教会がキリストの体として生きている証拠の一つは、そこに繋がる人々に大きな変化があるということ。罪の中にいた人が悔い改め、落ち込んでいる人が元気になり、絶望の中にいた人が希望を見いだし、悲しんでいた人が喜べるようになると、「何がそうさせているのか?」という疑問が出てくる。確信して言えることは、神さまを求める人々に聖霊さまが触れてくださり人生を変えてくださっているということです。
 私たちは神によって創造されたとありますが、与えられた存在目的は“神を礼拝する”ことです。「礼拝」という言葉を聞くと、何か儀式をすることと思われがちだが、簡単に言うと「神さま大好き!」という心の表われが「礼拝」なのです。英語では礼拝を“Worship”(ワーシップ)と言ったりするが、これは“価値あるものとみなす”という意味の古い英単語に由来しています。「神さまこそ私にとって最も価値ある存在」として、神のために生きる時に人間は正常に機能して最も安定した歩みができるように造られています。こんなことを書くと無神論者からは「自分は神を信じてないし何にも依存していない。自力で生きている」と反論が来そうであるが、どんな人にもその人を動かしている動機があります。それは富であったり、名誉、快楽、アルコール、人の手で作った神々などがそれです。一番価値があるとし、大切にしているものが「神」となっているのです。聖書は、私たちを創造した神以外を第一にすることを“偶像礼拝”と呼んでいます。車を走らせるためにはガソリンタンクにガソリンを入れなければ走らない。自分にとっては体に良いからといってオリーブオイルやゴマ油を入れたら、いずれはエンジンが壊れるでしょう。私たちも同じように、メーカーである神が造られた仕様に生きなければ必ず歪みが出てきます。
 今から二千年前、イエスさまは罪の奴隷であった私たちを買い取ってくださり、信じる者に聖霊が降り人生変えられていった。Happy Pentecost.