キリスト教会はキリストの体として存在している。それぞれの教会の役割は違う。それは聖書にも書いてある通り、多くの肢体としてそれぞれがキリストの体を構成している。コリント書によると目が手に向かって、また頭が足に向かって「おまえはいらない」とは言えないというのである。キリストに繋がっている教会は、それぞれがその役割分担を担っている。大きな教会も小さな教会も、この地上には完全な教会があるわけはないので、多少の問題があってもお互いがそれを認めていかないといけない。それと同様、各教会の中にもそれぞれの個性があり、違う賜物の人たちによって成り立っている。群れを乱すのでなければ、どんな人たちも受け入れ合わなければならない。好き好みはあっても良いが、教会はお互いが受け入れ合い許し合うために存在している。旧約時代の幕屋も完全ではなかったように教会も完全ではない。やがて主が来られる時に完全な形でそれが完成されるのである。
先週、近所の小学生たちが誘い合って芋づる式に日曜学校に参加した。初めて来てくれた子どもたちも「どうしてこんなに楽しい場所を作ろうと思ったの?」とか「ここにずっといたい」と言って、昼になっても帰ろうとしない。家の人たちも心配するし、ずっと相手をしているわけにもいかないので一旦帰らせたのだが、午後にも来させてといって、また新しい友達を連れてきて午後の礼拝の前半の賛美まで会堂の一番前の席で賛美していた。メッセージの時間は、恵伝道師が別室で午後の日曜学校をしてくれた。そこに来られていたご夫妻の奥様が「主人はいつもディサービスで同じ年代の人たちと楽しくはやっていますが、今日は子どもたちに接して、顔つきが活き活きしています」とおっしゃっていた。これが教会での恵みだと思う。午前の礼拝後は、コーヒーを作っている人、子どもたちを相手している人、談笑する人たちもいれば、若者たちは他の部屋で話し合っている。牧師室では役員会が同時進行。新会堂は効率的に用いられている。そしてそれぞれの賜物が活かされている。しかし献身者が少ないのでフォローできなくなってきた。主に祈ろう。