1900年前後に、アメリカの大リーグで活躍した奪三振王がいる。その名はサイ・ヤング選手。彼が亡くなった翌年に、その偉業を称えて、サイ・ヤング賞が設けられ、毎年優秀な選手に贈られることとなった。ヤング投手は現役時代に記者から「あなたはどうして多くの三振を奪うことができるのですか? その秘訣は何ですか?」問われた時、こう答えた。「僕は投げる時、対戦するバッターがどんな選手であっても、気にしないで自分のベストを尽くすだけ。悔いがないように投げたら、あとはバッター任せなんだ。相手が打っても打たなくても、心は揺すぶられることはない。なぜなら自分がベストを尽くした結果なんだから。」ここから「私たちはベストを尽くして、結果は神さま任せ」という私の名言(?)が生まれた。世の中は、自分の求める結果を残すために必死に生きている。だから結果が残せなければ自分を否定したり、他者を責めたりもする。悔しい思いをバネにして次に生かそうとする人もいるが、そこには多くのストレスがかかる。もしベストは尽くしながらも、結果には拘りを持たなければ、継続することが容易になる。私は教会開拓はこの気持ちが大切だと思っている。結果は神さまが与えるものだと考えるなら、たとえ会衆が1名であっても、それが何年続いたとしても、悩むことはない。やり方を試行錯誤しながら全力で主にお仕えしていくだけである。「神実現の人生」という言葉も、ここからひらめいた。“自己実現”を求めると苦しくなっていずれはやっていけなくなる。でも“神実現”に生きたら、自分はただ神さまに用いていただく“道具”だという意識があるので、神さまがご自分のお好きなように全てを導いておられるという安心感のあるおめでたい生き方ができる。しかしその“道具”が何もしなければ、それはただの怠慢である。全力を尽くすことを聖書は教えている。そして“委ねる”のは、その“結果”である。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8章28節) これを信じれば委ねることはできる。