先日、花園チャペルで“プレイズ&カフェ”という集会が行われた。実は私たちの教会は、開拓スタートからこの13年間、借り物の教会であったこともあり日曜日だけ礼拝をして、平日にこれらの類の集会は全くやってこなかった。新会堂を献堂してから半年が経過して、そろそろPAの調整なども整い始めたので、今回は恵先生がすべてを仕切って第一弾の賛美集会の時を持つことができた。内向きを目的とした集会で、外部には全く宣伝しなかったので、人数がそんなにいたわけではなかったが、濃厚な主の臨在がそこにあった。人が沢山いると恵まれるような錯覚に陥ることがあるが、それはただ雰囲気に呑まれている可能性もある。主の臨在があれば人数は関係ないことが証明された。詩篇22篇3節には「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」とあるが、そこにいた人はみなそれを体験したように思う。賛美集会に初めて参加されたある教会メンバーご夫妻は、「参加するまで、“不気味”だと思っていましたが来て良かったです!」とお話しくださった。そして定期的に行なって欲しいという要望も沢山きた。
世の中にある様々なイベントやコンサートや音楽会などでは感情的・精神的・肉体的な部分においては感動したり満たされる部分があることを私も知っている。しかし霊的部分が共鳴する体験は、神さまを賛美し礼拝する時以外に感じたことはない。それはただ楽しかったとか満足したというようなレベルではない。言葉では表現できない恵みが注がれるのである。歴代誌下5章には、ソロモンが建設した新しい神殿に契約の箱が運び込まれたとき栄光の雲が神殿を満たし、祭司たちは雲によって聖所で奉仕することができなかったと書かれていますが、その一部分を体感できたように思う。
教会でなされる礼拝や賛美やお祈りは、ただの気休めではない。気が付かなくても確実に神さまの霊が私たちの中に注がれている時間である。