ここ数ヶ月、ほぼ毎週遠方からお客様が礼拝に来られる。母教会時代に祈って支えてくださった方々や、担当していた学生会の元学生たちである。ありがたいことである。そしてここ数回、礼拝後に講壇から牧師である私が会衆の写真を撮っている。そこには理由がある。特にご高齢の方々は、もしかしたら花園チャペルの礼拝に足を運ぶ最後になるかもしれないので、クリスチャンではないその家族に対するその足跡を残して証としたいからである。「縁起でもない」と批判を受けるかもしれないが、神を信じる者にとって「死」は天国への入口であり、残された者も再会できる希望を持っているので、悲しみはあるが本来は未来への期待に繋がっていることでもある。
人間はいつ召されるかわからない。順番が逆だと思われるようなことも起こり得る。そういう意味においては、毎週のメッセージは私からの遺言のようなものである。「説教とは、まさに今死なんとする者が、まさに死なんとする者の危機感の中で何を語るか」と言われるが、今日召されるかもしれない私が、もしかしたら今日の礼拝が最後かもしれない人に向かって何を語るのかという緊張をいつも覚えながら語っている。
 花園チャペルには、感謝なことに近所の小学生が日曜日は一日中入り浸ってくれているが、その中の一人の女の子が突然教会に来なくなった。登校時の交通安全の旗振りをしているが、その子は2週間登校しなかった。心配になって他の子に聞いてみるが「風邪?」「家の事情?」などとみんな言うことがハッキリしない。この子のために2週間、毎日思い出す度に何度も祈っていた。そして3週間目の火曜日、旗振り時に登校してくる姿を見つけ、私はボランティアを放棄して駆け寄り喜んだ。まだ鼻声ではあったがその子の口から「早く教会に行きたい」との一言。YouTubeで礼拝も視てくれていたとのことで涙が出るほど嬉しかった。天のお父さまの気持ちが少しわかったような気がする。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)