「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3:11)と「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ書8:28)の聖書の言葉は、私がいつも考えさせられる内容である。時として「これも神がなされること?」「こんなことが益になるのか?」と思えるようなことも起こるものである。勿論、人間の罪によってもたらされる試練はある。しかしそれでは割り切ることのできない困難もある。これをどのように解釈すればいいのだろうか?
 私たちはけっこう自分のことに関しては“点”でしか物事を見ることができない。すなわち“今”の時点でどうなのか?ということに拘りを持つ傾向にある。“今”だけを見ると、大きな問題が立ちはだかっていたり、病気であったり、障がいなどが、私たちに希望を持たせなくする。しかし私たちの“今”は“点”でしかない。神さまは奇跡の点の連続(私はこれを「永遠の線」と呼ぶ)に生きておられるお方で、各個人の人生や世界の歴史をすべ治めておられる。もし天地宇宙を造られた神さまに対して全幅の信頼を置けるなら、万事を委ねることができる。
 先週、食道ガン末期状態で余命宣告を受けている私たちの教会の長老さまが、曾孫さんも含めて総勢20名で教会の礼拝に参加された。八十数年間、病気らしい病気になったことがない方が、どうしてこんなことになったのか? 私は神さまに何度も文句を言った。しかし答えは「万事は益」としか返ってこない。「親族全員で礼拝に出席することが夢である」と長老さまは常々語っておられた。それが叶えられる形にはなったが、それだけで“益”だとは思えない。これはただの序章の点にしかすぎないと私は信じている。「彼(イエス)は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び神の御座の右に座するに至ったのである。」(へブル書12:2) 死に至るまで忠実でありたい。