世界で一番長く続いている国はどこだか知っておられるだろうか? 当時世界最強の経済力や軍事力を誇っていたローマ帝国は西暦1453年にトルコに征服されるまで約2200年続いた。「中国、四千年の歴史」と言われるが、実際には王朝自体は何度も変わっている。古代エジプトも同様である。確かに文明や文化は残しているが、国としてはそんなに長くは続いていない。実はギネス基準でいくならば“日本”なのだそうだ。
神武天皇が即位したBC660年1月1日(旧暦)を建国日とされていて以来約2700年にわたり、皇統で王権(王朝)をつないできた世界唯一の単一王朝国家だといわれている。ただこれは伝承による部分もあり、実質の建国は古墳時代(6世紀頃)と考えられてもいて、そうだとしても、1400年以上も続く日本は、“現存”する中で世界最古の国なのだそうだ。因みに二位がデンマークで三位のイギリスはまだ千年まで届いていない。長く続いている大きな理由の一つは周りが海で囲まれた島国で、なかなか外敵からの侵略がされにくかったということらしい。
しかし千年以上続いていて現存している国が3ヵ国ほどしかないこと考える時に、他の国々は数百年の間に滅んでいるということなのである。現代においてもリアルに大国によって侵略を受けている国があることを考えると、これから数百年後の世界地図も大きく変化しているであろう。日本はいつまでも存続できると高をくくるのは大きな間違いである。
神政政治(神が治められる)であったイスラエルは、紀元前千年ごろに周りの国々のように王が欲しいと求めたことによって王政となった。しかし王が自己実現に走ってしまった結果、五百年ももたずに国を失ってしまった。人間中心の社会は例外なく繁栄と衰退を繰り返している。これは天地万物の神の手の中で転がされているだけなのである。
私たちが早く気付かなければならないことは、創造主なる神に統治されなければ、有能なリーダーが立っても国も社会も会社も続かないということだ。私たち個人も同じことである。自分ファーストは必ず衰退する。それは歴史が証明している。神の願いを願いとする者でありたい。
「このようなことが起こるなんて神も仏もあるものか!」と文句を言う人たちがいる。恐らくどこに当たったら良いのかわからない感情をそのような形でぶつけているのであろう。確かにこの世には人間の頭で理解できないような不条理が起こることもある。だからといって神がいないとは断言できない。なぜなら私たちの考える都合の良い神がいないだけであって、私たちの理解や都合を超えた神はいる可能性は否定できないからである。
現在礼拝ではヨハネによる福音書から順番に講解メッセージしているが、著者ヨハネの焦点が明らかになりつつある。それは地上での“しるし(Sign)”は霊的世界の一部の表れであるということ。人々は自分たちの満足のために奇跡や不思議を求めていたが、イエスさまは彼らの思い通りの答えを出されず、それ以上の祝福について語られた。
教会で「祝福」という言葉をよく使うが、これは一体何を示しているのだろうか? 一般的にはお金が増えるとか、人間関係が良好であることや職場や学び舎で成功することがそれに該当する。しかしこれは日本をはじめ経済成長している一部の国しか適用できない。世界に視野を向けると10人に1人が飢餓で苦しみ、3人に1人が毎日食事を食べることができない状況である。仕事や勉強することさえできない環境に置かれている人たちには祝福はないのか? 残念ながら聖書時代のユダヤ人はそれを“呪い”だと判断していた。
聖書的祝福とは「人間に対して神が一方的な愛を注ぐ」ことであり、「神が共におられる(インマヌエル)」ことである。一般的な「願いを叶えてもらう」とか「世的に満たされている」という一方的なものではなく、神が共におられて、神の愛によって最善の人生へと導かれるという確信こそが神に繋がる者が持つべき“祝福”観なのである。
経済が潤い住む家があり食べることができ癒され健康になれば感謝すればいい。しかしそうでなかったとしても神が共におられることに感謝を捧げる者でありたい。それこそが本当に祝福された人の人生である。
先日ある場所でメッセージのご奉仕をさせていただいて感謝ではあったが、神のお叱りを受けてしまった。集会終了後にそこにいた方々と雑談している時に、ある方から「また来ていただけますか?」と質問された。通常は「はい、喜んで」と言うべきところであるが、私の肉の思いが勝ってしまい「ちょっと距離があるので・・・」としぶってしまった。帰宅してから落ち着かない気持ちになり心の中に響いてくる声があった。「あなたは『神実現』とか、『主の道具になり切りたい』」とメッセージしているのに、距離があるから行きたくない? 神実現なら神の願いがなることを願うことだろう? 神の道具になるということは、神が使われるならそこにいなければならないということだろう? 道具が何を言っている? それは自己実現ではないか」とかなり厳しく責められた。私は深く反省して「今日は用いてくださり感謝します。せっかく次回のお誘いをいただいたのに、否定的な返答をしてしまい神さまからお叱りを受けました。どうぞ私の高慢な態度を許してください。もし用いてくださるなら喜んでご奉仕させていただきます。」と関係者にラインした。
牧師はメッセージする前に、まず自分が料理されなければならない。時として自分にはできていないことも、主からのメッセージとして会衆だけではなく自分に向けてもメッセージする必要がある。牧師も肉を着ているだけの一人の人間であり、神でも聖人でもない。日々様々な葛藤もあれば問題も起こる。神実現と自己実現の戦いの中にいる。
これは神が「与える」と言われたカナンの土地に入った後のイスラエルの民と同じである。彼らは約束の土地に入ることはできたが、原住民がいたために一歩の土地さえ与えられていなかった。絶えず様々な葛藤をしながら戦いながら自分たちの領土を拡大しなければならなかったのである。これは神を信じる者のこの地上での生き方を示している。へブル書にはアブラハムはこの地上ではなく天にある故郷を見ながら生きていたとある。彼にとっての約束の地はカナンではなく天であった。この地上は天に入るまでの予備校である。そうやって信仰は強められる。
「生きているということは」
生きている ということは 誰かに借りをつくること
生きていく ということは その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら 誰かに返そう
誰かに そうして貰ったように 誰かに そうしてあげよう
生きていく ということは 誰かと手をつなぐこと
つないだ手のぬくもりを 忘れないで いること
めぐり逢い愛しあい やがて別れの日
その時に悔やまないように 今日を明日を生きよう
人は一人では 生きてゆけない
誰も一人では 歩いてゆけない
生きている ということは 誰かに借りをつくること
生きていく ということは その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら 誰かに返そう
誰かに そうして貰ったように 誰かに そうしてあげよう
誰かに そうしてあげよう 誰かに そうしてあげよう
作:永六輔(放送作家)
誰かが言っていた。「自分が生かされているのは、誰かに借りを返すため。最大の誰かは『イエス・キリスト』。その愛の負債を返すため。まだ返し切れていないから、神さまが生かしておいて下さるのだろう」と。私たちの裏切りに対してキリストは私たちを生かす為どれほど支払ってくださっただろう?
今日は二十歳祝福式。親やお世話になった方々、そしてイエスさまに愛の借金を返済していく人生でありますように。
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私の元には毎週のようにして内外から体験談を受け取り私自身が主の業に感動している。先週も教会メンバーの一人からお手紙をいただいた。
「私事ですが12月半ばに血液検査の結果、橋本病=甲状腺機能低下症という中高年女性が割とかかる病気ですが、私もそうだということでエコーを撮ることになりました。そのエコーの映像に甲状腺の近くに白い何かがあり、これが何であるかを専門医に診てもらった方が良いということで、ドクターが紹介状を書いてくださり診察日予約までしてくださいました。その予約日が1月5日月曜でした。年末年始何かと慌ただしく過ぎて行き1月4日礼拝を迎え、聖餐式の後、小崎先生が癒しの宣言を力強くしてくださり『アーメン』と答えたら『癒されるのでは・・・』という思いが与えられました。礼拝では最初から涙があふれてきて神さまの迫りが豊かにあったのだと感じています。主の御名を崇めました。そして5日に大きな病院の専門医に診ていただきエコーの結果を一緒に見せてくださり『何も無くきれいですよ』と言われました。橋本病の経過観察はこれからも必要ですが、心配されたものは全く消えていました。やはり昨日癒してくださったのだと感じて感謝を捧げました。(中略)この世に執着するものも、もうありませんし、天に入れていただけるならそれも感謝だと考えていました。でもまだ命が与えられるなら小崎先生がいつも語られるように主の尊い御愛にいかに応答していくのか、救われない人々の為に祈り続け、イエスさまの素晴らしさを伝えていく者でありたいと今は思っています。栄光のすべては主のものです!」
今年の礼拝からヨハネ福音書から学び始めたが、著者ヨハネが書いた目的は「イエスがメシヤ(救い主)であることを表す」ということである。イエスさまが行なわれた癒しや不思議は“しるし”(サイン)と記されていて、重要なことはそれらのサインを通してイエスさまは救い主であり、今も生きて働いておられることを知ることである。現代においてもサインは励ましになる。今年もあらゆるサインを見させていただいて、主に対する信仰を強く持ち続けるものでありたい。栄光在主!
先週は年始に久々に教会に来た中学生が何人かいた。彼らは小学生の時に教会に来ていた子たちであるが、中学に上がってからは日曜日のクラブ活動の故に教会に来られなくなっていた。クラブ活動はするべきだと思うが、神さまに顔を向けさせないようにする障壁にもなっている。
先週の洗礼準備会で使用している小冊子の学びの中で「主日礼拝を大切にする」というのがあった。これをいい加減にしたために取り返しのつかない道へ進んでしまった人たちもいる。シュバイツアーは両親の真剣な礼拝に対する姿勢を通して“敬虔”を学んだと言われているが、子どもに残してあげる最大の遺産は「神を畏れ、敬う」ことで、それを身をもって示すことが大切なことである。二千年前に教会が設立されてからずっと忠実に礼拝を守り続けてきた先人たちの存在が教会存続を可能にし、次世代へまた私たちの時代に至るまで信仰が継承されてきた証にもなっている。そして“今”の私たちの姿が次世代に影響を与えていくのである。私たちの教会に来ている子どもたちは、お兄さんお姉さんお母さんお父さん的立場の人たちが奉仕をしている姿を見て、楽器を始めるようになった子や受付をしてくれる子が出てきた。私たちの生き方が後の時代に大きな影響を与えことを考えると襟が正される思いである。
渡辺和子さんの著書「置かれた場所で咲きなさい。」にこう書かれている。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。結婚しても、就職しても、子育てをしても、『こんなはずじゃなかった』と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で『咲く』努力をしてほしいのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。」
置かれた場所で咲くことは歴史にも大きな変化を与える力がある。
年末に教会メンバーの方と話していると「クリスマスも会堂がいっぱいでしたし最近人が増えてきていますから、そろそろ1000人会堂を考え始めたらどうでしょうか?」と言われドキリとした。肉の私はここで落ち着きたいという思いが強いし大きな会堂建てたいという野望は一ミリも持っていない。しかし常日頃、主の道具になりたいと祈り願っている身としては、主がそうなさるのであれば、そのようになるという確信は持っている。集会室や公民館を転々としながら人も数名、手持ちも何もない開拓初期に「神さまが望まれたら会堂なんて簡単に建ちますよ」と大言壮語してきたが、その12年後に花園チャペルが建てられてしまった。その体験があるから神のなさることには畏れをなしている。現在日曜礼拝は3回行なっているが、いっぱいになれば4回する覚悟はできている。平日礼拝も行なえばいい。もうローンはできない。建築費は高騰している。私は福音を伝える気力は益々増強しているが、前回同様会堂を建てる願いは持っていない。さて神さまはこのような条件で花園チャペルをどのように導かれ、私たちを道具として用いていかれるのか楽しみである。まさに「神のなさることは、時にかなって美しい」である。
“私は”“私が”“私の”という考え方で生きると苦しくなる。乗り越えられない壁に遭遇すると絶望する。しかし“神は”“神が”“神の”という生き方をすると本当に楽になれる。壁ができても全知全能の神さまが何とかしてくださり、大きな敵が現れても戦ってくださるのは主である。任せて安心人生とはこれである。私たちの教会では、この秘訣を会得されて「明るく、元気で、のびのび」と変えられた方々が大勢いらっしゃる。牧師にとってそのような体験談をお聞きすることは励みにもなるし次への活力にもなる。
新しい年もリアルなキリストの愛と恵みと力を体験していただきたい。「追い求めて捜しさえすれば、神を見い出せるようにしてくださった」(使徒17章27節)とある。私たちは祈り求めるときに、最善の時に最善のことを主がなさるのである。継続して祈り続けよう!
今年の標語聖句は「追い求めて捜しさえすれば、神を見い出せるようにしてくださった」(使徒行伝17章27節)である。
神は目で見ることも触れることもできないが、その被造物(神が造ったもの)を見ると、その業の凄さを発見することができる。
前人未踏の記録を積み重ね続けているドジャースの大谷翔平選手は試合会場でゴミを拾う姿が度々カメラに捉えられている。その姿を見た世界の野球ファンは大きな感動を覚えている。彼のこの謙虚な姿勢は高校時代の恩師の教育理念にその原点があるという。選手たちにゴミ拾いやトイレ掃除や靴の整理といったことを日常的に徹底させていた。「ゴミ拾いや掃除は罰ではない。それは人間力を育てるための教育だ。野球の技術よりもまず人間力を育てる。野球が上手くなる前に人として成長しなければならない。人間としての器が大きくならなければ野球は伸びない。野球が上手いだけの選手はいらない。生活と心を整えることが結果的に野球につながるのだ」という教えを生徒たちに伝えてきたという。そして大谷選手はMLB最高の選手となった今もなおその教えを実践し続けているのである。あのマイク・トラウト選手さえもその影響を受けてゴミ拾いをするようになったそうだ。
神にとって私たちにどれだけ能力や力があり、この世で上手くやっていけるかは評価の対象ではない。聖書からわかることは、“神実現”に生きているかどうかということである。聖書によると“自己実現”は“罪”である。人は本来、神の御心に生きるように造られたのであるが、自分の考えを優先させて生きるようになったことによって大きな混乱が起こるようになった。いじめやハラスメントもそうであるが、犯罪や紛争、戦争もそうである。“自分”が中心になってから世界は堕落していった。
この地上でどんなに満足する生活をしていたとしても創造主から離れた人生のゴールには希望はない。今年は信仰力をアップしよう!
先週ある学生が「先生の祈りが実現していますね」と言われて、何のことか聞くと、私が二年前に行なった聖書セミナーの黙示録の学びの中で、「私たちの教会の名前は“フェローシップ”と付いているが、まだ横の交わりが薄い」という話をしていたそうだ。新しい会堂が建ったばかりで遠方から来られている人たちばかりなので仕方ないとは思っていたが、教会に集うことの大きな意味の一つは、フェローシップによってお互いが仕え合うということである。泣く者と共に泣き喜ぶ者と共に喜ぶことによって祈り合い、神さまへの思いを深めることである。この二年でそのように変化していることに学生は驚きを覚えていたのである。
「足跡」
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりの足跡が残されていた。
ひとつはわたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは砂の上の
足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。
わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。
「主よ。わたしがあなたに従う決心したとき、あなたはわたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されたのに、わたしの人生の一番辛い時、ひとりの足跡しかありませんでした。一番あなたを必要としたときに、何故わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は囁かれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡がひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていたんだよ」
(マーガレット・パワーズ)
今年も一年を振り返り、与えられた恵みを数えながら感謝を捧げたい。励ましてくださった人達も神さまからの贈り物。ハレルヤ感謝します!
