私たちの教会に出入りしている子どもたちからのリクエストがあり、また旗振りと愛ガード(見守り)をしているので、先週小学校の卒業式の来賓として招待され参席させていただいた。卒業生たちの“別れの言葉”の最後の言葉は「さようなら〇〇小学校!さようなら〇〇小学校!さようなら〇〇小学校!」で、明日からはこの学校の生徒ではなくなることを考えると少し寂しい気持ちになった。特に残された学校の先生たちは、一生再会することがない生徒も沢山いることであろう。
 イエスさまは十字架にかかる前の最後の晩餐の時に、これから路頭に迷うであろう弟子たちに残された励ましの言葉は「心を騒がせるな。神を信じ、またわたしを信じなさい」「父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」「わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」「あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう」「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」など沢山ある。私がいつも「主にあって人生何とかなる!」と語っているが、実体験と御言葉が裏付けとなっている。イエスさまの言葉には重みがある。なぜなら天地を造られた神の言葉であるから、気休めとか啓発的な物の考え方という類のものではない。空振りに終わることは絶対にない。ピンチの時にはいつも御言葉によって励まされ乗り越えさせてくださった。
 もし私が小学生たちに贈る言葉を語れと言われたら「これから様々な困難にぶつかった時、親御さんや先生や経験豊富な人の所に相談に行くことは良いと思います。でも四方八方塞がってしまったらあなたを造ったお方の元へ行ってみてください。必ず何とかなるから!」ハレルヤ!

 先週は“春の賛美集会”を花園チャペルで行なった。若者たちが賛美リードして、人生経験豊富な中年の男性が証をなさった。勿論、集会全体恵まれたが、牧師として嬉しかったことは、参加者は年齢層が偏っていなかったことだ。若者中心の集会であれば、それに合った奉仕者や賛美の選曲や証があっていいだろう。しかし“教会”は全体のバランスを取らなければならない。新しい曲ばかりであると壮年や中年は歌えない。聖歌や讃美歌が好きな世代もいる。今回は証者と同じ年齢層の参加も多くおられたのは、実際にそのような声があったのだが同世代の体験談を聞きたいという気持ちの表れでもあろう。
 小学生から80代までが一つとなって神さまを賛美している様子は、まさに天国のようであった。天国では“肉体”ではない“新しい体”をいただくことが聖書に記されている。私たちの本質は霊魂であるが、地上で着させられている肉体(幕屋)は不便が多い。しかし幕屋を脱ぎ去る“死”の後に与えられる体は天において心地の良い建物だというのである。恐らく天においては誰であるかはわかるだろうが年齢の識別をすることはできないであろう。イザヤ書や詩篇の中には「人は神を礼拝・賛美するために造られた」と表現されているが、地上での立場や年齢や性別、上下関係なく天においては永遠に神を礼拝しているのである。この地上での毎週の礼拝は、その天における私たちの姿を表しているのである。礼拝の後に「心が安らぎました」「恵まれました」「何故だか涙が出てきました」と感想を聞くことができるのは、まさに私たちの中にある“霊”の部分が神の霊によって共鳴しているからである。
 先日AIで作られたショート動画が出てきた。何とトランプ氏・プーチン氏・ゼレンスキー氏・習近平氏がキーボード、ベース、ドラム、エレキを担当して仲良くセッションしているのである。彼らが天国に行けるかどうかはわからないが、国籍、領土問題、争い、憎しみ、悲しみもない場所へ入ることが私たちの希望でありゴールである。キリストの贖いは完成している。それを信仰によって受け取ることが求められている。

  • 2026年元旦礼拝の動画を掲載しました。YouTubeで見る
  • 2026年4月~6月の予定を掲載しました。
  • 2025年5月6日 大和カルバリーチャペル 大川牧師就任55周年記念聖会での小﨑淳広牧師のメッセージ動画をリンクしました。YouTubeで見る
  • 2024年9月から日曜日朝9時からのシンプル礼拝がスタートしました。(45分で終了します)※静かな礼拝を希望される方にお勧めです。
  • <告知>堺チャペルは2024年8月25日をもって、キッチンIMUの閉店に伴い花園チャペルへ合流となりました。
  • 関西カルバリーフェローシップの歴史の動画を公開しました。YouTubeで見る
  • 花園チャペル案内の動画を公開しました。YouTubeで見る

 私は聖書を読む時、客観的に見るのではなく、そこに出てくる登場人物が、あたかも自分であるかのように置き換えている。その人の背景や状況、環境を知ると、その人の信仰の姿勢や神がなさる大きな愛とご配慮も見えてくる。私は不覚にも説教中に感動のあまり言葉が詰まることがある。あまりにも神の大きな愛を聖霊が運び私に迫ってくるからだ。
 先週3月8日の私達の礼拝では、青年女子の有志賛美グループ「花園シスターズ」が特別賛美したが、それを聴いて説教冒頭から涙で話せなくなるところだった。歌の内容はモーセの母ヨケベデの心情を表したものである。エジプトはへブル人に脅威を覚え「生まれて来る子を殺せ」との命令を下した。ヨケベデもその制裁の対象であった。自分の手元に置いておく訳にはいかなくなったので、生まれたばかりの愛する我が子をカゴに入れて川に流したことが出エジプト記に記されている。その時の母の気持ちを描写しているのが以下の歌詞である。
  小さなかご 水が漏れないように 樹脂とアスファルト塗る
  どんな気持ちか 彼女の目に 涙が流れる
  まんまるい目で 母を見つめる 子どもに口づけし
  かごを覆い川に浮かべ 切に祈ったでしょう
  あてもなく川にゆらゆら 流れ下っていく かご見て
  目を閉じても見える子と目を合わせ
  しゃがんで泣いたことでしょう

  あなたの人生 すべて委ねる 真の親 神さまの手に
  あなたの人生 すべてささげる 導かれる 神さまの手に
  主が救われる 主が導かれる 主が用いられる
  あなたを進ませる 命の主なり

 自分の人生そのものであった宝を手放すのは辛いが、もっと大きく安全な主の手に委ねる時に与えられる想像絶する愛とご配慮に涙が溢れる。

 つい先日、教会に来ている小学生がこんな話をしてくれた。「お父さんは、安倍首相が“教会”がらみでトラブルに巻き込まれたので、教会はヤバいところだと思っていたけど、今は違うことがわかって大丈夫になったらしい」。一般の人たちは「教会」という名称が付いたり「キリスト教系新興宗教」などと聞くと全て同類だと考えてしまう傾向にある。正統なキリスト教会は、彼らをキリスト教とは全く認めていない。彼らは聖書の一部を用いて自分たちに都合よく解釈しているだけである。
 世界のキリスト教会が採用している異端の判断基準はニケーア公会議などで確定された信仰箇条に基づいている。異端の判断基準を簡単にまとめると、三位一体(父なる神、子なるキリスト、聖霊の三つを一つの神とする)の教理の否定。救済論(キリストの十字架と復活)を否定し十字架の贖罪を完全ではないとする。聖書以外の特別な「聖典」や「預言」を付加する。キリストの神性の否認や再定義する。キリスト以外の人間を救い主とする、などが挙げられている。「異端」は主に教義上の逸脱(神学的問題)に焦点が当てられ、「カルト」は狂信的で心理操作や金銭的搾取、強引な勧誘など社会的に有害な行動をとるグループを指す。日本ではエホバの証人、末日聖徒イエス・キリスト教会、旧統一教会などが“三大異端”とみなされている。しかし最近ではこれらの基準に抵触しない異端チックな教団もアジアには存在するようになった。
 他には微妙な路線が自由主義神学(リベラル)で、伝統的なキリスト教教理を個人の理性や現代知識で再解釈する神学だが、これを異端とみなすグループと、みなさないグループに二分している。またAIを神学的判断基準にしてしまう人がいることも懸念している。チャットGPT自体が「検索者にもっともらしく都合の良い嘘の神学や誤情報(ハルシネーション)を生成するリスクもあり、情報元として正統なキリスト教以外に異端の神学も含んでいる可能性があるので参考程度にしておいたほうが良い」とも冷静に自己分析している。
 教会探しをしている方は、聖書の一部ではなく66巻全体を重んじる正統的な教会へ行かれることをお勧めする。

 ミラノ五輪では日本の選手も大活躍したが、SNSでは競技の外での行為に世界から称賛されている。日本は負けても横一列になり相手チームや審判団、観客に感謝と敬意の礼をする。また開会式や閉会式の入場時には、93の国が参加する中で日本だけが自国の旗とイタリアの旗を持って開催国への敬意を表した。私はたとえメダルを一枚も取れなかったとしてもこういった振舞いに誇りを感じ、これが“神の国”と繋がった。
 先日「大きな働きをしている人は天国で沢山のご褒美をもらうのでしょうね」という話を聞いた。聖書には「救い」は神の恵み(信仰)によるものだが、「報い(報酬)」は地上での忠実な歩みや働きに応じて与えられると記されている。「その時には、それぞれのしわざに応じて報いを与えます」(マタイ16:27)。また“5つの冠”が与えられることや地上での業に応じて神の国において大きな責任や権威が委ねられることが示唆されている。そして天国は単に「みんな一律に幸せな場所」ではなく、地上でどれだけ神や隣人に仕えたかの“忠実さ”が正当に評価される場所であるという。ただしその報酬は自己満足のためではなく、「その冠を神の御前に投げ出し神に栄光を帰する」(黙示録4:10)為だとも書かれている。
 それぞれ与えられている能力は違う。世的価値観によって嫉妬することは愚かにことである。たとえ5タラント持っていても用いなければ取り上げられる。会社を大きくした先人がいるのに、その会社の大きさに居座るだけの二代目・三代目が会社を潰すと言われているのに似ている。
 では神の国における待遇の違いに嫉妬はないのか? 嫉妬は罪の性質であって天国は罪が取り除かれた場所であるため、そのような感情は存在しない。嫉妬は欠乏の表れであるが天国では神の栄光に包まれ充足感があるため満足できる。そして他者の喜びが自分の喜びになる場所でもある。天における報酬の目的は競争のためのものではなく、神への奉仕や地上での従順に対する純粋な承認と愛のしるしである。
 どれだけ大きな働きをするかではなく、神に対する忠実さが評価されるのである。「よくやった忠実な僕よ」との言葉を目標にしたい。

 旧約聖書は新約聖書(実体/キリスト)の陰のようなものである。これは私が初心者に旧約と新約の関係をわかりやすくするために用いているパウロの言葉を借りた説明である。それぞれ全く別の書物ではなく、すべてにおいて繋がっている。100%と言っても過言ではない程、旧約の殆どがメシヤ(キリスト)のことを予表的に表している。それは登場人物の言動や起こった出来事だけではなく、祭司が執り行っていた祭儀など多岐にわたる。例えば祭司が執り行っていた燔祭を捧げる祭事も、後に永遠の大祭司として地上に来られるイエス・キリストを表している。
 多くの人たちが通読をパスしてしまうレビ記1~7章には祭司が行なうべき5つの捧げものが記載されている。①「全焼のいけにえ(火祭)」は神への全き献身、罪の贖い、神の怒りをなだめることを意味する。②「穀物のささげ物(素祭)」は“血の伴わない捧げもの”で神の赦しと恵みに対する感謝。③「和解のいけにえ(酬恩祭)」は文字通り、神と人との和解。④「罪のためのいけにえ(罪祭)」は、神から離れた生き方からの赦し。⑤「罪過のためのいけにえ(愆祭)」は“罪”によって引き起こしてしまった具体的なあやまちや行為(行動)に対する赦しである。これらの捧げものは完全なものでなければならなかった。これはイエス・キリストこそが完璧な捧げものとなってくださって、これらすべてを十字架で成就してくださったことを表している。パウロだけは「罪/sin」と「罪過/ transgression」を区別して書き、ヨハネなどは「罪/sin」を単数と複数形に分けてそれらの違いを表現しているが、いずれにしても私たちの神に対する不信仰と、それ故に起こした過ちの両方ともセットで赦されていることを表している。であるからキリストが大祭司としてこれらすべての贖いとなってくださった故に、神に繋がる(信じる)人たちに完全な赦しが与えられる安心が来るのである。信じていても赦されているか不安がくるのは、この事実を受け入れていないからである。こうやって旧約に生きる信仰者もキリストを信じていたのである。
 旧約は難しいと諦めないで、そういう視点で読み始めると開かれてくる。ハレルヤ!

 世界で一番長く続いている国はどこだか知っておられるだろうか? 当時世界最強の経済力や軍事力を誇っていたローマ帝国は西暦1453年にトルコに征服されるまで約2200年続いた。「中国、四千年の歴史」と言われるが、実際には王朝自体は何度も変わっている。古代エジプトも同様である。確かに文明や文化は残しているが、国としてはそんなに長くは続いていない。実はギネス基準でいくならば“日本”なのだそうだ。
 神武天皇が即位したBC660年1月1日(旧暦)を建国日とされていて以来約2700年にわたり、皇統で王権(王朝)をつないできた世界唯一の単一王朝国家だといわれている。ただこれは伝承による部分もあり、実質の建国は古墳時代(6世紀頃)と考えられてもいて、そうだとしても、1400年以上も続く日本は、“現存”する中で世界最古の国なのだそうだ。因みに二位がデンマークで三位のイギリスはまだ千年まで届いていない。長く続いている大きな理由の一つは周りが海で囲まれた島国で、なかなか外敵からの侵略がされにくかったということらしい。
 しかし千年以上続いていて現存している国が3ヵ国ほどしかないこと考える時に、他の国々は数百年の間に滅んでいるということなのである。現代においてもリアルに大国によって侵略を受けている国があることを考えると、これから数百年後の世界地図も大きく変化しているであろう。日本はいつまでも存続できると高をくくるのは大きな間違いである。
 神政政治(神が治められる)であったイスラエルは、紀元前千年ごろに周りの国々のように王が欲しいと求めたことによって王政となった。しかし王が自己実現に走ってしまった結果、五百年ももたずに国を失ってしまった。人間中心の社会は例外なく繁栄と衰退を繰り返している。これは天地万物の神の手の中で転がされているだけなのである。
 私たちが早く気付かなければならないことは、創造主なる神に統治されなければ、有能なリーダーが立っても国も社会も会社も続かないということだ。私たち個人も同じことである。自分ファーストは必ず衰退する。それは歴史が証明している。神の願いを願いとする者でありたい。

 「このようなことが起こるなんて神も仏もあるものか!」と文句を言う人たちがいる。恐らくどこに当たったら良いのかわからない感情をそのような形でぶつけているのであろう。確かにこの世には人間の頭で理解できないような不条理が起こることもある。だからといって神がいないとは断言できない。なぜなら私たちの考える都合の良い神がいないだけであって、私たちの理解や都合を超えた神はいる可能性は否定できないからである。
現在礼拝ではヨハネによる福音書から順番に講解メッセージしているが、著者ヨハネの焦点が明らかになりつつある。それは地上での“しるし(Sign)”は霊的世界の一部の表れであるということ。人々は自分たちの満足のために奇跡や不思議を求めていたが、イエスさまは彼らの思い通りの答えを出されず、それ以上の祝福について語られた。
 教会で「祝福」という言葉をよく使うが、これは一体何を示しているのだろうか? 一般的にはお金が増えるとか、人間関係が良好であることや職場や学び舎で成功することがそれに該当する。しかしこれは日本をはじめ経済成長している一部の国しか適用できない。世界に視野を向けると10人に1人が飢餓で苦しみ、3人に1人が毎日食事を食べることができない状況である。仕事や勉強することさえできない環境に置かれている人たちには祝福はないのか? 残念ながら聖書時代のユダヤ人はそれを“呪い”だと判断していた。
 聖書的祝福とは「人間に対して神が一方的な愛を注ぐ」ことであり、「神が共におられる(インマヌエル)」ことである。一般的な「願いを叶えてもらう」とか「世的に満たされている」という一方的なものではなく、神が共におられて、神の愛によって最善の人生へと導かれるという確信こそが神に繋がる者が持つべき“祝福”観なのである。
 経済が潤い住む家があり食べることができ癒され健康になれば感謝すればいい。しかしそうでなかったとしても神が共におられることに感謝を捧げる者でありたい。それこそが本当に祝福された人の人生である。

 先日ある場所でメッセージのご奉仕をさせていただいて感謝ではあったが、神のお叱りを受けてしまった。集会終了後にそこにいた方々と雑談している時に、ある方から「また来ていただけますか?」と質問された。通常は「はい、喜んで」と言うべきところであるが、私の肉の思いが勝ってしまい「ちょっと距離があるので・・・」としぶってしまった。帰宅してから落ち着かない気持ちになり心の中に響いてくる声があった。「あなたは『神実現』とか、『主の道具になり切りたい』」とメッセージしているのに、距離があるから行きたくない? 神実現なら神の願いがなることを願うことだろう? 神の道具になるということは、神が使われるならそこにいなければならないということだろう? 道具が何を言っている? それは自己実現ではないか」とかなり厳しく責められた。私は深く反省して「今日は用いてくださり感謝します。せっかく次回のお誘いをいただいたのに、否定的な返答をしてしまい神さまからお叱りを受けました。どうぞ私の高慢な態度を許してください。もし用いてくださるなら喜んでご奉仕させていただきます。」と関係者にラインした。
 牧師はメッセージする前に、まず自分が料理されなければならない。時として自分にはできていないことも、主からのメッセージとして会衆だけではなく自分に向けてもメッセージする必要がある。牧師も肉を着ているだけの一人の人間であり、神でも聖人でもない。日々様々な葛藤もあれば問題も起こる。神実現と自己実現の戦いの中にいる。
 これは神が「与える」と言われたカナンの土地に入った後のイスラエルの民と同じである。彼らは約束の土地に入ることはできたが、原住民がいたために一歩の土地さえ与えられていなかった。絶えず様々な葛藤をしながら戦いながら自分たちの領土を拡大しなければならなかったのである。これは神を信じる者のこの地上での生き方を示している。へブル書にはアブラハムはこの地上ではなく天にある故郷を見ながら生きていたとある。彼にとっての約束の地はカナンではなく天であった。この地上は天に入るまでの予備校である。そうやって信仰は強められる。