新約聖書の中に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)という言葉がある。これが教会の本来あるべき姿ではないかと思わされている。聖書が示す“教会”とは“会堂”のことではない。イエス・キリストの御名によって集まることが、“教会”です。“会堂”は、集まるために便宜上使用される“箱”のようなもの。どんな立派な建物でも、そこに祈りや愛や共感がなければ、“教会”とは言えない。
 先週の礼拝の後、入堂式や献堂式に向けてのトーンチャイムの練習が行われていたが、勿論全員が参加するわけではないので帰る人もいれば、練習が終わるのを待っている人たちもいる。その中から数人の方々が、新会堂プレオープン記念コンサートのチラシ折りを誰に促されるわけでもなく自発的に始められた。コーヒーコーナーの後片付けをする方もいれば、おしゃべりしておられる方や教会移転に向けて、荷物のチェックをしておられる方もいる。引っ越しのために車を出すことを申し出てくださった方々もいる。掃除をして戸締りをしてくださる方もいる。勿論祈っていてくださる方も多くいらっしゃる。私はキリストの体なる教会を構成しているお一人一人が、それぞれ違った与えられているものをもって神さまに仕えておられる姿に感動した。
 そして先日、石切チャペルから35キロ離れている堺チャペルの礼拝後、長老さまから「来月の2週目は引っ越しがあるから、堺チャペルはお休みにしましょう。私たちも石切チャペルへ合流します。何かお手伝いさせてください!」長老さまは85歳。足も悪くしておられる。「私にも何かできるはず! 皿一枚でも運ばせて欲しい!」との勢いある申し出に拒否することができず涙が出そうになった。他のメンバーも同意して来られることになった。遠い場所の話で私たちには関係ないというのではなく、「共に喜び何かお手伝いをしたい」というお気持ちにキリストによる一致を見させていただき感動が絶えない。主は生きておられる。