「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント12:10)
人生にはどうにもならないことがたくさんあります。時代も性別も国籍も体形も髪の色も、すべては定められたことであって人の選択の余地を越えたどうにもならないことばかりです。それ以外にも、生まれながらの身体や精神の障がいがあり、個人の選択を越えた戦禍や天災などの悲劇があります。人はどんなに恵まれた人であっても、そのうちの一つや二つ、必ずこうした宿命的とも言える弱さととげを背負わされてあえいでいます。
しかしまた、多くの人生の勝利者たちの証言を聞くと、何と多くの人々が、その宿命的なとげや弱さを転機として、その人独自の新境地を展開させてきたことでしょう。ヘレンケラーしかり、家庭的不遇に育ったチャップリンしかり、身近なところでは、水野源三さんや星野富弘さんしかりです。使徒パウロは、自分の身体的なとげのために、それを取り除いてくださいと、神に三度も祈りましたが、三回ともつき返されます。 神からの答えは、それを取り除くことではなくて、その痛みを活用せよということでした。主は、わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。と言われたのです。ですから、「私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と語っています。それは、未解決だからこそ見出すことができた解決であり、失ったからこそ、つかみ取ることのできた大発見でした。あなたの弱さとあなたのとげ、それは未知なる恵みの宝庫への入り口です。(「日々の宝」吉持章著書より)
ある方が五行歌の中に「子供を幸せにするのではなくどんな状況でも幸せになれる子どもを育てよ」と書かれていたが、聖書もそのようなメッセージが多い。それは現実を諦めよというのではなく、解決や癒しを求め祈りながらも“今”を受けとめながら神に委ねるということです。