「主にあって何とかなる!」これは私がメッセージの中でよく発する言葉である。なぜなら多くの人たちは社会や学び舎、家庭の中で“どうにもならない問題”を抱えて苦しみ絶望へと追いやられることがあるからだ。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。」(Ⅰコリント10章13節)とあるが本当にそうなのだろうか? その“試練”が“辛いこと悲しいこと”という意味では、神は人に“越えられない試練”は与えると思う。たとえば重い病気の人に「神さまは乗り越えられない試練は与えないから必ず治るよ」などと簡単に言うのは無責任すぎる。
すべての苦しみや悲しみを自分の力で越えられるのなら、人間は神を必要としない。神はときとして自分の力では乗り越えることのできない苦しみや悲しみや困難を与えることもあると私は考えている。特に「死」の問題は人間には絶対に越えることはできない。乗り越えられないからこそ神の助けを求めるのである。
ある方がこんなことを書いておられた「子どものころ、ときどきプラモデルを作りました。でも自分で全部簡単にできてしまったプラモデルよりも、自分ではうまくできなくて父に手伝ってもらってやっとできたプラモデルの方が後々までずっと愛着が残りましたし、何より父との良い思い出になりました。」
人生は神と一緒に組み立てるプラモデルのようだ。それはとても複雑で難しいかもしれないが、神が用意した完璧なプラモデルはパーツが足りないという事態は起こらない。神と一緒に組み立てていけば必ず完成するようにできているし良い想い出にもなる。だから本当に辛い悲しいことに直面したら「越えられない試練はないんだから越えてやる」と思うよりも、「神さま、私には越えられません。助けてください」と告白してしまう方が良い。実際に私の人生を振り返ってみても神の助けはどの試練の時にもあった。そして人間最大の壁である“死”さえ天国への入口へと変化させてくださったのである。「主にあって何とかなる!」