何ヶ月も前の話であるが、何人かの小学生たちが私のところに来て「教会のポストが蹴られて壊れたんでしょ?」と聞いてきた。私は意味がわからなかったので「そんな事実はないよ。学校にもクレームしたことないし、誰がそんなこと言ってるの?」と問うと、その現場を見ていた人が学校に通報したので全校集会の時に校長先生が注意したらしい。実際に教会に何か被害があったわけでもなかったのでそのままにしていたが、それからしばらくしてその小学校の校長先生が学校行事の予定表を持ってきてくださった時に、「そのようなことを言ってる子どもたちがいたが、どういうことだったのですか?」と問うとこんな返答であった。「あーそうではなく、私が説明したのは、教会の隣にある駐車場の柵に貼られてある政党の応援ポスターを蹴って破ってしまった子がいて、それを見ていた他の子が学校の先生に報告してきたので、それを注意したんですよ」それを聞いて驚いた。子どもたちの中で「教会」というキーワードだけが頭に入り、自動的に「ポスター」が「ポスト」に変換され、牧師が学校に文句を言ったということになっていた。
しかしこのような現象は子どもたちだけではなく、我々大人もしでかしてしまうことがある。自分の都合の良いように変換していくのである。その最たる例が「“みんな”が言っているから・・・」というワードである。本当は自分に賛同してくれる数名しかいないのに“みんな”と表現するのである。一つの言葉だけを切り取って都合の良いように解釈していくのはメディアがよく使う手法でもある。
私たちは“今”という点だけを切り取って一喜一憂しながら生きているが、神さまの壮大な計画は“点”ではなく、“線”で結ばれていくものである。自分の都合によって解釈してはいけない。現状だけを見て結論を出すのは早すぎる。もし神は私を最善に導かれることを信じているならば、その“線”が恵みの線となっていることを信じるべきである。
「ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)