先週は長崎の旅から考えさせられたことを書いたが、今週もその続きになる。ポーランドのカトリック司祭であったマキシミリアノ・マリア・コルベ神父は1930年から6年間、長崎に住んでおられた時期がある。今回の旅の中で、コルベ神父が1年間住んでおられた家を訪問した。現在1階はショップと資料館になっていて3階にはオーナーが住んでいる。
 ポーランドに帰国してから5年後、ナチス軍に逮捕され収容所へ送られ、1941年7月末、収容所から脱走者が出たことで無作為に選ばれ10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者は、この申し出を許可する。コルベ神父と9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベ神父は毅然として他の囚人を励ましていた。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツは、「牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた」と証言している。2週間後、当局は神父を含む4人はまだ息があったためフェノールを注射して殺害した。通訳者はこのときのことを次のように証言している。「マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べました。私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。監視兵が出て行くと、もう一度地下に降りました。神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていました。その顔は穏やかで、美しく輝いていました。」
 聖書的ではないが、私は「あの人の問題を私が受けますので、病を受けますので助けてあげてください」などと身代わりの祈りをすることはあるが、コルベ神父のことを考えると自分はまだまだだと思わせられた。それを考えるとイエスさまの身代わりの十字架は想像を絶する。