無神論者は、「人生に意味を見出したければ、神の存在を受け入れなければ不可能である。」と言っている。確かに、人間は偶然の所存であるとするならば、たまたま私たちはここに存在していて、意味なく生まれ、死んでいき、この地上で過ごした時間は、たまたま偶然であるから、何も意味も目的もなさない、と考えることができるでしょう。先週から日曜礼拝で学び始めた「伝道の書」は、この世の知恵と知識、誉れ、栄誉、財産、人材、仕事のすべてを得たソロモン王が晩年に書いたものです。  
 彼は創造主なる神さまを愛していた人ではありますが、周辺諸国との平和を保つために、周りの国の王の娘たちと政略結婚することによって、その国の持つ様々な異教の神々を取り込んでいきました。それによって、せっかく創造主なる神さまから知恵をいただいたにも関わらず、それを天の上を見上げるために用いるのではなく、地上のことだけを見つめ、そこに耳を傾けるようになり、いっさいは空(虚無)だという結論に達するようになりました。「伝道の書」の中でソロモンはこう告白しています。あらゆる知恵を用いて生きようと努力したが、結局、雨が降って、それが小川となり川となって海に達しても、蒸発して雲になり、また雨となって地に降るという、何も変わらない自然の循環のように、人間の営みも同じことの繰り返しで虚しいと悟り、それを打破するために、自分の好きなように生きるのが良いと考えました。そしてあらゆる快楽に身を任せたが、何も満たされるものはないことに気づくのです。彼は、広大な土地に大豪邸を建て、庭には小川や池を作り、沢山の妻やそばめたちと過ごし、何でも希望通りに動いてくれる大勢の召使いを雇い、仕事も順調、人間関係も恵まれ、王である故に、何の制約もなく、金を石ころのように扱うことができるほどの経済力を手にしておきながら、一切は“空”であると告白したのです。
 それは、この地上のものを見続け、この地上の発するメッセージに、耳を傾け続けたことが大きな原因でした。大切なことは、私たちに生を与え、私たちを用い、ご自身の歴史を進めておられる“主”に目を留め、そこから発信される言葉に耳を傾けることです。あなたにはその存在そのものに意味があり目的があります。創造主と共に歩む道には、満足と安心があります。
 「わたしの目には,あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)