先日ある場所でメッセージのご奉仕をさせていただいて感謝ではあったが、神のお叱りを受けてしまった。集会終了後にそこにいた方々と雑談している時に、ある方から「また来ていただけますか?」と質問された。通常は「はい、喜んで」と言うべきところであるが、私の肉の思いが勝ってしまい「ちょっと距離があるので・・・」としぶってしまった。帰宅してから落ち着かない気持ちになり心の中に響いてくる声があった。「あなたは『神実現』とか、『主の道具になり切りたい』」とメッセージしているのに、距離があるから行きたくない? 神実現なら神の願いがなることを願うことだろう? 神の道具になるということは、神が使われるならそこにいなければならないということだろう? 道具が何を言っている? それは自己実現ではないか」とかなり厳しく責められた。私は深く反省して「今日は用いてくださり感謝します。せっかく次回のお誘いをいただいたのに、否定的な返答をしてしまい神さまからお叱りを受けました。どうぞ私の高慢な態度を許してください。もし用いてくださるなら喜んでご奉仕させていただきます。」と関係者にラインした。
 牧師はメッセージする前に、まず自分が料理されなければならない。時として自分にはできていないことも、主からのメッセージとして会衆だけではなく自分に向けてもメッセージする必要がある。牧師も肉を着ているだけの一人の人間であり、神でも聖人でもない。日々様々な葛藤もあれば問題も起こる。神実現と自己実現の戦いの中にいる。
 これは神が「与える」と言われたカナンの土地に入った後のイスラエルの民と同じである。彼らは約束の土地に入ることはできたが、原住民がいたために一歩の土地さえ与えられていなかった。絶えず様々な葛藤をしながら戦いながら自分たちの領土を拡大しなければならなかったのである。これは神を信じる者のこの地上での生き方を示している。へブル書にはアブラハムはこの地上ではなく天にある故郷を見ながら生きていたとある。彼にとっての約束の地はカナンではなく天であった。この地上は天に入るまでの予備校である。そうやって信仰は強められる。

「生きているということは」

 生きている ということは 誰かに借りをつくること
 生きていく ということは その借りを返してゆくこと
 誰かに借りたら 誰かに返そう
 誰かに そうして貰ったように 誰かに そうしてあげよう

 生きていく ということは 誰かと手をつなぐこと
 つないだ手のぬくもりを 忘れないで いること
 めぐり逢い愛しあい やがて別れの日
 その時に悔やまないように 今日を明日を生きよう
 人は一人では 生きてゆけない
 誰も一人では 歩いてゆけない

 生きている ということは 誰かに借りをつくること
 生きていく ということは その借りを返してゆくこと
 誰かに借りたら 誰かに返そう
 誰かに そうして貰ったように 誰かに そうしてあげよう
 誰かに そうしてあげよう 誰かに そうしてあげよう

 作:永六輔(放送作家)

 誰かが言っていた。「自分が生かされているのは、誰かに借りを返すため。最大の誰かは『イエス・キリスト』。その愛の負債を返すため。まだ返し切れていないから、神さまが生かしておいて下さるのだろう」と。私たちの裏切りに対してキリストは私たちを生かす為どれほど支払ってくださっただろう? 
 今日は二十歳祝福式。親やお世話になった方々、そしてイエスさまに愛の借金を返済していく人生でありますように。

  • 2026年元旦礼拝の動画を掲載しました。YouTubeで見る
  • 2026年1月~3月の予定を掲載しました。
  • 2025年5月6日 大和カルバリーチャペル 大川牧師就任55周年記念聖会での小﨑淳広牧師のメッセージ動画をリンクしました。YouTubeで見る
  • 2024年9月から日曜日朝9時からのシンプル礼拝がスタートしました。(45分で終了します)※静かな礼拝を希望される方にお勧めです。
  • <告知>堺チャペルは2024年8月25日をもって、キッチンIMUの閉店に伴い花園チャペルへ合流となりました。
  • 関西カルバリーフェローシップの歴史の動画を公開しました。YouTubeで見る
  • 花園チャペル案内の動画を公開しました。YouTubeで見る

 私の元には毎週のようにして内外から体験談を受け取り私自身が主の業に感動している。先週も教会メンバーの一人からお手紙をいただいた。 
 「私事ですが12月半ばに血液検査の結果、橋本病=甲状腺機能低下症という中高年女性が割とかかる病気ですが、私もそうだということでエコーを撮ることになりました。そのエコーの映像に甲状腺の近くに白い何かがあり、これが何であるかを専門医に診てもらった方が良いということで、ドクターが紹介状を書いてくださり診察日予約までしてくださいました。その予約日が1月5日月曜でした。年末年始何かと慌ただしく過ぎて行き1月4日礼拝を迎え、聖餐式の後、小崎先生が癒しの宣言を力強くしてくださり『アーメン』と答えたら『癒されるのでは・・・』という思いが与えられました。礼拝では最初から涙があふれてきて神さまの迫りが豊かにあったのだと感じています。主の御名を崇めました。そして5日に大きな病院の専門医に診ていただきエコーの結果を一緒に見せてくださり『何も無くきれいですよ』と言われました。橋本病の経過観察はこれからも必要ですが、心配されたものは全く消えていました。やはり昨日癒してくださったのだと感じて感謝を捧げました。(中略)この世に執着するものも、もうありませんし、天に入れていただけるならそれも感謝だと考えていました。でもまだ命が与えられるなら小崎先生がいつも語られるように主の尊い御愛にいかに応答していくのか、救われない人々の為に祈り続け、イエスさまの素晴らしさを伝えていく者でありたいと今は思っています。栄光のすべては主のものです!」
 今年の礼拝からヨハネ福音書から学び始めたが、著者ヨハネが書いた目的は「イエスがメシヤ(救い主)であることを表す」ということである。イエスさまが行なわれた癒しや不思議は“しるし”(サイン)と記されていて、重要なことはそれらのサインを通してイエスさまは救い主であり、今も生きて働いておられることを知ることである。現代においてもサインは励ましになる。今年もあらゆるサインを見させていただいて、主に対する信仰を強く持ち続けるものでありたい。栄光在主!

 先週は年始に久々に教会に来た中学生が何人かいた。彼らは小学生の時に教会に来ていた子たちであるが、中学に上がってからは日曜日のクラブ活動の故に教会に来られなくなっていた。クラブ活動はするべきだと思うが、神さまに顔を向けさせないようにする障壁にもなっている。
 先週の洗礼準備会で使用している小冊子の学びの中で「主日礼拝を大切にする」というのがあった。これをいい加減にしたために取り返しのつかない道へ進んでしまった人たちもいる。シュバイツアーは両親の真剣な礼拝に対する姿勢を通して“敬虔”を学んだと言われているが、子どもに残してあげる最大の遺産は「神を畏れ、敬う」ことで、それを身をもって示すことが大切なことである。二千年前に教会が設立されてからずっと忠実に礼拝を守り続けてきた先人たちの存在が教会存続を可能にし、次世代へまた私たちの時代に至るまで信仰が継承されてきた証にもなっている。そして“今”の私たちの姿が次世代に影響を与えていくのである。私たちの教会に来ている子どもたちは、お兄さんお姉さんお母さんお父さん的立場の人たちが奉仕をしている姿を見て、楽器を始めるようになった子や受付をしてくれる子が出てきた。私たちの生き方が後の時代に大きな影響を与えことを考えると襟が正される思いである。
 渡辺和子さんの著書「置かれた場所で咲きなさい。」にこう書かれている。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。結婚しても、就職しても、子育てをしても、『こんなはずじゃなかった』と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で『咲く』努力をしてほしいのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。」
 置かれた場所で咲くことは歴史にも大きな変化を与える力がある。

 年末に教会メンバーの方と話していると「クリスマスも会堂がいっぱいでしたし最近人が増えてきていますから、そろそろ1000人会堂を考え始めたらどうでしょうか?」と言われドキリとした。肉の私はここで落ち着きたいという思いが強いし大きな会堂建てたいという野望は一ミリも持っていない。しかし常日頃、主の道具になりたいと祈り願っている身としては、主がそうなさるのであれば、そのようになるという確信は持っている。集会室や公民館を転々としながら人も数名、手持ちも何もない開拓初期に「神さまが望まれたら会堂なんて簡単に建ちますよ」と大言壮語してきたが、その12年後に花園チャペルが建てられてしまった。その体験があるから神のなさることには畏れをなしている。現在日曜礼拝は3回行なっているが、いっぱいになれば4回する覚悟はできている。平日礼拝も行なえばいい。もうローンはできない。建築費は高騰している。私は福音を伝える気力は益々増強しているが、前回同様会堂を建てる願いは持っていない。さて神さまはこのような条件で花園チャペルをどのように導かれ、私たちを道具として用いていかれるのか楽しみである。まさに「神のなさることは、時にかなって美しい」である。
 “私は”“私が”“私の”という考え方で生きると苦しくなる。乗り越えられない壁に遭遇すると絶望する。しかし“神は”“神が”“神の”という生き方をすると本当に楽になれる。壁ができても全知全能の神さまが何とかしてくださり、大きな敵が現れても戦ってくださるのは主である。任せて安心人生とはこれである。私たちの教会では、この秘訣を会得されて「明るく、元気で、のびのび」と変えられた方々が大勢いらっしゃる。牧師にとってそのような体験談をお聞きすることは励みにもなるし次への活力にもなる。
 新しい年もリアルなキリストの愛と恵みと力を体験していただきたい。「追い求めて捜しさえすれば、神を見い出せるようにしてくださった」(使徒17章27節)とある。私たちは祈り求めるときに、最善の時に最善のことを主がなさるのである。継続して祈り続けよう!

 今年の標語聖句は「追い求めて捜しさえすれば、神を見い出せるようにしてくださった」(使徒行伝17章27節)である。
 神は目で見ることも触れることもできないが、その被造物(神が造ったもの)を見ると、その業の凄さを発見することができる。
 前人未踏の記録を積み重ね続けているドジャースの大谷翔平選手は試合会場でゴミを拾う姿が度々カメラに捉えられている。その姿を見た世界の野球ファンは大きな感動を覚えている。彼のこの謙虚な姿勢は高校時代の恩師の教育理念にその原点があるという。選手たちにゴミ拾いやトイレ掃除や靴の整理といったことを日常的に徹底させていた。「ゴミ拾いや掃除は罰ではない。それは人間力を育てるための教育だ。野球の技術よりもまず人間力を育てる。野球が上手くなる前に人として成長しなければならない。人間としての器が大きくならなければ野球は伸びない。野球が上手いだけの選手はいらない。生活と心を整えることが結果的に野球につながるのだ」という教えを生徒たちに伝えてきたという。そして大谷選手はMLB最高の選手となった今もなおその教えを実践し続けているのである。あのマイク・トラウト選手さえもその影響を受けてゴミ拾いをするようになったそうだ。
 神にとって私たちにどれだけ能力や力があり、この世で上手くやっていけるかは評価の対象ではない。聖書からわかることは、“神実現”に生きているかどうかということである。聖書によると“自己実現”は“罪”である。人は本来、神の御心に生きるように造られたのであるが、自分の考えを優先させて生きるようになったことによって大きな混乱が起こるようになった。いじめやハラスメントもそうであるが、犯罪や紛争、戦争もそうである。“自分”が中心になってから世界は堕落していった。 
 この地上でどんなに満足する生活をしていたとしても創造主から離れた人生のゴールには希望はない。今年は信仰力をアップしよう!

 先週ある学生が「先生の祈りが実現していますね」と言われて、何のことか聞くと、私が二年前に行なった聖書セミナーの黙示録の学びの中で、「私たちの教会の名前は“フェローシップ”と付いているが、まだ横の交わりが薄い」という話をしていたそうだ。新しい会堂が建ったばかりで遠方から来られている人たちばかりなので仕方ないとは思っていたが、教会に集うことの大きな意味の一つは、フェローシップによってお互いが仕え合うということである。泣く者と共に泣き喜ぶ者と共に喜ぶことによって祈り合い、神さまへの思いを深めることである。この二年でそのように変化していることに学生は驚きを覚えていたのである。
 「足跡」
 ある夜、わたしは夢を見た。
 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
 どの光景にも、砂の上にふたりの足跡が残されていた。
 ひとつはわたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。
 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは砂の上の
 足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。
 わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。
 「主よ。わたしがあなたに従う決心したとき、あなたはわたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されたのに、わたしの人生の一番辛い時、ひとりの足跡しかありませんでした。一番あなたを必要としたときに、何故わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
 主は囁かれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡がひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていたんだよ」
 (マーガレット・パワーズ)
 今年も一年を振り返り、与えられた恵みを数えながら感謝を捧げたい。励ましてくださった人達も神さまからの贈り物。ハレルヤ感謝します!

 ある先生が五年生の担任になった。服装が不潔でだらしなく好きになれない少年がいた。記録に少年の悪いところばかりを記入するようになった。ある時、少年の一年生からの記録が目に止まった。「朗らかで友達が好きで人にも親切。勉強もよくできる」とある。先生は他の子の記録に違いないと思った。二年生になると「母親が病気で世話をするため時々遅刻する」と書かれ、三年生では「母親の病気が悪くなり疲れていて教室で居眠りする」。三年生の後半の記録には「母親が亡くなり希望を失い悲しんでいる」。四年生になると「父は生きる意欲を失いアルコール依存症となり子どもに暴力をふるう」。心が痛んだ。ダメと決めつけていた子に対して、目が開かれた瞬間であった。放課後少年に声をかけた。「夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?わからないところは教えてあげるから」少年は初めて笑顔を見せた。それから毎日、予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。
 クリスマスの午後、少年が小さな包みを渡した。開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。「あっ、お母さんの匂い!」と叫んだ。六年生では先生は少年の担任ではなくなった。卒業の時、少年から一枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。救われました」。それから六年後、またカードが届いた。「明日は高校の卒業式です。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」。十年を経て、またカードがきた。そこには先生への感謝と父親に叩かれた体験があるから患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていた。「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。あのままダメになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます」。
 そして一年後。結婚式の招待状が届いた。「母の席に座ってください」と書き添えられていた。
 「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」(イエス)

 先週の日曜日は、私が教会開拓を始めてから初めて伝道師以外の人に講壇をお譲りした。私は遠方から時間と交通費をかけて花園チャペルに来られる方々もいる中で、その人たちにマズい食事をお出しするのは申し訳ないし失礼だという思いがいつもあり、良い心のゴハンを提供したいがために“聖書”という最高の食材から祈りつつ手間暇かけてメッセージの仕込みをしている。日曜日は三回の礼拝があるので、外部の先生方にはお頼みしにくいということもあって自分が責任を取る気持ちで語り続けてきた。今回元阪神タイガース選手であるマットマートンさんにお頼みするにあたって彼の動画など確認して、非常に良い福音的メッセージを語っておられるのでお願いした次第である。彼は牧師ではないが整えられた礼拝メッセージをしてくださった。驚いたことは、私のライフメッセージを語られたということだ。「ベストを尽くして、結果は神に委ねる」。マートンさんは野球選手としてあらゆるプレッシャーやストレスを感じながらその任務を全うしてこられたが、その秘訣はまさにそこにあった。自分にフォーカスすると必ず崩れてしまうが、神にフォーカスするとあらゆる困難を乗り越えていけるというのである。
 私たちはこの地上の出来事や内側に起こる様々な問題に一喜一憂するべきではない。なぜならすべてのことは神の想定内であり、これからの未来も神は知っておられ神の最善と私たちにとって万事益になるレールを敷いていってくださっているからである。主に対する絶対的な信頼を持つならば何が起こっても大丈夫。神は下手なことは決してなさらない。
 私たちは元々神により創造され神に属するものであった。しかし自分勝手に生き始めた私たちは「罪の支払う報酬は死」の神の法則からいうならば永遠の死“地獄”行きが決定している。どうしても愛なる神はそれだけは阻止したいが故に、肉体をとって地上に来て罪なき聖いお方が私たちの罪の代価を身代わりに死んで支払ってくださった。私達は神に帰るだけで神の家族に戻してくださる道を造ってくださった。これが福音である。信仰は何も難しいものではない。神に帰り繋がるだけである。