今週から怒濤の2週間が始まる。コロナも感染症第5類に落ちて青年や学生、小学生のキャンプが各地で再開しているが、私たちの教会が関わっているキャンプが3つ連続で行なわれる。参加するだけでも1つのキャンプだけで疲れるだろうが、実行委員側として3つ連続でとなると大変なことである。打ち合わせをしていても、どのキャンプのことを話し合っているのかわからなくなる。すでに各キャンプ60人前後が集まる予定となっている。次世代の人たちに確実に福音が宣べ伝えられ、主に対する熱い思いが与えられ、他教会の若者たちとの交流を通しても勇気づけられ信仰を堅くすることができるよう願っている。
榎本保郎先生の「一日一章」の書物の中でこのようなことを書いておられ励まされた。「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、指し手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても決して勝利できないのである。逆に紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。大切なことは、誰に進められ、誰にさされて自分の人生を歩んでいくかということである。この決断こそ私たち人間の責任なのである。駒は指し手のままに進まねばならない。時には敵の陣地に乗り込み、犠牲になることがあるかもしれない。それでも良し、と絶対に指し手を信頼していかなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最も大切なのだと御言葉は教えているのである。
キャンプもそうであるが、日々の歩みの中で心配事は絶え間なく起こるものである。自分の力で乗り越えようとすると様々なストレスや問題が生じる。自分を“駒”と見なし“指し手”である創造主なる神さまに委ね、ベストを尽くし結果は神さまに委ねることができれば安心である。