関係の動画を検索していく内に、私が過去に母教会で収録した「キリスト教入門講座」(KCFのHPにもURL有)がヒットして、それをご視聴くださった方だった。その動画にとても感動され感想を述べてくださると同時に所属しておられる教団の問題を訴えて嘆いておられた。その教団の総会に参加しても政治運動のことを議論するだけで、信仰的な話題は全く出てこない。逆に信仰の話をしたら白い目で見られる。教会での“お証”は、ただ毎日の生活日記のようなもの。祈りを勧められることもなければイエスさまによって、どれだけ自分の人生が変えられたかという話題は全く出てこないというのだ。リベラルな教会には、そのような実体があるのは知っていたが、救いと日々の力が欲しいと願う人たちにとっては残念なことである。他教団の悪口を言うつもりはないが、聖書セミナーで学んでいるヨハネ黙示録に出てくるサルデスやラオデキヤの教会のように、実体はあるが霊的に死んでしまっている教会のようである。
聖書(神の言葉)を握ることによって、人生の荒波に打ち勝ち乗り越えてゆける教会形成を私は目指し祈っている。なぜなら私には人の悩みを解決していけるような力も知恵もない。私の使命は、執り成しの祈りをすることと、聖書を伝えることだと思っている。
先日、中学にも高校にもまともに行かず毎日酒とタバコに明け暮れていた方が、「イエスさまを信じてから、それらを止めたいと思ったからではなく、全く欲しいと思わなくなり解放されました。」とお証しておられた。今は学生時代を取り戻すかのようにして勉強に勤しんでおられる。
私は献身してから30年以上経過するが、信仰が入ると聖霊さまが働かれ人が変わっていく様子を何度も見てきた。そしてそれが私の活力となってきた。福音を伝える時に伴う主の働きに感謝。主は素晴らしい!
「私は」「私が」「私を」と“自分”を主張しなければ生きていけないように見える世の中にあって、今礼拝で学んでいる出エジプト記の学びは大変恵まれる。私の毎週の礼拝メッセージでは必ずと言って良いほど「神実現」や「主にあって何とかなる」といった内容が出て来る。それは週の大半、不安や心配の故に自分の願いがかなえられるために一生懸命努力しているのに、一向に消えないストレスと戦っている多くの人たちのために意識的に語っている。世の中の価値観が植え付けられてしまっている人たちに聖書の価値観によって解放される世界を是非味わっていただきたいという牧師の切なる願いである。人は何らかの形で自分が主人公になりたいと願い、それが達成できると一時的な満足感はあるが、すぐに次なるオファーを求めてしまう。それが生きる活力になっていると言われるが、聖書は、主人公は“神”であって、私たちはそのお方に従う従者にしかすぎないことを教えている。そして自分のために用いている活力を神の願いが実現されるために用いるならば、私たちの全ての必要は神が添えて与えてくださるとまで書いてある。
ある書物の中に「人生は思うままにならないのが当たり前であり、それ故にありがたいのだ。人の思いというものの中には、良いものもあるが、よこしまなものもたくさんある。それがもし、人の思いのままになるとしたら、我々は安心して生きていられまい。思うままにならないからこそ、安心して暮らすことができるのだ。『あんなやつ、死んでしまえ』という思いが、そのまま実現するとしたら、誰も安心して生きていることはできません。人生が思うままにならないということは、考えようによってはありがたいことなのです。」という内容のことが書かれてあった。
創世記を読むと、アダムとエバも自分の願いを叶える人生に方向転換してからすぐに責任転嫁が始まり、殺人が起こり、一夫多妻制になり復讐の文化が形成されていった。実はこの世は“神のため”にあるのです。
出エジプト記4章9~17節
https://www.youtube.com/live/OBBBfslyP0Q?feature=share