カトリックの神父さんに、「どうしてSt.(聖)フランシスコなど、カトリックでは名前の前に“聖”とつけて聖人とするのですか?」と質問したことがあった。それに対して「勿論、イエスさまを手本として生きていかなければならないのですが、昔の偉人というよりも、その時代その時代に見習うべき人物を立てると、もっと身近に感じ目標にもしやすいでしょう? 聖人というのは、我々が、『この人のようになりたい』という思いを与えるための存在なのです。」との説明を受けた。
 確かに私たちの身近に模範となるべき人がいると、その人を目標に生きることができる。私も年齢的に、これからどのような生き方をするべきか?と自問自答することがあるが、いつも結論は、「若い世代の人たちに希望を与えることができるよう年を重ねていく」ということ。勿論老いる弱さを思いやる必要はあるが、そこばかり焦点がいくと一種の諦めのようなものが心を覆ってしまう。もし私の周りに日曜日に一回しか礼拝をしない教会ばかりであったら、「一回のメッセージは8時間労働に匹敵するのだから」と言って、午後礼拝も堺チャペルの夕礼拝もしなかったでしょう。しかし母教会の大川先生は私の年齢の時には、日曜日三回の礼拝をしてから、飛行機でカナダやアメリカに飛んで時差を利用して四回目の礼拝を現地でしておられた。私はそれを身近に見ていたので、自分にもできると思えた。数日前にその大川先生ご夫妻と大阪でお会いしたが、ある聖会でのご用をされ一日中お疲れのはずだが、私たちの会堂建設予定地にわざわざ出向いて来られお祈りくださった。奥様先生は、「色々と思うように体が動かなくなってきたけど、そんなこと言ってられないわよー」と80歳代になっても全力で主の業に励んでおられる姿に、私は大きな力をいただいた。数年前に私の体力が落ちてきたことを実感した時に、加齢だからと諦めずにスイミングに通う気持ちになれたのは、99歳の方が目の前で100回腕立て伏せをされた姿を思い出したから。年配の方々が長く早く泳いでおられる姿を見ると、自分はまだまだだと思えるようになった。若者に夢を与えるものになりたいと思う。