「多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」(ヨハネ2:24)
ヨハネによる福音書の中には、「しるし」という言葉が多く見受けられます。それは奇跡のことをそう表現しているのですが、何故「しるし」なのでしょうか? 英語ではSign(サイン)と書きますが、これはそれそのものが重要なのではなく、それが指して人や物が大切なのです。大勢の人が奇跡を見てイエスさまを信じたのですが、主は彼らを信頼しなかったというのです。奇跡により心動かされ信じても、その感動は一時的なものに過ぎず、感情はいつか必ず冷めるものです。しるしだけを求めるなら、試練の時には立ち行かなくなってしまいます。必ずつまずき、離れ去ってしまいます。それは軸が自分にあり、自分が中心なので、自分のための信仰で、自分に得るものが無ければ離れてしまうのです。
主は奇跡をされた時、必ず御言葉によって行われました。しかし人々は、そのしるしが指し示している“御言葉”や“イエスさまは救い主”ということより、目に見える奇跡の方に心奪われ、夢中になり奇跡を見て信じた人々は、皆、去ってしまいました。出エジプトを経験したイスラエルはあれほどの、神の超自然のわざを見たのに、すぐ荒野でつぶやき、荒野でも奇跡を見続けたにかかわらず、結局約束の土地に入れず、荒野で不信仰のゆえに滅んでしまった。奇跡的に物事が動くとすぐにこれが御心かと思う。それ程、人はしるしを求めてしまう。
イエスさまの弟子たちも、しるしを見て信じていたときには、危機が迫るとすぐに逃げ、不安と恐れが支配していました。しかし彼らが本当の意味で変えられたのは、「聖書とイエスさまが言われた言葉を信じた」(ヨハネ2:22)時からだったのです。彼らは殉教をも恐れない宣教者になりました。私たちが試練を乗り越える秘訣は、これしかありません。
自分の側に立つと、奇跡があるかないか、問題が解決するかしないか、病が癒されるかどうかが気になりますが、神の側に立つと、主が戦ってくださるから大丈夫、という安心感に変えられるから不思議です。