昔の週報を整理していたところ5年前の「心のオアシス」を発見した。その内容を読んで改めて先日天に召されていった長老さまの心の姿勢に感銘を受けた。一部抜粋すると「先週の礼拝前に私たちの教会の80代の長老様とお祈りをしていた時に、こう祈られていました。『神さま、最近は耳も遠くなり、目も見づらくなってきました。これらは神さまから貸し与えてくださったもので、やがてはお返しすることになりますが、この目を耳を体を貸してくださったことを感謝します。』役に立たなくなってきた目や耳に不平や不満を言うのではなく、“ありがたい”という気持ちを持って生きておられることに感動しました。」
 ラインホールド・ニーバーの祈りの中に「神さま、変えられることのできるものは、変えていくエネルギーをください。しかし、変えられないものに対しては、それを、受け止めていく忍耐をください。そして、このことは変えることができるのか、変えることのできないものか、それを見極める英知を与えてください。」というのがあるが、確かに現実の世界においては、どれだけ頑張っても祈っても変えることができないことはある。“加齢”もその一つであろう。しかしそれさえも感謝しながら歩めたら、どれだけ恵まれた人生になろうか。しかし、私たちは更なる希望の中に生かされている。イエスさまを信じて歩む者は、“完全な者にされる”ことが約束されている。“完全な者”とは、病からの完全な癒し、あらゆる障がいや問題からの完全な回復である。「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録21章4節)。
 ここ数ヶ月の間に私たちの教会のご高齢のメンバーが何人か天に召されていった。癒しを求めて祈り祈られてきたが、“肉体の死”を通して、祈りの成就を本人たちは体験しておられることであろう。残された者たちには寂しさや悲しみはあるが、神を信じる者にとっての“肉体の死”は、天を指し示す道標に変わる。そして本当の人生はそこからスタートするのである。今の世は天国への予備校にしかすぎない。