“五月病”という言葉もあるが、四月から様々な環境が変わり、この時期には病んだり落ち込んだりと複数の相談を受けることが多い。内容は様々であるが、どれも共感できる。何とかしてあげたいとは思うが祈ることしかできない。しかし私はどんな問題も、“主にあって何とかなる!”と信じて疑わない。主が登場されるまでの期間、私たちの忍耐力が試される。ダメなら他の道を探っても良いと思う。それも神が開かれる道であると確信している。私も人生を振り返ってみて思うことは、“主にあって何とかなっていた”である。
 今から3500年ほど前に激しい飢饉の故にエジプトに移住していたイスラエルの数が増えるに従い、それに脅威を抱く王が彼らに重い労役を科すようになった。神に忘れ去られたかのような長い苦しみを経て、ある日突然神は「わたしはあなたたちの苦しみ、うめき、叫びを知っている。わたしがあなたを救い助ける!」と声をかけられた。神を信じる者にとっては、忘れることなくすべて知っていてくださっているお方がいることが大きな励ましである。“祈り”は確かに力である。
先日友人が老後の貯蓄がなくて心配だという話をしていたので、私は質問した。「この日本で、老後のために実際、数百万、数千万円貯めることができている人がどの位いる? 私たちの周りで貯蓄がなかったから住む場所を失い餓死した人がどの位いる?」すると友人は、「確かに一人もいない」と返答した。神は何とかしてくださるのである。
 私が読んだ書物の中にこう書かれていた。「きょう私が涙を流したとしても、病気で苦しんだとしても、大したことではありません。神の真実さは、私たちの短い人生を数年もしくは数十年引き伸ばすかどうかの次元ではありません。私たちが本当に神の約束を信じるなら、神は私たちの死までも責任を取ってくださいます。神が責任を取ることのできないことは私たちの人生には起こりません。」 ハレルヤ主よ感謝します!