ある小説家が、「わたしは人里離れた場所に数ヶ月こもって一つの作品を生み出すが、牧師が毎週違う説教を産み出すことができることに驚きを覚える」と言っていた。確かに私も牧師になる前から毎週のメッセージを考えるなんて自分には絶対に無理だと考えていた。しかし神さまの私に対する計画は、“その道”に進むということだったようで、今は一つの教会の牧師として13年間毎週の説教を全うすることができた。今から振り返ってみても「これは権勢によらず、能力によらず、わたし(神)の霊による」(ゼカリヤ4:6)の通り神業だと思わされている。勿論、人間の側の努力はしなければならないことは自覚しているので、日曜日が終わったら、すぐに次の週のメッセージに取り掛かる。祈りつつ聖書箇所の研究をし、なるべく平易な言葉で、初めて教会に来られる方々にも伝わるように原稿を整える。私の場合は連続講解説教(聖書の中の一定の文書を連続して説き明かす)に、主題説教をブレンドした説教法を用いることが多いが、この場合、説教箇所は順番なので選ぶ必要はないが、、難解な箇所になった時に飛ばすことができないという難点もある。しかし、どのような箇所であっても、説教者側の祈りと努力の結果を、聖霊さまがお運びなさるなら、人の心に必ず届くということがわかってきた。
先々週と先週は連続で新来会者が来られた。それぞれの聖書箇所は、へブル書9章と10章。読まれたらお分かりいただけるかと思うが、初めて聖書に触れる人が読むべき箇所ではない。百歩譲って雄弁にわかりやすく語れたとしても、その箇所の内容そのものが初心者向けではない。ただひたすら主に祈った。礼拝後にそれぞれの新来会者からの感想は「とてもわかりやすく解説くださり、よく理解できました。そしてとても感動しました。週報に書いたあった入門講座を是非受けせて欲しい」と、早速その日にちが決まった。驚いた私は思わず「ほんとですか? あの内容でですか?」と言ってしまった。「初心者は、読んでわかる聖書箇所でないと届かない」というのは牧師の思い込みで、神さまのやり方は、人間の考え方とは違うのである。私たちが諦めても神は奇跡をなさる方。