• 2026年7月~6月の予定を掲載しました。
  • 2026年5月5日 大和カルバリーチャペル 監督牧師・主任牧師就任記念聖会での小﨑淳広牧師のメッセージ動画をリンクしました。YouTubeで見る
  • 2026年元旦礼拝の動画を掲載しました。YouTubeで見る
  • 2024年9月から日曜日朝9時からのシンプル礼拝がスタートしました。(45分で終了します)※静かな礼拝を希望される方にお勧めです。
  • <告知>堺チャペルは2024年8月25日をもって、キッチンIMUの閉店に伴い花園チャペルへ合流となりました。
  • 関西カルバリーフェローシップの歴史の動画を公開しました。YouTubeで見る
  • 花園チャペル案内の動画を公開しました。YouTubeで見る

 親が子どもには栄養バランスの摂れた食事を心がけるように、牧師もメッセージを聴く人たちの心の健康を配慮しながら語るものである。私の拘りは野菜とお肉を食べやすい味付けで提供するように、聖書の旧約と新約をブレンドしながら分かりやすく、かつ人生のプラスになるよう語ることを心掛けてはいる。その甲斐あってか良い評価をしてくださる方々が増えてきて励まされている。メッセージが「立体的」「3D」だと言われることも多く、何がそう感じさせているのかを分析してみた。まず新約聖書と旧約聖書を別物とするのではなく、新約はキリストの実体だとするならば、旧約はキリストの影として、その繋がりを御言葉から新旧一体型で説明し、それを人生論的にお話しする。連続講解してそれぞれの書を全体的に理解できるようにしてきた。先日も「民数記など難解で読む気もなかったけれど、こんなに楽しく、すべてがイエスさまに繋がっていることに驚きを覚え、神の愛をリアルに感じることができるようになりました」という言葉をいただくと励まされ次への活力になる。
 牧師にとっての一番の喜びは、人の人生がキリストの愛に触れられて変えられて、救われハッピーライフを送ることができるようになることである。もしイエスさまを信じてからも、恐れや心配ばかりで平安がないならば、それは健全な神を信じる者の歩みをしていない証拠である。ヨハネ福音書8章32節には「真理はあなたたちを自由にする」とある。これは人間を縛り付けている罪、死の恐怖、人生の空しさから解放され、人間の本来神から与えられた目的と使命に生きることを指している。自分が好き勝手にすることが本当の「自由」ではない。それは最終的には私たちをがんじがらめに縛り付けてしまう罪である。
 民数記にはイスラエルの民の姿が描かれている。エジプトで奴隷となっていたが、そこから解放され神と共に歩むことによって自由となったが、神から離れることによって疫病が蔓延しエジプトの束縛の中に帰りたいという始末であった。人生には信仰のテストはあるが、御言葉と祈りによってパスすることによって次のステージへと上がることができる。

 “信仰”と“知恵”のバランスとは「信じる力」と「道理を見極める力」の調和だと考えることができる。信仰は心を支える軸となる一方、知恵は現実世界での適切な判断や応用をもたらす。両者が補完し合うことによって盲信や独断を避け、より豊かで調和のとれた生き方が可能になるものである。信仰だけに偏ると特定の思想や神学などを常軌を逸したレベルで盲信し、熱狂的になってしまうことがある。そうなると冷静な判断力や客観的な視点を欠いて周囲も見えなくなる傾向がある。イエスさまもルカ14章の中で、家を建てようとする際に費用を計算せずに無謀に工事を始めてしまい途中で行き詰って笑いものになる愚かさを教えておられる。しかし知恵や知識や経験だけに偏ると、不足や限界を感じたときに希望を見い出すことができなくなる。
 今礼拝で学んでいる民数記にはイスラエルの民が神が約束されている土地を目の前にして12人の偵察を送ったことが記されている。現地を実際に見た人たちの10人は「非常に良い土地ですが、そこに住んでいる人たちは強そうで太刀打ちできませんから止めましょう」と言って過酷な労役と重税に苦しんでいたエジプトに帰ることを求めた。これは知恵が優先されている人たちの姿である。しかし残る2人は「我々はあの土地に入ることができます!」と宣言した。それは神が願われ共におられたら大丈夫という信仰からくるものであった。その後エジプトに帰ろうと言っていた人たちは、目の前にある状況だけで判断して「やはりカナンの土地に入りましょう」と原住民との戦いにいどんだが惨敗であった。
 この両者の違いは何であったのだろうか? それは信仰と知恵のバランスの違いだと考えることができる。神の存在を無視した知恵・知識は場当たり的になり、計算上乗り越えられないと判断すると行き詰ってしまう。しかし私たちの人生に「神は生きておられ、私の人生を最善に導いてくださる」という信仰がブレンドされれば、想定外の脱出の道と光が与えられるものである。“信仰”と“知恵知識”のバランスは崩れやすい。そうならないよう神の言葉である聖書に立って祈りつつ歩みたい。

 ペンテコステ(聖霊降臨日)は、世界中でキリスト教会の誕生を記念する重要な日とされている。イエス・キリストが十字架にかけられ、死から復活した(イースター)後、天に昇られてから10日目に、祈りを捧げていた弟子たちの上に神さまからの“聖霊”が下ったことを毎年祝っている。聖書(使徒行伝)にはその時の様子が描かれていて、激しい風のような音が響き天から炎のような形をしたものが現れて一人ひとりの上に留まったことが記録されている。そして聖霊に満たされた弟子たちは、自分でも理解できない様々な国の言葉(異言)を語り出しキリストの福音を世界へ伝えていく力と勇気が与えられた。これをもって「キリスト教の教会が誕生した日」とされている。
 「異言」に関して興味を持たれる方がいるので個人的な考えも含めて記述させていただく。最初の聖霊降臨の時には「御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」(使徒2:4)とあり、それを聞いた外国人たちは、ガリラヤ人が知る由もない自分の故郷の言葉を語っているので、あっけにとられ驚き怪しんだと記録している。「他国の言葉」であったということは、言語がわからないのに世界に出ていって福音を伝えることに躊躇するであろう弟子たちには勇気に繋がったのであろう。それは福音宣教の働きは“自分”がするのではなく、道具として人を用いての神ご自身の働きであることを示されたのだと確信している。
 しかし異言は時代と共に変化しているようである。パウロはコリント書の中で「躓きを与えないよう教会では異言を話さず、自分と神との間にとどめること」を勧告している。今の時代は“他国の言葉”ではなく神しか理解できない言語である。発することと止める時は自分の意志でできるが、語り始めると自分の意志ではなく舌が制御されて動いていることがわかる。人の器官の中で一番制御できないのが“口(舌)”である。言うべきでないことを言ってしまう。しかしその口が聖霊によって制御されているということは、自分の肉の思いによって生きてしまう人間も、神のために生きることが聖霊によって可能だということの表れでもある。

 先日、私にとっては第二の故郷になる神奈川の地へ母教会(大和カルバリーチャペル)でのご奉仕のために赴いた。今回は息子の希望により卒業した小学校や住んでいたマンションを見て回り当時を懐かしんでいた。教会へ行くと私たち家族を育ててくださった霊的父母兄弟姉妹が列をなして歓迎し懐かしんでくださった。そして帰阪して花園チャペルに戻ると、ここでも「お帰りなさい」と喜んでくださる。帰る場所、甘えることができる場所、受け入れてくれる場所があることは幸いなことだと思わされた。これは普通の旅行では味わうことができない感覚である。
 実は私にはもう一ヵ所、楽しみにしている故郷がある。それは天の故郷である。この地上での歩みは帰省する旅の途中ということになる。地上での旅がどんなに辛くても、その旅のゴールは天国である。天においてはイエスさまや私たちのために執り成しの祈りを捧げてくださっていた先人たちが「お疲れ様」と歓迎してくれる。そこへ行くとこの地上での様々な不条理や悩みや弱さの全てが、神の緻密な計算の下にあったこと、そして全て私たちにとって必要なことであったことを悟ることとなる。そうなるともう地上で最も大きかった悩みや苦しんでいたことが、どれほど最も小さなことであったかを知り、嫌な記憶は全てが吹っ飛びただ神に栄光を帰することができる場所、それが天国だと確信している。
 天国を信じない人にとっては、これは空想話にしかすぎないだろう。 この地上だけで人はお終いだと考える人たちにとっての人生って何のためにあるのだろうか? だからこそ自分の願いを叶えるために自分を中心に物事を考えながら生きるのであろうが、だからと言って所詮この地上だけのことであって虚しいものである。聖書によると死の向こうには永遠の世界があって、最終的には天国か地獄しかないという。イエス・キリストを通してでなければ天国には入れない。紅海が分かれ乾いた土地を歩くような奇跡は毎日起こっている。神がいないわけがない。今まで私は神がおられることを前提に物を考え決断して後悔したことは一度もない。そして死後さえも保証してくださる安心感はハンパない。

 実は花園チャペルが建っている地域は歴史的な場所であることを知って驚いている。今から約400年前の江戸時代に大阪は高麗橋から奈良は平城京の約34キロを最短距離で結んだ幹線道路“暗越奈良(大坂)街道”が整備された。途中、生駒山地(標高約455m)を越える、正に「酷道」と呼ばれる急こう配(約40%)の暗峠(くらがりとうげ)があり名前の由来は「馬のくらが返る」から来ているようである。松尾芭蕉もこの街道を通って大阪入りし、現在も道中で読んだ句の石碑が残っていたりと歴史を感じられる街道である。この街道は花園チャペルの南側を通り街道唯一の宿場(旅館)街があった。「松原宿」と呼ばれていたが、花園チャペルから徒歩5分ほどで行ける場所にある。英田北小学校南門の辺りに案内板と石碑が立っているが、「江戸中期から明治10年頃の宿」の地図があって、よく見るとそこには「キリスト布教所」がひっそりと存在している。江戸時代にはキリスト教は弾圧され、多くの宣教師は追放されたり処刑されていた。明治時代になっても同じような状態が続いていたが明治6年に解禁された。危険視され弾圧されている時代に祈られ福音が宣べ伝えられていたのである。当時は石地やイバラばかりしかない場所ではあったがみ言葉と祈りが蒔かれ、その種がこの地域に沢山落ちているということなのである。
 花園チャペルはその土地の上に建っている。そして今、子どもたちや地域の方々も少しずつ加えられている。100~150年ほど前には福音と祈りの種は石地やイバラばかりに落ちているように見えたであろうと思われるが、実は良い土地にも落ちた種もあったということなのである。
 神は“今”の神ではあるが、時間を超越しておられる普遍的なお方である。だからこそ“今”の為だけではなく“未来”のためにも種を蒔き続ける必要がある。どの時代に良い地に落ちた種が芽を出すかわからないからである。「ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」(マルコ4:8)
 祈りと福音は主にあって必ず成る。ここに立てば勇気100倍である。

 このところ「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」(Ⅰコリント1:18)の言葉が心の中に強く留まっている。人間的に考えると「触れることもできず目にも見えないような神が本当に存在するのか?」「どうやって信じるのか?」「いるのかいないのかわからないような神が、私たちにどのように関わりが持てるのか?」という疑問が出てくるのは当然であろう。しかも「私たちの罪のためにキリストは十字架にかかり私たちの罪の支払いをしてくださったので信じるだけで救われる」なんて話は、あまりにも愚かに聞こえる。まさに「健康な人に医者はいらない」と言われる通り、自分には罪があって救いようのない弱さがあることを自覚しない限りは、キリストの十字架も絵空事のように聞こえる。
 本日の礼拝から民数記を連続講解するが、21章にこのような記事が書かれている。神の助けにより苦しめられてきたエジプトからやっとの思いで出た民がしばらくすると指導者モーセに逆らい、食べ物の不満を言うようになった。そこで神は蛇を送りたくさんの人が死ぬという悲劇が起こった。そこで神の憐みが臨んだ。青銅の蛇を作って、それを竿にかけて掲げて、それを仰ぎ見るものは生きるというのである。死にかけている人々にとってそれは愚かなこと、何の力にもならないことのように思えたであろう。しかしその言葉を信じて見上げた者だけが癒されていったのである。これは十字架(竿)に掛けられたキリスト(青銅の蛇)を象徴的に表している。キリストの十字架は私たちの罪の姿である。自分自身の本当の姿を自覚してこそ神の救いの恵みに預かることができるのである。愚かなように聞こえるが、体験した者にとっては神の力なのだ。
 先週、元ヤクザの伝道者の話をした。次の日、本人からLINEがきた。毎週関西カルバリーの礼拝を視聴されているようだ。「山に埋めるぞ!」「腹に穴開けるぞ!」と30年間人を脅してきた人物がキリストに出会い変えられ、昔の彼を知る人は「人間どうやったらそんなに変われるのか?」と質問されたようだ。確かに十字架には力があるという証である。

 先日大阪城公園で学生会のメンバーが路傍伝道を自発的に行なった。賛美を歌い、1分ほど福音を伝えを繰り返すのである。前回の時には、東京からきた新入サラリーマンが4人ほど最後まで立って聴いていた。あとで話しかけると「大阪城公園に来て一番良かったのは、ここで歌を聴けたことです」と感想を述べられ、韓国からの旅行者は「自分はクリスチャンだったけど教会から離れた生活をしていましたが、神さまのもとへ戻らないといけないと思いました」と涙ながらに話しておられたとのこと。今回は私も顔を出した。近くで有名な歌手のコンサートが行われることもあってか多くの人たちの往来があった。彼らの賛美が始まってもそんなに足を止めて聴く人はいない。そんな中、一人の学生がこう語り始めた。「僕たちがここでこんなことをしているのは愚かに見えるかもしれないけれど、常に神さまの前に満たされていて、今もこんなに皆さんの前で堂々と賛美しています!」この言葉にコリント書の中の「十字架の言は信じない者には愚かで弱さに見えますが、信じる者にとっては『神の力』である」との言葉を連想した。他の学生は路傍伝道の前日「もし昔の自分を知っている人がそこにいたらどうしよう?」としりごみしていた。しかし当日は大胆にキリストの復活を語っていた。そして他の子たちはお花に手書きのメモを添えて立ち止まっている人たちに配っている。私はこれらの学生たちを見ながら誇らしげに思った。今回もクリスチャンではない外国人が涙を流しながら聴いていた。言葉は理解できなくても賛美の中に主がおられる臨在の中で感動していたのである。
 この日本のクリスチャン人口1%にも満たない中での宣教の働きは無駄なように思えるかもしれない。しかし福音を語り続けなければ誰が語るのであろうか? どんなに迫害があっても、少数派であっても、キリストの福音だけはどの時代も途絶えることはなかった。それは語る人がいたからである。今回私は母教会の聖会でご奉仕させていただくが説教タイトルは「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」である。福音の種をどのような形でも蒔いていれば必ず“良い土地”に落ちるものもあるのである。

 私たちの教会の日曜日は3回礼拝を行なっているが、その合間を縫うようにして入門講座やバイブルフェローシップなど行ないフル稼働している。一部の小学生や学生たちは朝から門限まで自分の家のように会堂内で過ごしている。キッズクラスの奉仕や合間の時間帯には子どもたちに勉強や楽器を教えたりしている学生もいる。しかし8割ほどの人たちは礼拝だけで満足して帰っていかれる。交わりが苦手な人もいるのでそれで良しとしているが、役員さんからの要望があり、クリスマスの持寄り愛餐会だけではなく、もう一回、イースター時期に行なってはどうかという提案があり先日行なった。二階のどの部屋も廊下までも満杯であった。普段はあまり顔を出さない小学生までもが何故か集まってきていた。神の国とはこのような世界なのだろうと想像しながら恵まれていた。
 先日も午後の礼拝後、常連の小学生から私も含め世代を超えてフェローシップルームで談笑していた。小学生が普段の学校や家庭の不満を愚痴り、それを学生たちが聞いて受け留め、お爺ちゃんの私がボケると、どこからともなくツッコミが入る。「これぞ神の家族!」と私はホッコリした気分になる。フェローシップ(コイノニア)とは“与える交わり”を示す。世の中には“受ける”ためのサークルや集まりがある。そこでは自分が満足するために行くことが殆どであるが、“与える交わり”には、他者が満足するために自分がそこにいる。だから自分が得をしなくても、受けることが何もなくても、与えることで満足することができる。恵先生も日曜日に残っている学生たちのために出来る範囲で自腹でやりくりしながら夜食を作って提供しているが、それが喜びとなっている。
 ある方から「もう狭くなったので、新しい会堂が必要ですね」と言われドキリとした。私的には前回同様その気は全くないが、神が計画されたら道具の私は従うしかない。もうローンはできない。もし次の会堂があるとするならば神はどのような方法で建てられるのか?楽しみである。
 いずれにせよ「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く(ローマ12:15)」教会であり、私でありたいと切に願っている。ハレルヤ主よ感謝します!

 数ヶ月前にCGNTVから要請があり「リビングライフ」の番組をこの4月から月4日分担当させていただくことになった。今までは年3回ほど他の番組を担当していたが、毎月一回4本のメッセージを収録するのはキツイ。どうも私は自分の教会でのメッセージに力を入れ過ぎていて、他所でする余力がなくなるようである。語ると神さまの恵みでいっぱいになり自分自身が感動し恵まれるのであるが、原稿を作る過程が私にとっては戦いなのである。しかしある場所で要請されたご奉仕を断った後に神さまから「あなたは、『人生は“自己実現”ではなく“神実現”だ』と語っているのに、自分の都合や願いを優先されるのか?」とお叱りを受け悔い改めた経験を数ヶ月前にしたばかりだった。その直後の収録要請だったので肉的には渋りながらも一年間ならということで受けさせていただいた。先日放送されたようで視聴された方々から連絡があった。その中には「今日は母の手術なので、み言葉が欲しいとCGNTVを見たら、突然小崎先生が出てきてビックリ。神さまはこんな方法で私を励ましてくださり感謝でした!」とコメントをくださる方もいて「させていただいて良かった。主に感謝します」と神さまにお礼を申し上げた。
 先日の礼拝にはドイツ在住の方が家族で礼拝に来てくださった。5年前に大きな試練の中でYouTubeを通して私たちの教会の礼拝を視聴されるようになり力が与えられ乗り越えることができたそうだ。様々な方法で福音が届けられていることに驚きを覚えると同時に、「時が良くても悪くても福音を伝え続ける」重要性を教えられた。
 ある先生が「牧師の使命は福音を伝えることで、公に政治的な発言、神学的論争、プロ野球のひいきしている球団の応援はしてはならない。仲間はできるかもしれないが敵や拒絶を生むこともあり救われる人は起こらないからだ」と言っておられた。私もそれに同意し個人的な見解があっても公には言わないようにしている。先日いただき物の阪神タイガースの小さなロゴが入ったネクタイをしていて「先生は阪神ファンですか?」と問われ焦ってしまった。因みに私はどこのファンでもない(汗)。