イエスさまの弟子たちにとっての“エルサレム”は、あまり良い印象がないのではないかと思われる。なぜならそこはイエスさまを裏切った場所であり、十字架にかけられた場所である。クリスチャンに対する大迫害が起こり戸を固く閉じて隠れるような生活をしていた場所でもある。彼らにとっての“エルサレム”は、悲しみ、絶望、孤独、不安、恐れなど負の要素しかない場所であった。恐らく彼らはそこから逃れたいと願ったことでしょう。でも主は「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。」(使徒行伝1章4節)と言われ、また「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章8節)と言われました。弟子たちの弱さの象徴とも言える“エルサレム”に留まり、そこからキリストが生きておられる証人になるのだというのです。お言葉通り祈り留まっていたときに聖霊がくだり力を受けました。その時から彼らにとってのエルサレムは、“主が甦られた場所”へと変わったのです。まさに“弱さのエルサレム”から“強さのエルサレム”になったのです。
 私たちにも当時の弟子たちのように、何らかの“エルサレム”(弱さ)を覚えることがあるでしょう。日常であったり、職場や学び舎、人間関係の中にそういった弱さへと導く要因がいくつもある。そして多くの人たちは、そこから逃れたいと願うのですが、神を信じる人たちは、エルサレムに留まり、そこからスタートすることができるのです。何のために留まるのか? 弱さがなければ人は真剣に祈りはしません。“弱さ”は祈りへと導く最大の宝です。だからこそ、そこに留まってみ言葉を握って主に祈るのです。そうこうしているうちに、イエスさまの甦りの力を体験するようになり、いつの間にか私たちの人生は動き出すようになります。神を信じる者にとってのエルサレムは最大のチャンスです!