私は牧師としてメッセージをしている最中に、自分自身が料理されることがある。「自分自身が料理される」とはどういう意味なのか? それは自分が語っている言葉によって自分自身に気付きが与えられたり、学ばせられたり、今の在り方を変えなければと悟らされるということです。これは明らかに聖霊さまの促しであると確信しているが、先週もそれが起こった。「アブラハムは、神の声に従って、まだ見ぬ土地へ、どこへ行くのか知らないで故郷を出ていきました。そして神さまが与えると言われたカナンの土地に入りましたが、そこは先住民が住んでいる土地で、一歩の幅すらの土地さえ与えられませんでした。当然アブラハムは家を建てることもできず、その約束の土地を東西南北移動しながら、テント生活を余儀なくされました。しかし彼から一切不平不満の言葉は出てきません。なぜならこの地上で自分が満足できる場所ではなく、神が用意してくださっている永遠の都を待ち望んでいたからです。主は良いお方であることを、信じていたから、今の現実は主が与えてくださっているものとして受け止めることができたからです。信仰とは、“自分”ではなく、いつも“神”が中心となることです・・・」と語りながら、「そう語るあなたはどうなのか?」という問いかけが心の中にありました。
このところ教会移転のための土地探しで奔走している。駅前徒歩2分でロケーション良し、価格良し、ここが“神の御心”としか思えないような場所が出てきた時には舞い上がっていたが、そこが相手側の都合で買えなくなって、次の候補地は駅徒歩4分。悪くはないのですが、それより好条件の場所を見てしまっていた私には見劣りしてしまう。ある政治家が、「世界一になる理由は何があるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」と言った言葉を思い浮かべた。私たちの願いや好条件は、神さまにとっての願いや好条件ではない。2位でも3位でも、神さまが植えられた場所で輝かなければならない。アブラハムは、何も目を見張るようなことが起こらなくても、置かれた場所で、神さまの計画と願いを見上げながら喜んでいた。私も見習わなければと思わされた。