先週開催されたKCF設立13周年イベントは大盛況で感謝でした。私たちの教会のとっては初のクラシック・ソプラノ・リサイタルと福音落語のコラボであった。そこにおられた人たちにとって至福の休日となったことは間違いない。チラシを見て何人かのご近所の人たちも加わってくださった。蒔かれた福音の種が、思わぬ時に思わぬ所で実を結ばせてくださることを確信している。
 平日に近所の小学生が遊びにくることがある。インターホンのカメラ越しに子どもたちだとわかっても「子ども110番」に登録している手前、居留守を使うわけにはいかない。先日も汗だくになりながら、かくれんぼをしてゲームを一緒にしていた時に小学3年生の女の子が「ねぇねぇ、私のおじいちゃんになって~」とお願いされた。理由はその子が生まれた時からおじいちゃんがいなかったからということらしい。私は“おじいちゃん”と呼ばれたことにショックを覚えながらも、「いいよー、チャペルではあなたのおじいちゃんねー」と答えておいた。
 「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。 律法のない人には-わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが-律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」(Ⅰコリント9:19-23) この姿勢は大切だと思わされている。なぜなら心が開かれていないならば語る福音は届かないからである。
 “イベント”や“おじいちゃんになること”をさえも宣教の第一歩だと考える。暑い夏でも子どもたちとかくれんぼできることを感謝しよう。