本日で10年近く毎週礼拝してきた東大阪市東石切町での礼拝が最後となる。様々な主にあるドラマが繰り広げられてきた場所であり感無量である。この場所を離れなければならないことに、感慨深いものがあるが、主が導かれる地に入っていかなければなりません。旧約聖書に登場するアブラハムやモーセも同じような思いで旅をしたのではないか?と、しみじみ考えさせられた。人の悩みや心配事は、今も四千年前も変わってはいない。文明文化の違いはあるが、人が求めているものも本質的にはどの時代もどの国の人々も同じである。私たちの人生が“神実現”であるならば、示される場所が自分の好みではなくても従っていかなければならない。しかしそこに真の祝福が待っている。
 私たちがこの地を離れるにあたって忘れてはならないことは、主が東大阪福音教会と藤長先生を用いて、9年間も私たちが礼拝する会堂を備えてくださったこと。ダイワハウスさんが、通常ではしないサービスを提供してくださり会堂建築が可能になったこと。石切チャペルを出て、新会堂が建て上げられるまでの期間、私たちだけにイベントホールをお貸しくださった街路樹さん。これによって路頭に迷うことなく、安心して礼拝を捧げ、荷物の出し入れを毎回する必要がなく助かったこと。これらの親切は間違いなくすべて“主”から出たものです。かつてバビロンに捕囚されていたイスラエルの民をエルサレムに帰還させ、しかも神殿建設を促し経済的にも助けたのは、異教の国ペルシヤのクロス王でした。誰が彼らの心を動かしたのか? 聖書には「主がなされたこと」だと記録されている。
 「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい。」花園の地でもこの御言葉を握って進んでいきたい。ハレルヤ主よ、感謝します!