先週の礼拝では、カルバリーチャペル・ホノルルの音楽担当の副牧師ルーベン・バーク先生が特別賛美をしてくださった。歌の最中に感極まって一部歌えなくなってしまったが、日本語を理解することができないにも関わらずメッセージ中にも時々目頭を押さえておられた。後で本人から話を聞くと「メッセージの内容は理解できなかったけれど、聖霊さまの臨在を感じて涙が出て仕方がなかった」というのである。
人間には3つのタンクがあって、一つは肉の欲求を満たすためのもの。もう一つは精神的な必要を満たすため。そしてもう一つは霊的に満たすためのものである。肉は飲食やスポーツなどで満たされる。精神は趣味やリラックスすることによって満たされる。しかし霊のタンクは、この世のものでは満たすことはできない。神の霊によってでしか満タンにはならないのである。頭で理解できなくても霊の部分が満たされ共鳴すると満足感が得られ、ある人は感謝と喜びが溢れ、ある人は何故か涙が出るという現象が起こる。何も感じなくても問題ない。私がよくアドバイスする内容の中に「もし神さまを知らない家族や友人が危篤状況になったら、本人の意識はなかったとしても耳元で福音を伝えてください。お祈りしてください。」というのがある。それは肉的、精神的に機能していなくても霊の部分は機能しているからである。虫の息状態の方の耳元でお祈りしたり賛美すると、心電図が反応するのを何度も見てきている。
ということから考えると、たとえ礼拝メッセージを理解できなかったとしても、また極端なことを言うと寝落ちしてしまったとしても、神の霊はその人の中に豊かに注がれていることを確信している。頭で理解することも必要ではあるが、理解できなかったとしても神を求める心があれば聖霊はあなたを満たしてくださるのである。
今日からアドベント(キリストの誕生を待ち望む期間)が始まるが、すべての人の肉や精神的な部分だけではなく、“霊”の部分が“神の霊”によって満たされるよう祈っている。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」(詩篇127篇2節)。
あるリサーチの結果として出ていることは、どこの国の人でも共通した4つの悩みがあるという。それは「空白感」「孤独感」「罪悪感」「死に対する恐怖」。そして人はそれらの悩みを解消するために善行、哲学、宗教、仕事、財産、名誉、学歴、地位など求めて生きている。肉や精神的な部分は一時的に満たされているように思えるが解決にはいたらない。実は“霊”の部分が満たされていないことが原因なのである。
本日洗礼を受けられるお方は、元気だった愛する息子さんを2ヶ月ほど前に突然失い絶望の中におられた。この地上だけのレベルで現実を見ると「神も仏もいるものか!」と何かに当たりながら歩んでも仕方がないと思われる。しかし神の側から立って観たときに“永遠”にある希望を見い出された。人はいつか必ず死ぬようになっている。死亡率100%である。どのような形で、また順番も誰にもわからない。しかし神は私たちを造られ“霊”の部分は永遠に存在するようにされた。重要なことはこの世でどれだけ満たされて生きることができたかとか長生きしたかではない。聖書は“永遠”の場所の行き場所を間違えたら、そちらの方が大問題であることを教えている。私たちの永遠は二箇所あるという。一つは“永遠のいのち”であり、もう一つは“永遠の死”。突然召された息子さんはクリスチャンである妹さんとの最後の会話の中で、十字架の意味を質問され福音を伝えたという。霊において応答されて“永遠のいのち”すなわち天国に入れられたことを確信している。悲しみの淵にいたお母さまは再会できる希望を、神の視点から見出されたのである。
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:1~3)
人の死さえも神の栄光をあらわすために用いられている。今日は天国おいて召された息子さんと共に大きな歓声が起こっていることだろう。
11月の関西カルバリーのプレイズの中に夢見人(ドリーマー)という賛美がある。歌詞の中に「悲しみや痛みをかかえては 何かをあきらめてたけど 主の真実が 主のあわれみが 今 私を変えてゆく」というくだりがある。先日の学生会のオリジナル賛美「みんなの明日が」の歌詞には「悲しみが笑いに勝るように 患難さえも喜びたい」とあった。YouTubeを含めて、礼拝に来られている方々の中には悲しみや痛みをかかえておられる人たちもいらっしゃる。そんな人たちにこの歌詞は大きな励ましになったと考えているし、メッセージの中でも何らかの形で意識的に励ましを入れるようにしている。「患難さえも喜びたい」という部分は受け入れがたい人たちもいるかもしれないが、主の真実とあわれみが、そうできるようさせてくださるのである。
今ローマ書から連続講解しているが、著者のパウロの焦点もまさにそこにある。彼は「患難さえも喜んでいます」(ローマ5:3)と書いている。神は偶像崇拝者であったアブラハムを“品種改良”され、創造主なる神を信じるようになった。そこから増え広がっていったのがイスラエル民族であるが時代の中で神から離れ、パウロの時代にはキリストを十字架につけクリスチャンに対して激しい迫害をするようになった。現実はマイナスしか見えないがパウロはそれさえも喜ぶことができた。彼が預言的に語っている希望の未来は「イスラエルがキリストを拒否したことによって、福音は異邦人に伝えられるようになった。それによって異邦人に福音が宣べ伝えられ救われていく様子を見て、今度は同胞であるイスラエルが奮起して受け入れるようになる」(ローマ11:11)ということである。これは今は諦めたくなるような悲しみや痛みがあっても、神は水面下で着々と明るい未来を進めておられるという揺るがない信頼に立った言葉である。「主は良いお方で必ず私たちにとって最善をしてくださる」と信じる人は、どんなマイナスをも喜ぶことができるようになるのである。
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」(ローマ11:33)私たちはただ主に信頼し繋がるのみ!
先週、母教会である大和カルバリーチャペルの大川先生が福音功労賞を顕彰された。私もご招待を受けて千葉県市川市にあるヤマザキ製パン総合クリエーションセンターの会場に行かせていただいた。宿泊施設もある綺麗な建物の正面玄関に大きな額「新しいヤマザキのあるべき姿の四箇条」が掲げられていた。その一箇条が“To honor God in all we do(仕事の全てにおいて神のみこころの実現を期すること)”とあった。全国に知れ渡っている大企業が「神のみこころの実現」を願っているのである。私のライフメッセージを第一番目に謳っていることに感動した。
そこには古巣の同労者や後輩たちも多数参加していて懐かしい時でもあった。顕彰式当日の朝、大川先生ご夫妻とお部屋でお話しする機会があった。その時先生から語られた内容に感銘した。「僕は昔、聖霊問題(神学の違い)で教団をクビになった男で相手にされなくなって寂しい思いをしたけれど、それでも教団のどこかの教会が困っていると精一杯献金して助けてあげたら、今の時代に受け入れてくれるようになったんだよ。僕はどんな相手とでも平和でいたいと思っているの。ある人は僕を猛烈に批判することがあって気持ちはとても辛いけど、神さまの摂理を恐れるから、その人を突き離そうとしないで、どうにか活かしてあげたいんだよね。愛は口先だけではなく実践しないと意味がないんだよ」その“ある人”が誰なのかを知っている私は、「文句言うなら外に出たら?」と言いたくなるが、そんなお気持ちを持っておられることに対して「今回の福音功労賞は、そのような伏線があったからこそいただけたのですね。私だったらそのような人は突き放すところですが、私には持ち合わせていないその愛の領域を広げさせていただきたいと思いました。」と答えた。
今回の福音功労賞は突き離された教団の先輩からの推薦あっての受彰であった。福音派から受け入れられ認められたという証となった。
「私に苦しみ加えようと党派心から福音を伝える者がいるが、伝えられているのはキリストだから私は喜ぶ!」(ピリピ1)
神実現に生きたら、いつも喜び感謝しながら歩むことは可能になる。
先週の午後礼拝が終了した後、YKルームで大学生たちと小学生たちが一緒にゲームなどをして楽しんでいる様子を見て嬉しくなった。普段から宿題を見てあげたり楽器を教えたりしながら交流はしているが、家族のようにくつろいでいる様子に“天国”を垣間見るようであった。
私たちの教会では礼拝終了後にすぐ帰られる方々が半分以上おられる。残ってお弁当を食べたりコーヒーでゆっくりされる方々もいる。交流することが苦手な人たちもいるので残ることを強いることはせず、個々に委ねる配慮をしてきた。私は牧師と信徒の繋がりは強いが、信徒同士の繋がりが薄いのがいつも気になっていた。そのような中で先日学生だけではなくそれ以外の方々も参加できるバイブル・フェローシップを初めて開催した。一つの聖書箇所やトピックからそれぞれ感じていることを自由に話していただき与えられている恵みを語り合いながら、お互いを知る良い時間となった。大変好評だったので月1で行なうことになった。これはリーダーがいなくてもできる内容なので、将来的には昼の時間帯でも行えるようになればと願っている。
川端光生先生が「虚無の中に投げ出されている私の存在を根拠づけ価値づけてくれる神として、キリストの神を選び取りました。キリストの神は、私の理屈に最も適合した神だったのです。私は、自分の自由意志でキリストを選びました。ところが私に選ばれたはずのキリストは私に向かって、『あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだのです』(ヨハネ15:16)と言うのです。理屈では全く納得のいかないことです。」と書いておられる。自分で選んだのであれば、それは人間の都合に合った神ということになるが、神が選んでくださったという「神中心」にならないとしっかりした土台は築けない。どの教会に繋がっておられる人たちも、自分の好みで自分に合った教会を見つけてそこに集っていると考えているとは思うが、実は神が選びそこに置かれているという認識は必要である。フェローシップ(コイノニア/主にある交流)を通してキリストの体の横の繋がりも強めていきたいものである。
先週花園チャペルで行われた秋の賛美集会は主の臨在が濃厚すぎた。今回出席者はいつもより少なかったが、神さまの働きは人数には関係ないことが証明された。内容は賛美と祈りと証であったが、その中で体調が悪かった方が「集会の中で癒されたのがわかりました」と報告に来られた。礼拝に来られている未信者の方も「初めて賛美集会に参加しました。証に共感して賛美で恵まれました」と涙しながら帰っていかれた。前で奉仕している大人たちもそうであるが、キーボードの小学生までもが主に触れられ涙を流しながら奉仕しているのである。会衆はいうまでもなく感動の連続であった。教会メンバー全員にこの“天国”を味わって欲しかった。このような賛美集会は未だかつて経験したことがない。涙を流せばいいというわけではないが、主に触れられたら悲しみがなくとも喜びと感謝の涙が自然と出てくるものである。
学生の証も凄かった。「僕はクリスチャンとして周り人たちと接していると『神なんているの?』という目で自分を見ているような気がして孤独を覚えるようになり、世の中に迎合して神の存在さえ疑うようになり、いつも“疑い”と“信仰”の戦いがありました。今年の学生のGealキャンプの賛美の中で、ふと思ったんです。関西カルバリーの人たちのことを考えると〇〇君も○〇ちゃんもあんなに変わった。その他不思議な形で集まりクリスチャンになっていく。これはただの奇蹟じゃないってことに気付き、こんなにも僕の周りで神さまが働いておられるのなら僕の友達にも神さまが働いてくださるかもしれないと思いひざまずいてお祈りしました。そこで初めての聖霊体験をしました。理屈や考えを超えて神さまが触れてくださり涙が流れ、友人に伝えたい、聖書を読みたいという思いが与えられ実行するようになりました。小崎先生が『神の愛や恵みに触れたら、その愛や恵みに応えたいという思いが自然と起こります』という言葉は本当だったんだと思いました。」
“信仰”とは理屈ではない。神と繋がることであり、そこから流れる恵みに触れながら喜び生かされることである。キリスト体験しましょう。
私たちの教会の音響はデジタルミキサーを使用している。3年前新会堂が建った時には半導体不足問題で新品が手に入らず中古品を購入したが、不具合が起こることが多かった。なんとか騙しだまし最近まで使用していたが、いよいよフリーズして音も出なくなった。そこで最近新品を購入することができた。今まで音響担当の方もヤヒヤしながら奉仕しておられたようで、今は音響に関して安定と安心があるという。
「安定と安心」というとローマ書7章で著者のパウロが「神に従いたいと思いながら、実際は真逆のことをやってしまう。私はなんというみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだから私を救ってくれるのだろうか?」と絶望と不安の中で嘆き苦しむ姿を描写し8章から「キリストにある(属する)者は罪に定められることがない」という安心を書いている。ともすればクリスチャンも「自分は本当に救われているのか?」という不安な人生を送ってしまうことがある。しかしパウロの説明によれば、不安があるのは自分の“肉”を生かそうとするからであって、“聖霊”によって罪と死の不安から解放されたので永続的な平安が与えられているのだというのである。私たちの肉がしなければならない罪の代価の支払いはすべてキリストがしてくださったので、キリストにあるならば救いを失うことがないという安定した安心が与えられるのである。
「肉を殺して霊を生かす」と聞くと、また努力して必死になって肉を抑え込もうとしてしまうが、それも肉の働きである。ガラテヤ書5章でパウロは「肉の働きからは不品行、汚れや争い・・・が出るが、御霊の実は、愛、喜び、平和・・・」と書いている。すなわち“実”ということは枝がそのままではどんなに努力しても実は結ばせないが、生命の源である幹に繋がることによって実が自然と結ばれるというのである。
「信仰」とはキリストに繋がることであり、繋がることによって自然と実を結ぶのである。頑張るのではなく“繋がる”ことによって得ることができる安心。“実”はキリストに繋がっている証拠となる。それによって私は安定した平安が与えられた。フリーズしない安心を是非!
今礼拝ではローマ書から順番に学んでいるが、これを書いたパウロは生まれながらのローマ市民権を持ち、ユダヤ人として厳格なパリサイ派に属し、高名なラビのもとで当時の最高の教育を受け、将来有望な存在であった。ユダヤ教に熱心であったゆえにクリスチャンを迫害し逮捕することに躍起になっていた。しかし劇的なキリストとの出会いによって、その価値観が180度変わり、生き方が変わった。世の中が称賛する価値は本物ではないことに気付き、キリストにある絶大な価値観に生きるようになった。「目からうろこ」の語源は、使徒行伝に記されている。キリスト教徒を迫害するパウロがキリストの声を聞き天からの強い光によって一時的に盲目になり、その後癒される様子が、後に「目からうろこが落ちる」ということわざとなった。
しかし彼は今まで得た知識を捨てたのではなく、また自分のためではなく、神の福音を宣べ伝えるために用いるようになった。当時、様々な哲学が溢れているローマの人たちに哲学的アプローチをしながら福音を伝えているのがローマ書である。読んでいると難しく感じるが深い。
ローマ書7章には「法則」という言葉が連続して出てくる。多くの人たちは聖書に書かれている内容(神の言葉)は素晴らしいと思っている法則があり、それに従うことができたら良いと感じている法則が働いている。しかし心とは裏腹に肉の部分は従いたくないという思いの法則があり、心は従った方が良いと思っているが、肉は実際に従わない生き方をしてしまう法則があるという。確かに信者でなくても多くの日本人の親はミッションスクールやキリスト教系の幼稚園に自分の子どもを入れたがる。それは子どもに清さや良い影響や正しい教育を与えると考えているからだろう。しかし子どもがクリスチャンになることを望むのかといえばそうではない。何か矛盾を感じる。
私たちの努力によって神に従うのではない。肉によって頑張っても、神を否定する法則が働き疲れるのみである。神に繋がることによって流される聖霊によって実を結ぶことが自然とできるようになるのである。
先月10日、米保守派活動家のチャーリー・カーク氏(31)が射殺された。日本では彼のことはあまり知られていないがアメリカでは若い世代からも絶大な影響力を持つ存在であった。暗殺の数日前に日本にも訪問していた。先日8時間にも及ぶ追悼式がなされたが、その前半のほとんどが賛美と礼拝であった。彼はアメリカのカルバリーチャペルに所属していて、トランプ大統領のスピーチの前にチャーリー氏の奥様エリカさんが涙を流しながら挨拶をした。その内容が人間のレベルを超えた衝撃と感動を与えるものであったので、ここにその一部を紹介したい。
「夫はアメリカや、特に若者たちに対して何かがおかしいと気付き、新たな方向性が必要だと悟りました。迷える若者たちに、手を差し伸べ、救いたいと熱望していました。方向性もなく、目的もなく、信仰もなく、生きる理由もないと感じている若者たち、気晴らしに人生を破壊し浪費している若者たち、恨み、怒り、憎しみに囚われている若者たちを助けたいと思ったのです。彼は彼らにターニング・ポイントUSA(彼が創設した団体)に居場所を持ってもらいたかったのです。そして彼が(狙撃された)大学のキャンパスに足を踏み入れ、そこにいる学生たちにより良い人生を示そうとしていました。自分の命を奪ったあの青年のような若者たちを救いたかったのです。十字架の上で私たちの救い主はこう言われました。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです』(ルカ23章34節) (夫を殺した)あの若者を私は赦します。私が彼を赦すのは、キリストがそうなさったからであり、夫チャーリーもそうしたでしょうから。憎しみへの答えは憎しみではありません。(聖書の)福音書から私たちが知る答えは、愛であり、常に愛です。敵への愛、そして私たちを迫害する者たちへの愛です・・・」
私は彼らの活動が本物であったことを今回知った。このような赦しを言わしめることができるのは“聖霊”から来る力以外にはありえない。人間の努力や気力ではできるものではない。彼女は赦しの宣言をする直前数秒無言になり天を仰いで祈っていた。救いも聖めも主のみから来る。
先週、キーボードの奉仕をしてくれている一人の小学生がこんなことを私に話してきた。「神さまのために奉仕できるのは嬉しいんやけど、もっと上手い人たちもいるのに、どうして私が弾くのかわからへん」そこで私はこう返答した。「赤ちゃんがハイハイしたり独り立ちできるようになったり、一歩でも歩いたら、親は喜ぶし嬉しいもんなんだよ。それと同じように上手いとか下手とか関係なく、〇〇ちゃんがキーボードを弾いている姿を見るだけで先生はすごく嬉しい気持ちになるんだよ。神さまも何ができるかできないかではなく、そこに居てくれるだけで〇〇ちゃんの存在を嬉しく思ってくださってるんだよ」と話すと「そうなんや」と受け止めてくれた。立ち話ではあったが知恵が与えられて神さまのお心を伝えることができて感謝であったと同時に私も再度学ばされた。
親はゆっくりではあっても子どもの成長や存在を喜ぶように、神も私たちが何かをする前に既にその存在を愛し受け止めてくださっている。そして不器用であっても、神のために生きたいという姿勢を喜んで見守っていてくださっている。それが親心ならぬ神心である。それが上手くできたか、できなかったかなどはこの世の価値観で、ランク付けすること自体が愚かなことである。神の国の価値は、その人の“存在そのもの”であり、神のために何かをしたい成長したいという“思い”である。
先日行われた花園チャペル3周年記念コンサートは満員御礼であった。出演者は勿論のことであるが、チラシ配布や、友人知人家族をお誘いなさったり、当日も駐車場や音響パワポやコーヒー控室準備などの裏方をしてくださった方々のご奉仕の結晶であったと思わされている。チャペル前を歩いていた人も屋根の緑に光る十字架が好きで参加された方もいらっしゃる。音響も前の日からフリーズ状態で音は出るが調整が全くできない状態にあった。しかし長年の経験から主が大きく動かれる時には、前進させまいとする動きが必ず起こることを知っている。だからコンサートが大いに祝福されることを事前から確認できた。原因不明のまま午後から音響が自然回復した。悪魔の計画は潰され主の御心だけがなった。
