この世には様々な個性の人がいて成り立っている。必ずしも自分と相性が良い人ばかりではない。中には積極的な人もいれば消極的な人もいる。強い人もいれば弱い人もいる。頭を使うことが得意な人がいれば体を使うことが好きな人もいる。個性が統一されていたら世の中回らなくなってしまう。強者ばかりがいても混乱が生じるであろう。弱者あっての強者であり、強者あっての弱者である。問題はそれぞれが批判しあうところにある。それぞれを受容し認め合う社会になれば、どれほどこの世は住み心地良くなることかと思う。しかし“自分”が中心になり“自分”が基準になるとなかなか難しい。
私は昔、教団教派があるのはキリスト教会の堕落した姿だと思っていた。しかし今はキリストの体の各肢体としての個性だと考えるようになった。だから“目”の働きをしている部位が「見えていないから手は必要ない」とは言えないのである。それぞれが独特な働きをすることによって一つの体が形成されている。他者を批判するエネルギーがあれば、その分、宣教の働きに注いだ方が主に喜ばれるであろう。
ある牧師がこんな質問を受けた。「どうしてイエスさまはイスカリオテのユダのような裏切る人間を弟子にされたのですか?」この質問に答えを見つけることができず、少し研究してから答えると返答した。その後、その牧師はみことばを詳しく調べ研究したが満足のいく答えが得られなかった。そんなある日、この問題についてもう一度黙想していたとき、ふと他の質問が心に突き刺さった。それは「何故ユダのような人を?」ではなく「何故、主は私のような人間を主の僕として選ばれたのか?」と自分に向けたものであった。その時、言葉を失い、溢れ出る涙を抑えることができなかった。名誉やお金や人気を求める自分の姿は、まさにイスカリオテのユダそのものであった。主は間違って選ばれたのではなく選ばれた者が自分中心に生きていることが問題だということに気づき、
その日以来、この牧師は変化し教会全体も変わっていったとのこと。
「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。」(Ⅰコリ15)
