私は中学2年生の時に教会通いが始まり、3年生に上がるやいなや受洗しました。聖書を読むようになってから、人生観が変えられ、自分の存在価値を発見することができて、喜びに溢れたのを今でも忘れることができません。こんなに素晴らしい人生が与えられるのであれば、友人たちにどうにかして伝えたいと思っていましたが、口下手な私では的確に伝えることはできず、ただ祈るしかありませんでした。しかし当時の部活(テニス)仲間には、私がクリスチャンになったことは知られていて、数名は教会へ来てくれたりはしましたが、そのまま時は過ぎていきました。あれから40年過ぎて驚いたことは、なんと中学では2年の時と3年の時に、それぞれクラスメイトだった2名がクリスチャンになっていて、感動の再会があったということです。私が牧師になっていることを知って自己申告してこられました。高校時代の同窓生の中には牧師になって現在関東で牧師をしている人もいます。あの時の小さな祈りに対して、神さまは一筋の灯火を与えてくださっているように思います。
 バウンズ師は、「祈りは不朽のものであって、これをささげた唇は、死のために閉じ、それに感動した心臓は、鼓動を止めても、祈りは神の前に生きている。」と言いました。私の祖父はクリスチャンでした。自分の子供たち家族の救いのために祈っていましたが、生前にそれを見ることはなく召されていきました。でもその死後から不思議なことが起こり、子供3人が全員神さまを信じ、孫である私まで、その恵みが及びました。
 「神さまの沈黙は涙だ」とある書物に書かれていましたが、もし、悲痛な祈りをしても何も起こらない時、それは神さまが涙を流しておられる時なのだということです。イエスさまが、十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれた時、父なる神さまは何もされませんでした。私たちに対する救いを成就するために涙しながら耐えておられる時間だったのです。
 「神のなされることは皆その時にかなって美しい・・・人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道3の11)