「私は」「私が」「私を」と“自分”を主張しなければ生きていけないように見える世の中にあって、今礼拝で学んでいる出エジプト記の学びは大変恵まれる。私の毎週の礼拝メッセージでは必ずと言って良いほど「神実現」や「主にあって何とかなる」といった内容が出て来る。それは週の大半、不安や心配の故に自分の願いがかなえられるために一生懸命努力しているのに、一向に消えないストレスと戦っている多くの人たちのために意識的に語っている。世の中の価値観が植え付けられてしまっている人たちに聖書の価値観によって解放される世界を是非味わっていただきたいという牧師の切なる願いである。人は何らかの形で自分が主人公になりたいと願い、それが達成できると一時的な満足感はあるが、すぐに次なるオファーを求めてしまう。それが生きる活力になっていると言われるが、聖書は、主人公は“神”であって、私たちはそのお方に従う従者にしかすぎないことを教えている。そして自分のために用いている活力を神の願いが実現されるために用いるならば、私たちの全ての必要は神が添えて与えてくださるとまで書いてある。
 ある書物の中に「人生は思うままにならないのが当たり前であり、それ故にありがたいのだ。人の思いというものの中には、良いものもあるが、よこしまなものもたくさんある。それがもし、人の思いのままになるとしたら、我々は安心して生きていられまい。思うままにならないからこそ、安心して暮らすことができるのだ。『あんなやつ、死んでしまえ』という思いが、そのまま実現するとしたら、誰も安心して生きていることはできません。人生が思うままにならないということは、考えようによってはありがたいことなのです。」という内容のことが書かれてあった。
 創世記を読むと、アダムとエバも自分の願いを叶える人生に方向転換してからすぐに責任転嫁が始まり、殺人が起こり、一夫多妻制になり復讐の文化が形成されていった。実はこの世は“神のため”にあるのです。