先週、ある方がこのようなメッセージを送ってこられた。「昨日NHKの『ダーウィンが来た』を見ました。イワシはアフリカの先端から寒流に乗って下って行くそうですが何のためにあの巨大集団になって下るのか解明されていないそうです。旅の間にイルカや鳥に食べられ鯨に一挙に何千匹も食べられるそうです。私は神様の摂理を黙想しました。イワシは他の動物に食べられる為に旅をするのでは? 私の人生の旅路も神の御手の中にあるのだと感じました。食べられるのは嫌だけど、誰かの為に食べられるのも私の使命かも?と思いました。」とても深い洞察だと思った。牧師はそうだと思っても、「あなたの使命は喰われることです!」なんてことはなかなか言えないものである。
 今、礼拝メッセージに登場するパウロは、クリスチャンの弾圧することに躍起になっていましたが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会い回心、そして3 回にわたるアジア、ギリシャへの宣教旅行を行ない、数々の災難、出会いと別れ、不本意な同胞との対立を経て、最後の旅に向かいます。パウロの予定は、窮乏しているエルサレム教会に援助金を持参した後、ローマ経由でイスパニアへ行き福音を述べ伝える予定でしたが、エルサレムで投獄され、囚人としてローマへ護送されることになりますが宣教のチャンスに恵まれます。これはパウロの当初の計画ではなく主のご計画でした。私たちはパウロのように劇的ではなくとも、自分の計画通りでない病気、失望、喪失など思いがけない出来事や不本意な道などの経験があるのではないでしょうか。しかし、それらはキリスト者にとっては挫折ではなく、悲劇でも不運でもありません。全てが主のため、復活の主のご計画であると考えられないでしょうか。生きるも死ぬも主に下駄を預けた身であると考えると余計な心配や気張りがなくなります。「勇気を出しなさい」、「共にいる」と言って下さる主に自分を預けると、心に余裕が生まれ、豊かな人生を送ることができるものと確信します。