私たちは、「神さま、私を祝福してください! 恵みを与えてください。」と祈りをすることが多くあります。とかく“祝福”とか“恵み”というのは、何か自分の願いが叶えられたときに来るもののように思われがちです。もしそうであるならば、神さまの祝福は、断片的なものになってしまいます。なぜならこの地上での人生には、必ず何らかの悩みは起こるからです。勿論、そのような祈りをすることが間違っているわけではありません。聖書の中にも「祝福してください!」と祈っている場面はたくさん出てきます。しかし、今の瞬間瞬間が祝福であり恵みだと感じることができれば、もっと感謝が溢れるのではないかと思う。
 キム・ギョンファン師は、著書の中でこう証ししておられる。
 一代で富を築いた義父は、クリスチャン家庭に生まれた長男でしたが、教会には行かず、子どもたちも教会に通わせませんでした。ところが、私の妻は家族の中で最初にクリスチャンとなり、神学まで学びました。そして、宣教師を目指していた私と結婚しました。ところが、結婚して7年目に妻が倒れ、私たちは宣教の働きをあきらめることになりました。私は、「クリスチャンではない義父と義母は、この状況を見てどう思っているだろうか。もしかしたら、わが家の困難な状況によって神さまの栄光が覆われてしまうのではないだろうか」と、いつも心に不安がありました。そんなある日、妻が病床で書いた「神さま、私のからだの悪い部分よりも、まだ健康な部分のほうが多いことを感謝します」という感謝の祈りのことばが、あるキリスト教放送で紹介されました。義父はその祈りのことばを聞いて、「おまえたちが信じている神さまは大したお方のようだ」と言って、数年後に「その神さまを私も信じたい」と告白しました。その時まで私は、十字架は復活の栄光に向かって進んでいく過程だと考え、十字架そのものが栄光であるとは思っていませんでした。妻の病気が治って床から起き上がることが栄光であって、病気そのものが栄光であるとは考えられなかったのです。しかし、義父の告白を聞き、妻が病で苦しんでいる、その十字架の場こそ、栄光の場であったのだと気づかされました。生涯、自分を信じて生きてきた義父の頑なな心は、十字架の栄光の前に崩れ落ちたのです。妻の闘病は、義父を偉大な神さまに出会わせました。
 「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリ6:2b)