時に神様が私たちを強く打たれることがあります。私たちを今よりも強くするためです。ボクシングの選手は、うまくパンチしなければなりませんが、同時に、うまく打たれなければなりません。KOパンチ一発で勝つこともあります。打たれ続けても平気そうにしていると、相手選手の力が抜け、そこで一発打つと、それが勝利を決めるパンチになることがあるのです。ですから、ボクシングの選手は、打たれる練習も欠かせません。見方を変えれば、ボクシングはどちらがより長く耐えられるかの戦いなのです。私たちも、打たれてもびくともしないよう信仰を鍛える必要があります。
 細くて長い竹は、激しい風が吹いても倒れません。間にある節が支えてくれるからです。その節を形成するために、竹は一時的に成長を止めます。節がなければ、つるつるして見た目もいいでしょうが、雪や風に耐えられなくなってしまいます。竹を危機の中で耐えられるように支えてくれるのは、ほかでもない竹の節々なのです。私たちの人生も、試練や苦難、鍛錬を通して、人生の節が造られ、それによってさらに強くなります。失業や病気、貧困、失敗などの苦しみは、私たちの成長を少しの間遅らせるかもしれません。しかし、それによって造られた人生の節は、私たちをさらに強くしてくれます。問題にぶつかったとき、神様がまた一つ、節を作ってくださっているのだと信じましょう。神さまは、試練を通して私たちの侵攻をさらに堅固にしてくださるのです。
              イ・ジンヒ著「荒野を読む」より抜粋
 私は恥ずかしながら竹の節の役目について知らなかったのですが、ここから学びました。どうして節ができるのか不思議ですよね? 神のなさる業であると思いました。竹の節にさえ大切な役割を与えておられるのなら、私たちの人生の節の時は辛く乗り越えるのに忍耐が必要ですが、確実に神さまのご介入があってのことだと考えると勇気が与えられます。