「不正の富を用いなさい」とは、先週の礼拝メッセージのタイトルであった。これは私が発した言葉ではなくイエスさまが語られた内容である。もしこの説教題が教会玄関の掲示板に掲げられていたら、「ヤバい教会?」と思われるであろう。長年不可解であったこの箇所を理解できたら一番恵まれる箇所となった。是非1月21日のYouTubeをお聴きになってください。このメッセージを聴いた方で、介護とかヘルパーをしておられる方々から感謝の報告があった。内容は「会社の規則だとお金や物の受け渡しは禁止されているのですが、どう見ても何も食べていない状況で、このままだと何も食べないで過ごして倒れてしまうだろう人や、お金を貸して欲しいという人がいて、本当に困窮していて、何もしてあげないと大変な人にお弁当を買ってきてあげて一緒に食べてあげたりすることがあるのですが、いつも会社の規則と助けてあげなければならない現実の狭間でジレンマを覚えていたのですが、今日のメッセージで肩の荷がおりました。」というものであった。確かに、会社規則は働く人を守るためにあるが、その規則の故に助けることのできない人がいるのも事実である。勿論、教会が会社規則を破ってまで人を助けてあげなさいと言うことはできないので個人の判断に委ねるしかないが・・・
パリサイ人や律法学者たちにとって、罪人と食事を共にしたりすることは律法違反であり不正行為となる。であるからイエスさまは、罪人を赦し受け入れることを「不正の富」と表現された。この「不正の富」を用いて友を作りなさいとういうのである。“神の正義”は、罪に対しては裁きと罰が加えられることを意味する。しかし“神の愛”は罪人を赦し受け入れるというものである。この互いに相容れることができない世界を全うされたのがキリストの十字架であった。イエスさまは神の正義に反して赦す選択をされたことによって人の罪が赦された。しかしその神の義に対する不正行為(赦す)によって十字架にかかられた。
我々の正義は人を赦せないが、主は「赦せ」とおっしゃる。これが「不正の富」であり、「不正の富」で友を作った人は天で迎えられるのである。