花園チャペルに通う小学生たちから驚きの発言が飛び出している。「今度の土曜日はユニバに行く止めて教会のキッズクラスに来るねん!」「今度の日曜日、〇〇へ行かなあかんねんけど、教会に来れないのが嫌やねん」「昨日の夜、教会行くのが楽しみ過ぎて寝れんかった」朝の登校時間帯の旗振りの時には「今日は教会開いてる? 学校終わったら行くで~」と声を掛けられる。それぞれ違う子どもたちからの声なのだが、何がそんなに楽しいのであろうか? 平日は私も執務があるので一緒に遊んであげられない。宿題をするためになら来ても良しとしているが、何のイベントもないのに15名近く集まることもある。会堂前には自転車置き場があるが、そこに友達の自転車を発見すると芋づる式に吸い寄せられて来るようだ。娘がいる時には解散時間のラスト10分だけ一緒にゲームをする。なかなか帰ろうとしない子どもたちに「早く帰りなさい」と追い立てる教会も珍しい。先週の午後礼拝には大人と同等の人数の子どもたちが座っていた。これらの現象を見て思うことは、これが本来“主の家”のあるべき姿だということである。
ダビデは詩篇の中で何度も「私は永遠に主の家に住みたい!」と言った。敵が自分を襲いかかっている時にも、生活の真ん中で激しい戦いがある時にもしがみついてでも神の家に戻りたいという感情を表している。
「神の家」とは何なのか? それは礼拝する場所のことを指している。彼はいつ何時にも神さまを礼拝することを求めた。“礼拝”の何がいいのか? なかなか理解できない人は多いと思うが、これが私たちの究極の姿なのである。詩篇やイザヤ書によると私たちは「神を賛美し礼拝するために造られた」とあるように、主を礼拝する時にこそ本当の満足が訪れるようにそのDNAに刻み込まれているのである。
新約の時代に入り私たち自身が聖霊の住む神の宮であるというのであるが、物理的にそれを表しているのが“教会”である。今は子どもたちはただ「ここにいたい」と思っているだけかもしれないが、その魂が神を礼拝することを求めているからだということにいつか気付いて欲しい。
