大晦日の夜、教会メンバーのAさんから電話をいただいた。「入院中の父親が洗礼を受けたいという意思表示をしました」との内容であった。私たちはとるものもとりあえず病院へ向かった。Aさんの母親とお姉さん家族は共にクリスチャンだが父親だけは「自分はクリスチャンには絶対にならない」と宣言しその意志を変えない拘りをもっている人であった。数ヶ月前、誤嚥性肺炎になり入院してからもその意志は変わらなかった。そのような中でAさんから一か月ほど前にLINEが届いた。「昨日、奇跡的な不思議な事がありました。面会に行った時にしんどい時は『イエス様』って言うんよと、母が言うと父自ら『イエス様、もうしんどいです。助けてください』と言葉しました。その後も『イエス様のもとでねむりたいです。』『明日は良い朝を迎えられますように』『イエス様に早く治るようにして下さい』とイエス様を求めるようになりました。病院のスタッフに暴言ばかり吐いていた父が考えられない言葉を口にするので、みんなびっくりしてます。その後、イエス様を受け入れるお祈り(罪、十字架の身代わり、信じる)をすると「アーメン」と言ってくれました。奇跡すぎて実感がわかないのですが、とにかく主の御名をあがめます。」 
 そして大晦日に病院から「夜になって血圧、脈が下がりました。病院に来て下さい」との電話があり家族が集まった時にお父様は洗礼を認諾された。病院に着くまでAさんは、「いよいよ来るべき時が来たのだと自分の心に言い聞かせ、覚悟して病院に向かったのですが、実はそれが洗礼の恵みに繋がっていたとは・・・」と感動しておられた。
 旧約聖書の中に「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3章11節)とあるが、私たちは“今”という点を見ることは得意であるが、私たちが生まれてから死ぬまでの全体を見ながら判断することはなかなかできない。時間を超越しておられる創造主に人生を預けたらこれほど楽なことはない。一喜一憂しても神の最善がなされることに感謝