人は幸せを求めながら毎日を生きています。しかし私はかなり前からこの「幸せ」という言葉に違和感を覚えるようになっていた。なぜならこの世が言っている「幸せ」と、聖書が教える「幸せ」には、大きなギャップがあるからです。例えば、「幸せになってください!」とか、「あなたたちの幸せを願っています」と語ったりすることがあるが、恐らくそこでの「幸せ」の意味は、良い学校、良い就職先、良い収入、良い結婚が与えられ、子宝に恵まれ、病気せず、悩み事なく、良い老後を迎えることだと考えられる。そして、それらのものが無ければある意味「不幸な人」として思われるのです。しかし、それらのものが無くても、幸せ感に溢れている人たちに、私は今まで沢山出会ってきた。以下はリビングライフの黙想エッセイに書かれていた内容です。
 最近「幸せになりたい。もう不幸な人生は嫌だ。私には幸せになる権利がある」という言葉を、よく聞きます。ところが、自分の幸せだけを考えていると、誰かのために自分が不幸になったとき、その人を避けるようになります。そして、自分が幸せになることが一番と考え、自分のやりたいように行動します。そうすると、ある時から主に従うのが難しくなります。神さまの言葉に従うことは、時には苦痛に感じ、また困難を伴うからです。自分の幸せが人生の基準になると、神さまの言葉は力を失い、人生の基準ではなくなります。時間が経つにつれて、よく分かってくることは、幸せは必ずしも自分を前に進ませるわけではないということです。幸せは、主に対する私たちの聖なる情熱をむしばんでしまうこともあります。幸せになる権利は、神さまの祝福の中に含まれていますが、自分の手で掴むものではありません。神さまは「心を決めなさい。本当に何が重要なのかを考えなさい。あなたの人生の最期に何を残したいと思うか。人生を何によって締めくくりたいのか?」と言われます。つかの間の幸せが重要なのではありません。聖なる人生を追い求めなさいという神さまの召しに従うことを選び、その道を歩み続けることが、人生において最も重要なことなのです。(ダニエル・キム師)