先日、ある方(愛称:おっちゃん)の直葬の司式をさせていただいた。クリスチャンではあったのですが、どこの教会にも属していない人でした。いくつかの教会を渡り歩いている人で、病床で「関西カルバリーに行きたい・・・」と言っておられたことがキッカケとなり、ご遺族の要請があったことから私が司式をする運びとなった。未信者の妹さんによると昔はかなり荒くれ者だったようでヤクザまがいの仕事もしていたようです。しかしイエスさまを信じてからガラリと生き方が変わったとのこと。人からむしり取る生き方から、与える人になったそうです。火葬前式には何人か“おっちゃん”が関わっていたご友人が参列されていてお話しをお伺いすると、“おっちゃん”の悪い話題は一切出てこない。生前に「おっちゃんには、こんな助けをいただいた。」「こんな親切をしてもらった。」という話題ばかり。確かに私たちの教会にも何年も前に来られていた時期には、教会の子どもたちに毎週お菓子を持ってきて配っておられた。また喫茶店の手作りサンドイッチを毎週日曜日、私に持って来てくださっていた。ホテルのレストランに招待してくださったこともあった。親しい人には、いつも「牧師先生は大切にせなあかんぞ!」と言っておられたようで、ご自身がそれを実践しておられたことに感動した。
ジェラール・シャンドリの名言の中に「一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」というのがある。私たちはこの世で、“得る”ことばかり求めていないだろうか? でも結局、人生の最後に残るものは、“得た”ものではなく“与えた”ものであることを彼は証明してくれた。“おっちゃん”には学歴も名誉も財産もなかった。この世の中で受けたものは少ないように見えた。でも与えたものが想い出として多くの人たちの心に残った。私もそのような生き方をしたいと“おっちゃん”の人生の最後に願わされた。
「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)