怒涛の二週間に渡る3つのキャンプが終わり、夏が過ぎたような気分になっている。私たちの教会の大人しく(?)他教会とあまり交流のない若者たちが、しかも泊まりで参加してくれるかが心配であったが、応答してそれぞれのキャンプに分散して参加してくれた。嬉しい限りです。それぞれがイエスさまに従っていきたいという決意を新たにして帰ってきた。そして他教会の同年代の人たちからも良い刺激を受けてきた。実りある良い収穫だったと思う。それぞれのキャンプの若先生方は表裏の奉仕を全力で仕えてくださり大変感動した。
 私たちは何か事を成し遂げたりしたときに「自分を見てほしい」「話を聞いてほしい」「誰かに褒めてほしい」といった「他者から認められたい」という承認欲求がある。それは誰もが持っている自然な欲求ではあるものの、時には自分自身を苦しめたり、周囲の人を不快な気持ちにさせてしまったりと、強すぎる承認欲求には良い影響を及ぼさないものもある。世の中の奉仕やボランティアの中には、自己アピールのためにしているケースも少なからずあるようだ。しかし「誰の目に留められていなくても、神さまが知っていてくださるなら、それで十分」という主にある働きは、褒められても指摘されても、有頂天にもなることなく腐ることなく前向きに生きることができる。そういう意味において、どのキャンプの奉仕者も、そのような姿勢で働いておられた。
 星野富弘さんがこのような詩を書いておられる・・・
  誰がほめようと、誰がけなそうと、どうでも良いのです
  畑から帰ってきた母が でき上がった私の絵を見て
 「へえっ」とひと声 驚いてくれたら それで もう 十分なのです

 八風吹いても動じない生き方ができれば、どんなに楽かと思わされる。そのためには信頼できるお方、イエスさまが私たちを「へぇっ」って受け留めてくださっていることを知ることが大切だと学ばされる。私もその領域に近づけるよう主を見上げて歩んでいこうと思う。