多くの人たちは“自分の将来”を知りたがり、運気を高めるために、何か霊的なものを求める傾向がある。科学的根拠は何もないが、占いを求めたり、スピリチャルスポットと呼ばれる場所を訪れたりするのは、その良い例であろう。朝のニュースの終わりにも「今日の運勢」といって、その日一日の占いまでが紹介されるほどである。需要があるからこそ毎日流されているのであろう。この現象を聖書的に解釈するならば、元々人間の本質は霊であって肉体を身にまとっているので、それがぼやかされている。精神的・肉体的な満足を求め満たしながら人間は生きているが、実は神が私たちに与えられた“霊”のタンクがあって霊的教育を受けたことがなくても、そこを満たしたいという願望が自然と起こるのである。天地宇宙を造られた創造主との繋がりがない人は、“霊的死”の中にいるが、そこを埋めるために様々なものを求めるが満足はない。
詩篇102:19によると、私たちは、主を賛美(礼拝)するために造られたとある。私たちの本質は、神を礼拝したくてたまらないのである。実は神を礼拝するときが一番人の魂は安息の中にいる。一般的に天国は楽園のような場所だとイメージするが、そこでは何がなされているか? 神を礼拝しているのです。旧約時代のイスラエルの民は幕屋を造り、そこで小羊を捧げていたが、これはイエス・キリストの贖いの業を予表的に表していたものであった。では2000年間世界で行なわれているキリスト教会の礼拝は何を表しているのか? 実は“天国”を予表しているのである。地上の幕屋は完全ではなかったが、キリストがそれを完成なさった。そして地上の礼拝も不完全ではあるが、終末に教会が携挙(天への引き上げ)される時に、そこで真の礼拝が捧げられるようになる。
現在聖書セミナーでは黙示録の連続講解(限定公開)をしているが、「終末の恐ろしいイメージが希望になった」などの反響をいただいている。私も礼拝を大切にする重要性を学ばされている。主よ来たりませ!