「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって」(ゼカリヤ4:6)は、関西で開拓を始めた当初から握り続けてきた聖書の言葉である。13年前に東大阪の土地に移り住み、助け手もいない、礼拝場所もない、財力もない状況から、ただ手探りだけで伝道を開始した。他教会の牧師先生たちや信徒の方々からは「どうして開拓12年で会堂が建ったのですか?」とよく質問される。多分、開拓のテクニックなどを知りたいと願っておられるのかもしれないが、私の答えは「私にもどうしてなのかわかりません。神さまが必要とされたからだとしか言えません」である。私が途中で諦めたり、つぶれなかったのは、実践面では自分にできることはベストを尽くしてきたが、精神面においては、最初にあげた聖句を握り続けることに加え、一つは「自分の夢を持たない」ことだった。巷では「夢を持て!」と教えられることに逆行することになるが、私はこれが重要なポイントだと考えている。“自分”の夢を持つと、なかなか願い通りにいかない現実に疲れ果ててしまう。しかし“自分”ではなく“神”の夢を持つことによって挫折することはなかった。「神の夢」を持つとは、何であろうか? 「人の魂が救われる」ことだろう。その他の細かいことまではわからなくても良い。神の計画や願いのみが自分の身に起こることを求めることによって挫折することはなかった。そして日々の自分のための祈りは「ただ主の奴隷として、道具としてのみ用いて、神の願いが成就しますように」だけであった。最近は「恥は我がもの、栄えは主のものとしてください」が加えるようになった。“道具”自身は勝手に動いてはならない。使用者の思うままに使用されなければならない。
イエスさまの弟子たちを調べてみても、能力があったり、財閥であったり、人格的にできている人というわけではなかった。田舎の名も知れない漁師や罪人とされていた取税人であり、このような人たちから全世界に福音が広がるわけがないと思われても仕方のない弟子たちであった。しかしこの小さき人たちを通して全世界に福音は伝えられ、今や世界中にキリストの名は知れ渡った。主権を主に渡すだけで不思議は起こる。