年末に教会メンバーの方と話していると「クリスマスも会堂がいっぱいでしたし最近人が増えてきていますから、そろそろ1000人会堂を考え始めたらどうでしょうか?」と言われドキリとした。肉の私はここで落ち着きたいという思いが強いし大きな会堂建てたいという野望は一ミリも持っていない。しかし常日頃、主の道具になりたいと祈り願っている身としては、主がそうなさるのであれば、そのようになるという確信は持っている。集会室や公民館を転々としながら人も数名、手持ちも何もない開拓初期に「神さまが望まれたら会堂なんて簡単に建ちますよ」と大言壮語してきたが、その12年後に花園チャペルが建てられてしまった。その体験があるから神のなさることには畏れをなしている。現在日曜礼拝は3回行なっているが、いっぱいになれば4回する覚悟はできている。平日礼拝も行なえばいい。もうローンはできない。建築費は高騰している。私は福音を伝える気力は益々増強しているが、前回同様会堂を建てる願いは持っていない。さて神さまはこのような条件で花園チャペルをどのように導かれ、私たちを道具として用いていかれるのか楽しみである。まさに「神のなさることは、時にかなって美しい」である。
 “私は”“私が”“私の”という考え方で生きると苦しくなる。乗り越えられない壁に遭遇すると絶望する。しかし“神は”“神が”“神の”という生き方をすると本当に楽になれる。壁ができても全知全能の神さまが何とかしてくださり、大きな敵が現れても戦ってくださるのは主である。任せて安心人生とはこれである。私たちの教会では、この秘訣を会得されて「明るく、元気で、のびのび」と変えられた方々が大勢いらっしゃる。牧師にとってそのような体験談をお聞きすることは励みにもなるし次への活力にもなる。
 新しい年もリアルなキリストの愛と恵みと力を体験していただきたい。「追い求めて捜しさえすれば、神を見い出せるようにしてくださった」(使徒17章27節)とある。私たちは祈り求めるときに、最善の時に最善のことを主がなさるのである。継続して祈り続けよう!

 今年の標語聖句は「追い求めて捜しさえすれば、神を見い出せるようにしてくださった」(使徒行伝17章27節)である。
 神は目で見ることも触れることもできないが、その被造物(神が造ったもの)を見ると、その業の凄さを発見することができる。
 前人未踏の記録を積み重ね続けているドジャースの大谷翔平選手は試合会場でゴミを拾う姿が度々カメラに捉えられている。その姿を見た世界の野球ファンは大きな感動を覚えている。彼のこの謙虚な姿勢は高校時代の恩師の教育理念にその原点があるという。選手たちにゴミ拾いやトイレ掃除や靴の整理といったことを日常的に徹底させていた。「ゴミ拾いや掃除は罰ではない。それは人間力を育てるための教育だ。野球の技術よりもまず人間力を育てる。野球が上手くなる前に人として成長しなければならない。人間としての器が大きくならなければ野球は伸びない。野球が上手いだけの選手はいらない。生活と心を整えることが結果的に野球につながるのだ」という教えを生徒たちに伝えてきたという。そして大谷選手はMLB最高の選手となった今もなおその教えを実践し続けているのである。あのマイク・トラウト選手さえもその影響を受けてゴミ拾いをするようになったそうだ。
 神にとって私たちにどれだけ能力や力があり、この世で上手くやっていけるかは評価の対象ではない。聖書からわかることは、“神実現”に生きているかどうかということである。聖書によると“自己実現”は“罪”である。人は本来、神の御心に生きるように造られたのであるが、自分の考えを優先させて生きるようになったことによって大きな混乱が起こるようになった。いじめやハラスメントもそうであるが、犯罪や紛争、戦争もそうである。“自分”が中心になってから世界は堕落していった。 
 この地上でどんなに満足する生活をしていたとしても創造主から離れた人生のゴールには希望はない。今年は信仰力をアップしよう!

  • 初詣(元旦)礼拝 2026年1月元日 午前11時より(一回のみ) 花園チャペル
  • 2026年1月~3月の予定を掲載しました。
  • 2025年5月6日 大和カルバリーチャペル 大川牧師就任55周年記念聖会での小﨑淳広牧師のメッセージ動画をリンクしました。YouTubeで見る
  • 2025年元旦礼拝の動画を掲載しました。YouTubeで見る
  • 2024年9月から日曜日朝9時からのシンプル礼拝がスタートしました。(45分で終了します)※静かな礼拝を希望される方にお勧めです。
  • <告知>堺チャペルは2024年8月25日をもって、キッチンIMUの閉店に伴い花園チャペルへ合流となりました。
  • 関西カルバリーフェローシップの歴史の動画を公開しました。YouTubeで見る
  • 花園チャペル案内の動画を公開しました。YouTubeで見る

 先週ある学生が「先生の祈りが実現していますね」と言われて、何のことか聞くと、私が二年前に行なった聖書セミナーの黙示録の学びの中で、「私たちの教会の名前は“フェローシップ”と付いているが、まだ横の交わりが薄い」という話をしていたそうだ。新しい会堂が建ったばかりで遠方から来られている人たちばかりなので仕方ないとは思っていたが、教会に集うことの大きな意味の一つは、フェローシップによってお互いが仕え合うということである。泣く者と共に泣き喜ぶ者と共に喜ぶことによって祈り合い、神さまへの思いを深めることである。この二年でそのように変化していることに学生は驚きを覚えていたのである。
 「足跡」
 ある夜、わたしは夢を見た。
 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
 どの光景にも、砂の上にふたりの足跡が残されていた。
 ひとつはわたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。
 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは砂の上の
 足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。
 わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。
 「主よ。わたしがあなたに従う決心したとき、あなたはわたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されたのに、わたしの人生の一番辛い時、ひとりの足跡しかありませんでした。一番あなたを必要としたときに、何故わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
 主は囁かれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡がひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていたんだよ」
 (マーガレット・パワーズ)
 今年も一年を振り返り、与えられた恵みを数えながら感謝を捧げたい。励ましてくださった人達も神さまからの贈り物。ハレルヤ感謝します!

 ある先生が五年生の担任になった。服装が不潔でだらしなく好きになれない少年がいた。記録に少年の悪いところばかりを記入するようになった。ある時、少年の一年生からの記録が目に止まった。「朗らかで友達が好きで人にも親切。勉強もよくできる」とある。先生は他の子の記録に違いないと思った。二年生になると「母親が病気で世話をするため時々遅刻する」と書かれ、三年生では「母親の病気が悪くなり疲れていて教室で居眠りする」。三年生の後半の記録には「母親が亡くなり希望を失い悲しんでいる」。四年生になると「父は生きる意欲を失いアルコール依存症となり子どもに暴力をふるう」。心が痛んだ。ダメと決めつけていた子に対して、目が開かれた瞬間であった。放課後少年に声をかけた。「夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?わからないところは教えてあげるから」少年は初めて笑顔を見せた。それから毎日、予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。
 クリスマスの午後、少年が小さな包みを渡した。開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。「あっ、お母さんの匂い!」と叫んだ。六年生では先生は少年の担任ではなくなった。卒業の時、少年から一枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。救われました」。それから六年後、またカードが届いた。「明日は高校の卒業式です。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」。十年を経て、またカードがきた。そこには先生への感謝と父親に叩かれた体験があるから患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていた。「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。あのままダメになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます」。
 そして一年後。結婚式の招待状が届いた。「母の席に座ってください」と書き添えられていた。
 「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」(イエス)

 先週の日曜日は、私が教会開拓を始めてから初めて伝道師以外の人に講壇をお譲りした。私は遠方から時間と交通費をかけて花園チャペルに来られる方々もいる中で、その人たちにマズい食事をお出しするのは申し訳ないし失礼だという思いがいつもあり、良い心のゴハンを提供したいがために“聖書”という最高の食材から祈りつつ手間暇かけてメッセージの仕込みをしている。日曜日は三回の礼拝があるので、外部の先生方にはお頼みしにくいということもあって自分が責任を取る気持ちで語り続けてきた。今回元阪神タイガース選手であるマットマートンさんにお頼みするにあたって彼の動画など確認して、非常に良い福音的メッセージを語っておられるのでお願いした次第である。彼は牧師ではないが整えられた礼拝メッセージをしてくださった。驚いたことは、私のライフメッセージを語られたということだ。「ベストを尽くして、結果は神に委ねる」。マートンさんは野球選手としてあらゆるプレッシャーやストレスを感じながらその任務を全うしてこられたが、その秘訣はまさにそこにあった。自分にフォーカスすると必ず崩れてしまうが、神にフォーカスするとあらゆる困難を乗り越えていけるというのである。
 私たちはこの地上の出来事や内側に起こる様々な問題に一喜一憂するべきではない。なぜならすべてのことは神の想定内であり、これからの未来も神は知っておられ神の最善と私たちにとって万事益になるレールを敷いていってくださっているからである。主に対する絶対的な信頼を持つならば何が起こっても大丈夫。神は下手なことは決してなさらない。
 私たちは元々神により創造され神に属するものであった。しかし自分勝手に生き始めた私たちは「罪の支払う報酬は死」の神の法則からいうならば永遠の死“地獄”行きが決定している。どうしても愛なる神はそれだけは阻止したいが故に、肉体をとって地上に来て罪なき聖いお方が私たちの罪の代価を身代わりに死んで支払ってくださった。私達は神に帰るだけで神の家族に戻してくださる道を造ってくださった。これが福音である。信仰は何も難しいものではない。神に帰り繋がるだけである。

 人は、みんな現実において喜びの多い生涯を願い安楽な生活を志向している。「苦しみや悩みを、取り除いてくれる神」というのは、ただ人間が、そういうものを求める故にそのような人間にとって便利な神を作っただけであって、実際には、神を信じていても信じていなくても、またいかなる宗教を信じる人にも、本人の自業自得では片付けられないような無情な出来事は起こり得るものである。   
 新約聖書13の書簡を書いたパウロは「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。聖書が教える神概念は、神が人間を母親の胎の中で形造り、神の願いや計画を進めるために人の存在があることを示している。だから私たちの願いを実現するために決断して進んでいっても最終的には神の願いが叶っていくという。神は“私たちの都合”通りに働いてくださるのではなく“神の都合”で働いておられるお方である。「神のご勝手の神学」について友人牧師が話しているが、ある意味その通りだと思う。神はご勝手なのだが、その“ご勝手”は私たちにとっての最善のために発動しておられるのである。  
 どんなに可愛い子であっても、ナイフを貸して欲しいと要求する幼児にその通り応える親はいない。その子供にとって、今は与えられないことが必要なことだから。私たちに求められていることは、「神は私たちに下手なことは絶対にされない」という神への信頼である。
 アメリカにヤングという名投手がいた。ある時のインタビューで「どうして、あなたはそんなに三振を取る事ができるのですか?」と問われると彼は「投げる時は一生懸命投げ、手からボールが離れたら、後はバッター任せだ」と答えた。自分が与えられている使命に全力投球して、その後の結果は、バッターが打っても空振りでも、相手次第ということ。 
 本日礼拝で語ってくださる元阪神タイガースのマット・マートン氏は、かつてのヒーローインタビューで、「神は私の力です!毎度おおきに!」と日本語で話された。自分の力で生きていると思っていても、実はその背後に神の御手があることを信じる。それこそが平安の秘訣である。

 先週の礼拝では、カルバリーチャペル・ホノルルの音楽担当の副牧師ルーベン・バーク先生が特別賛美をしてくださった。歌の最中に感極まって一部歌えなくなってしまったが、日本語を理解することができないにも関わらずメッセージ中にも時々目頭を押さえておられた。後で本人から話を聞くと「メッセージの内容は理解できなかったけれど、聖霊さまの臨在を感じて涙が出て仕方がなかった」というのである。
 人間には3つのタンクがあって、一つは肉の欲求を満たすためのもの。もう一つは精神的な必要を満たすため。そしてもう一つは霊的に満たすためのものである。肉は飲食やスポーツなどで満たされる。精神は趣味やリラックスすることによって満たされる。しかし霊のタンクは、この世のものでは満たすことはできない。神の霊によってでしか満タンにはならないのである。頭で理解できなくても霊の部分が満たされ共鳴すると満足感が得られ、ある人は感謝と喜びが溢れ、ある人は何故か涙が出るという現象が起こる。何も感じなくても問題ない。私がよくアドバイスする内容の中に「もし神さまを知らない家族や友人が危篤状況になったら、本人の意識はなかったとしても耳元で福音を伝えてください。お祈りしてください。」というのがある。それは肉的、精神的に機能していなくても霊の部分は機能しているからである。虫の息状態の方の耳元でお祈りしたり賛美すると、心電図が反応するのを何度も見てきている。
 ということから考えると、たとえ礼拝メッセージを理解できなかったとしても、また極端なことを言うと寝落ちしてしまったとしても、神の霊はその人の中に豊かに注がれていることを確信している。頭で理解することも必要ではあるが、理解できなかったとしても神を求める心があれば聖霊はあなたを満たしてくださるのである。
今日からアドベント(キリストの誕生を待ち望む期間)が始まるが、すべての人の肉や精神的な部分だけではなく、“霊”の部分が“神の霊”によって満たされるよう祈っている。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」(詩篇127篇2節)。

 あるリサーチの結果として出ていることは、どこの国の人でも共通した4つの悩みがあるという。それは「空白感」「孤独感」「罪悪感」「死に対する恐怖」。そして人はそれらの悩みを解消するために善行、哲学、宗教、仕事、財産、名誉、学歴、地位など求めて生きている。肉や精神的な部分は一時的に満たされているように思えるが解決にはいたらない。実は“霊”の部分が満たされていないことが原因なのである。
 本日洗礼を受けられるお方は、元気だった愛する息子さんを2ヶ月ほど前に突然失い絶望の中におられた。この地上だけのレベルで現実を見ると「神も仏もいるものか!」と何かに当たりながら歩んでも仕方がないと思われる。しかし神の側から立って観たときに“永遠”にある希望を見い出された。人はいつか必ず死ぬようになっている。死亡率100%である。どのような形で、また順番も誰にもわからない。しかし神は私たちを造られ“霊”の部分は永遠に存在するようにされた。重要なことはこの世でどれだけ満たされて生きることができたかとか長生きしたかではない。聖書は“永遠”の場所の行き場所を間違えたら、そちらの方が大問題であることを教えている。私たちの永遠は二箇所あるという。一つは“永遠のいのち”であり、もう一つは“永遠の死”。突然召された息子さんはクリスチャンである妹さんとの最後の会話の中で、十字架の意味を質問され福音を伝えたという。霊において応答されて“永遠のいのち”すなわち天国に入れられたことを確信している。悲しみの淵にいたお母さまは再会できる希望を、神の視点から見出されたのである。
 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:1~3)
 人の死さえも神の栄光をあらわすために用いられている。今日は天国おいて召された息子さんと共に大きな歓声が起こっていることだろう。

 11月の関西カルバリーのプレイズの中に夢見人(ドリーマー)という賛美がある。歌詞の中に「悲しみや痛みをかかえては 何かをあきらめてたけど 主の真実が 主のあわれみが 今 私を変えてゆく」というくだりがある。先日の学生会のオリジナル賛美「みんなの明日が」の歌詞には「悲しみが笑いに勝るように 患難さえも喜びたい」とあった。YouTubeを含めて、礼拝に来られている方々の中には悲しみや痛みをかかえておられる人たちもいらっしゃる。そんな人たちにこの歌詞は大きな励ましになったと考えているし、メッセージの中でも何らかの形で意識的に励ましを入れるようにしている。「患難さえも喜びたい」という部分は受け入れがたい人たちもいるかもしれないが、主の真実とあわれみが、そうできるようさせてくださるのである。
 今ローマ書から連続講解しているが、著者のパウロの焦点もまさにそこにある。彼は「患難さえも喜んでいます」(ローマ5:3)と書いている。神は偶像崇拝者であったアブラハムを“品種改良”され、創造主なる神を信じるようになった。そこから増え広がっていったのがイスラエル民族であるが時代の中で神から離れ、パウロの時代にはキリストを十字架につけクリスチャンに対して激しい迫害をするようになった。現実はマイナスしか見えないがパウロはそれさえも喜ぶことができた。彼が預言的に語っている希望の未来は「イスラエルがキリストを拒否したことによって、福音は異邦人に伝えられるようになった。それによって異邦人に福音が宣べ伝えられ救われていく様子を見て、今度は同胞であるイスラエルが奮起して受け入れるようになる」(ローマ11:11)ということである。これは今は諦めたくなるような悲しみや痛みがあっても、神は水面下で着々と明るい未来を進めておられるという揺るがない信頼に立った言葉である。「主は良いお方で必ず私たちにとって最善をしてくださる」と信じる人は、どんなマイナスをも喜ぶことができるようになるのである。
 「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」(ローマ11:33)私たちはただ主に信頼し繋がるのみ!