ある掲示板に、このようなユーモアのある言葉がありました。「神が遠くに感じるとしたら、神を遠くに移したのが一体誰だろう。」神が遠く感じるなら、それは私たちの心が鈍くなったからです。神がおられないように感じるなら、それは私たちの心の目が見えなくなったからです。神を一度も経験できないとすれば、それは霊的な感覚が死んでいるからです。霊である神は、秘密の日差しのように私たちをいつも照らしています。暗い夜にも太陽の光が地球を照らしているように、神がいないように感じるときにも、神は私たちと共におられます。風一つ感じないようなときでも、風はいつも吹いているように、神の働きを感じることができなくても、神は私たちのために働いておられます。秘密の日差しを感じることのできる敏感ささえあれば、私たちはいつも神のご臨在の中で主の導きを経験できるのです。
 日常の生活のなかで、私たちが出会う人々、私たちの目に入ってくるもの、耳に聞こえてくる音の中から、神さまが働いておられること、導かれていることを悟ることを「日常の宝探し」と呼んでいる人がいますが、私たちも、沢山の宝を日々発見させていただきましょう。
(キム・ヨンボン著「隠れておられる神」より)
 
 私の中に、ある歌の歌詞に「日常という奇跡」という言葉が、印象的に残っていますが、確かに日常は当たり前ではなく奇跡の連続であると思うのです。私たちは、当たり前のようにして朝目覚め、話し、歩き、食べ、夜眠りにつきます。これら一つ一つの動作も深く考えるならば、奇跡的なことなのです。充電しなくとも心臓は鼓動し、呼吸もしています。今の技術をもっても同じものは作れない精巧な目というレンズで物を見て、瞬時に飲み物の温度を想定して、カップを持つ力や傾き加減と口に含む量を計算しながら口元へ持っていきます。どれ一つとっても、“当たり前”は、実は“当たり前ではない”のです。このように、普段の“当たり前”を、指折りながら数えたら、感謝しきれないほどの奇跡の中に生かされていることに気付くのではないかと思います。栄光在主。